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良い死??
立岩 真也
2006/06/11 第22回DPI日本会議全国集会大阪大会(設立20周年記念)
於:国際障害者交流センター:ビッグアイ(大阪府堺市)
以下、昨年と今年、新聞に載ったもの2つを転載。これら含め、このところ書いてきたものを集めた
『希望について』
(青土社)今月発売。よろしくどうぞ。
■2005/03/03*
『ALS』という本を昨年の末に出してもらった(医学書院)。ありがたいことに多くの人に読んでいただいている。
題の通りALS=筋萎縮性側索硬化症の人たちのことを書いた本だ。ALSは全身の筋肉が動かなくなっていく、まだ治療法のない病気である。やがて息も苦しくなり、人工呼吸器が必要になる。わずかな身体の動きを使い、近ごろはコンピュータを使い、長い時間をかけて書かれた文章が多くある。それらを読み、たくさん引用し、私なりには考え、本にした。
様々なことが書かれ、語られている。たとえば病気のことを知らされること知らされないことについて。不動の身体とともに生きるすべについて。そして生きることや生きないことについて。
このごろ、周囲はあくまで中立を保つべきで、正確な情報は提供すべきだが、あとは本人が決めることだという話が主流である。わかるが、違うのではないかと感じてきた。この本を書いて、やはり違うと思った。
むろん多くの場合に正確な情報は必要である。また、その人にとって何がよいか、普通は本人に聞くのが一番よい。その普通のことがなされていないから、本人が決めるという主張も出てきた。
だが、とくに生き死ににかかわる時にはどうか。ALSの人は人工呼吸器をつけるかやめるか聞かれてしまう。私は臆病で、息苦しいのは辛い。長生きしたい。だからつける。だが「選ばない」人も多くいる。動かない身体のことや、代わりに動くことになる人たちを思ってのことである。
それが「自然な死」とされる。「本人が選んだ死」とされる。
しかし、毎日機械を使って生きており、そして息をして生きている私たちなのに、息するための機械を使わないのは変ではないか。その方が不自然ではないか。「自分らしく」も「自然に」もきっとよいことだ。ただ、それにこだわりすぎるとかえって、自分らしくも自然にもなれない。
そして、周囲が大変だからとその人に思わせてしまう社会とは、まず中立でさえない。次に、人は生きても死んでもどちらでもよいというのが社会のあり方だろうか。人が生きていくためにある場が社会であるのに。
周囲に左右され、自分の意志を通せないのは、主体性がなく、よくないことだろうか。そんなことはない。その人は優しい人である。そんな人にこそ「生きていなさい」と言うのが基本のあり方ではないか。実際多くのALSの人たちが、周囲が中立でなく、生を支持したために、生きることにして、暮らしている。
その同じ今、「尊厳死法」が検討されていると聞く。本人が前もって決めたなら、生きるための処置をしなくてよいとしようというものらしい。
ALSの人のことに続けて尊厳死法について書くと、この法は生きられる人でなく「末期」の人のための法で、話が別だと言うかもしれない。
たしかに呼吸器をつけて十何年、何十年というALSの人がたくさんいる。しかし、ALSの人の自発呼吸が困難な状態が「末期」と言われ、人工呼吸器装着が「延命措置」と言われてきたのも事実だ。また「尊厳死」を支持する時よく使われる「機械に生かされる」とか「たんなる延命」といった言葉もALSの人にずっと使われてきた。だからその人たちがこの法律が「怖い」と言うのは当然だと私は思う。
ならば「末期」を厳しく規定すればよいだろうか。だがそうすると、末期とはまさにもうすぐ亡くなる時になる。ならば急ぐことはない。末期ならなおさら、ゆっくりかまえたらよい。もちろん痛いこと苦しいことはいやなことだ。それはよくわかる。しかし多くの場合には、痛みや苦しみを和らげることができる。
意識がない状態はどうか。だがその時は苦しくもなく、死にたい思いもない。その人自身に死を早めたい理由がない。そしてどうしてほしいとその人は言いようもない。
だから事前に決めておいてもらおうと尊厳死賛成の人は言う。けれど、人は何を知り、何を思って決めるのだろう。
みなさんは違うかもしれない。だが、面倒が長引くからと、「延命」を希望しない関係者、希望しないでくれと本人に言う関係者がいる。また、まわりの人がそんな人であることを知り、弱気になり、書面にサインするだろう人を、私は具体的に思い浮かべられる。
そして人は「ただ生きているだけ」などと言われてきたALSの人たちが、実際どのように暮らしてきたかも知らない。知り、ゆっくり考えてよことがたくさんある。命を救う時には急がなければならない。しかし尊厳死法ができても命が助かる人はいないのである。
* 『聖教新聞』2005年3月3日朝刊に掲載。拙著の紹介をさせていただけるということで書いた原稿。掲載時に付けられた題・見出しは「ALSと向き合って」「社会は人が生きていくための場」「中立でなく”生の支持”こそ」。この年の一月、「尊厳死とホスピスを推進する与党議員懇話会」が結成された。
■2006/04/21
終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。
なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。
☆01 『朝日新聞』2006年4月21日朝刊の「三者三論」の欄に掲載された。聞き手は権敬淑記者。新聞の方でつけてもらった題は「生き延びるのは悪くない」。もう二人は谷田憲俊(アジア生命倫理学会副会長)、山崎章郎(日本ホスピス緩和ケア協会会長)。この年の三月二五日、射水市民病院で七人の患者が人工呼吸器を医師から取り外され死亡したことについて病院側が記者会見を行ない、新聞で報道された。その日に取材を受け、翌二六日に『読売新聞』にごく短いコメントが、『京都新聞』に短いコメントが掲載された(ホームページに掲載)。これらで述べたことでもあるが、この後、本人あるいは家族の同意があったかどうかをもっぱら問題にし、さらに、同意があれば問題なしとする「ルール」を作るべきだといった論が多く続いてしまうことになった。主要な問題はそのようなところにあるのではないだろうと私は考えてきたから、では何を考えるべきなのか、その上で何が言えるのかを述べようとした。
*以下、大会プログラムより。
http://www.dpi-japan.org/2006soukai(0526).doc
【特別分科会1】命の重さを問う
★テーマ「生まれる権利そして生き続けるための思想」
★趣旨
障害者の命を守ることは、すべての人の命を大切に考えることである。経済効率優先の社会の中で呼吸器をつけた人が介助者とともに生きることが許されない社会を「尊厳死法」という名のもとにつくろうとする人たちがいる。どのような介助システムにおいても、24時間の介助が必要な人には、それが完全に保障されなければならない。こうした重い障害を持つ人々の命を守っていくためには、国民に理解してもらえるような論理的で説得力のある説明が必要となる。
この特別分科会では、今後必ず問われることになるこれらの課題について、最先端で活躍されている皆様にお集まりいただき、できうる限りの答えを出していきたいと考える。
★シンポジスト
・
森岡正博
さん(大阪府立大学教授)
・立岩真也さん(立命館大学大学院教授)
・橋本 操さん(日本ALS協会会長)
・川口有美子さん(さくら会理事)
・片岡 博 (DPI日本会議常任委員・全国青い芝の会代表)
コーディネーター
・中西正司(DPI日本会議常任委員・ヒューマンケア協会代表)
■紹介・言及
◆立岩 真也 2009/03/10
『唯の生』
,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209
[amazon]
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[kinokuniya]
UP:200606 REV:0825, 20210505
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尊厳死・安楽死 2006
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