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生き延びるのは悪くない

立岩 真也 2006/04/21 『朝日新聞』2006/04/21朝刊


 *この文章は、「初歩的なことを幾つか」と題し、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

立岩真也『希望について』表紙

 *以下は掲載された記事。題は新聞社による。

 終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
 そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
 意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
 他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
 それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。
 なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
 負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
 家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
 尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
 物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。
(聞き手・権 敬淑)

教材・模試入試問題での使用

◆2008 河合塾『2007年度 医学部学士編入 小論文』
 ※他の二者のものを含め朝日新聞掲載時の文章を使用。

◆2014年度 福島大学大学院地域政策科学研究科入学試験
 「初歩的なことを幾つか」全文
 「終末期という言葉は余命いくばくもない[…]。過ごしてもらえない社会ではない。」

 

 *以下は4月に『朝日新聞』に掲載される文章(他にお二人の方に取材した文章が掲載されるそうです)の草稿。4月12日に取材があり、17日に送られた案を、こちらで書き換えたもの。さらに変更(字数削減)されると思います(2006.4.18)。

 終末期というが、どんな状況のことを指しているのか。もし、余命いくばくもないというのなら、急ぐことはなにもない。その短い期間をできるだけ苦しくないよう過ごせるよう世話し、見守っていればよい。日本の医療は苦しみを減らすのが下手だが、多くの場合苦痛の緩和は可能だ。
  そうでなく、今の状態がもっと続くようなら、それは普通の言葉の意味では終末期ではない。別の状態だ。その場合には、多く、植物状態と呼ばれたりする遷延性意識障害の状態が想定されている。だが、それがどんな状態なのかは外からわからない。そしてこの状態はとても多様であり変化もする。回復を見せることもかなりある。脳死について議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙なこの状態をあっさり片付けようとしている。
 意識がないのであれば、当然、本人には苦しみもない。プラス・マイナス・ゼロか、何かをかすかにでも感じているか、ときに状態がよくなるかだ。だから、本人にわるいことはない。
 他方、意識があればどうかか。人口呼吸器をつけた状態が苦しいとか悲惨だとか言われるが、それは技術的な問題によるのでなければ、思いこみによる。息が苦しくなれば、身体も辛いし、気も滅入ってくる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸がだんだん難しくなってくる筋萎縮性側策硬化症(ALS)の人たちが書いた手記などを読むと、呼吸器をつけてどんなに楽になったかが書かれている。
 それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよい、と言えるだろうか。まずその決定は、本人にも事前にはわからない状態を想像しての決定だ。自分が自分にとってよいことを知っているから、その本人に決めさせようと私たちは考える。しかしこの場合の本人は、その状態を実際には知らない。そして実際に知った時には気持ちが変わったことを伝えられない状態になっていたりする。あるいは眠っているような状態で、それは、繰り返すが、その本人に悪い状態ではない。
 では、なぜわからないのに、その時の本人にはマイナスでないのに、前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。しかしまず、「機械につながれたたんなる延命」とか、否定的に語られてばかりいる。機械を使って生き延びて、なにもわるいことはない。そして、動けなければ動けないで、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
 さらに多くの人は、迷惑をかけ負担をかけると思うから、早めに死ぬことに決める。そのような思いに発する決定を、「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。どんな理由にあるにせよ自殺しようとする人を、すくなくともいったん、人々は止めようとするではないか。なのになぜ、この場面では周囲は「中立」を言い、医療者も医療者でない周囲も情報を提供するだけだと言うのか。しかもここでは、死の理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めるということは、たしかにあなたは迷惑だから死んでもらってよいと言うことと同じではないか。それはちがうだろう。本人の気持ちはそれとして聞き、受け止めた上で、しかし心配しなくてよいと言えばよい。
 家族には簡単にそう言えない事情がある。実際にほんとうにたいへんだからだ。しかし、言えないなら、言えるような状態にすればよい。世話のことお金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
 尊厳死は経済の問題とは関係ない、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかしそれは事実認識として間違っている。本人の希望と社会の中立をどうしても言いたいのなら、どんなときにも現実に生きていられることができるようになることが先のはずだ。 そうでなければ、金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。ならば、それはそれとして議論できる。物があって、人がいれば、人は生きていける。物はある。人も、少子高齢化でいなくなるなどと言う人もいるが、そんなことはまったくない。人もいる。どう考えても、この社会は、病に臥せって亡くなるまでの、数日の、あるいは数月の、あるいは数年の時間を過ごしてもらうことができないような社会ではない。こうして考えていくと、「新たなルール」は必要か。私はいらないと思う。


UP:20060418 REV:20060429
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006  ◇良い死!研究会  ◇立岩 真也
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