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自由主義及び修正的自由主義に就いて

立岩 真也 2006/12/01
『情況』第3期7-6(2006-11・12):68-87(特集:諸倫理のポリティックス)

last update: 201110122

※ この文章のテキストファイルを立岩からお送りします。150円です。

 *校正済み

■はじめに:癖があると思うこと

 いま検討して批判しなければならないのは、以下で対象とするものと別のもの、たとえば「ネオリベラリズム」等々であるのかもしれない。しかし、その作業の必要は疑いないとして、相対的に良質なもの、かなりの部分味方であり仲間であるものを検討しておく必要も、またなくはないと思う。ここではそれを行なう。各々の論点の多くはこれまでに書いてきたことである(立岩[1997][2004a]等)。ただ、全体の概観を示すことの意義がいくらかあると思う。また、いくつかの論点については、すこしていねいに論の順序を確認し、私が述べることが、すくなくともあるところまで、すこしも突飛なものでないことを示す。

 […]

■■I 四つ

■1)市場主義

■2)機会の平等

■3)集計・合意

■4)選好への(非)関与

■■II 選好への対し方

■等値されないこと

■なぜその人に従わないのか

■代わりに肯定されるもの・社会の責任

■たしかに困難ではあること

■解の出しにくさと、にもかかわらず


■註
★01 ここでは西洋的な議論に対して東洋的ななにかを対置しようなどというのではない。不思議な話はどこにいても不思議な話だと思うし、その不思議な話と別のまともな話はどこにでもあると思っている。ただ、局所的には位置取りが異なるのは確かだ。米国的な分脈では、自由主義者=リベラルな人たちに対置されるのは、宗教的原理主義者も含む保守派ということになっているが、私の立場は、前者の人たちと(同じところもありつつ)違うが、しかし後者とも異なる。
★02 市場の作動と所有権の設定を分けて述べた。ただ、労働については、すこし事態は複雑である。他のものであれば、それは誰もが、すくなくとも多くの人が利用・使用することができ、その帰属が問題になり、それを社会規範の水準で規定しようとすれば、所有権を設定することになる。ただ労働の場合には、自らは自らの身体を動かして働くことができるが、他人は直接にはその人を動かすことができない。そこで、なにか積極的な規約がなくても、その人は市場に出ていき、働き、その対価を得ることになる。その結果、その人の労働、労働能力――それは市場での需要、利用から反射的に規定されるものである――と対価との間に対応関係が生ずる(立岩[1997:44-47,335-337])。このような構図になっているから、こうした市場の作動自体が、生産に応じた取得という機制を現象させ、そしてそれを自明のものとさせるところがある。そしてここまでをいったん認める限り、この機制の否定は、事後的な対応としてあるしかなくなる。市場全般を否定しないとして、他のやり方があるかと考えると、他のものについては商品として価格がつくことを認めるけれども労働についてはそれを認めないという方策である。これは難しい。ただ、難しいことは、全面的に不可能であることを意味するものではない。組織内での所得の分配のあり方の変更などある程度のことはできる。同じことを順序を変えて言えば、それには限界があり、分配策として、具体的には政府を介した分配策として行なわざるをえない部分がある。ただ、ここでの分配は所得の再分配に限られる必要はなく、生産財の分配、労働の分配が要請もされ、また――もちろん、それが「経済」に及ぼす影響が懸念もされるのだが、それをふまえた上でも――可能であると私は考えている。cf.立岩[2002][2005c]等。どのように社会編成のあり方を考えたらよいと思うか、立岩[2004a]の序章、対談を収録した本につけ足した文章(稲葉・立岩[2006:52-63])でおおまかなことを述べた。
★03 リバタリアンの主張について、わりあい近くに書いたものとしては立岩[2005b]。立岩[2006]に収録されている。
★04 それにしてもなぜそのように言うのか。一つには科学ではないという言い方があるようだ。「旧厚生経済学」が批判され「新厚生経済学」が立ち上がる時にそのようなことが言われたという。教科書の類には必ずそのように書いてあるが、具体的にどのような文言でそのことを言っているのか。教えてもらえれば読んでみたいと思うが、それはあとの仕事としよう。伝聞でしか知らないが、何度聞いてもわからない。幾通りかの批判は可能である。
 科学であるがゆえに、価値判断を持ち込まないために、比較をしないという。それに対して、まず、価値判断をしないという判断それ自体が価値判断であるという指摘はある。この指摘はその通りである。ただ、それが価値判断であることを前提とした上で、その論の内部において価値判断をしないことはできるし、そのことはそれ自体としては責められるべきことではない。価値判断をしない学、学の領域があったとして、価値判断の場面に関わらない学、学の領域があったとして、それはかまわない。
 次に、その論は良い悪いを言わないのだが、その間、現状は現状のままで推移する。あるいはその流れが強化される。結局その論は、それを認めそれに加担することであるといった言われ方がある。そんなこともあるかもしれない。ただここではこのことを言いたいのでもないとしよう。
 しかし、ここにあるのはどのように財を分けるのかという主題である。価値判断をしようというのに価値判断を避けるという話自体がおかしい。おかしくないと言うには前段を否定するしかないが、それをどのように否定できるのか、私には見当がつかない。
 次に、価値判断はしている。仮に、参加者のすべてが不利益を受けていないとして、ゆえにそれを是認することも価値判断である。ただ、それはそうでない場合よりよいことについては異論のないところであるとして、その意味で、価値判断(価値を巡る争い)の対象にならないという論をいったんは認めるとしよう。個々人の選好を比較し優先順位をつけることから免れている、その意味での価値判断をせずにすんでいることも認めよう。しかし、その前段で価値判断をしている。事態をただしく見ればそう言うしかない。ことを本文で述べた。
 ここで経済が問題でなければ、つまり利害の衝突がありうる財の配分・分配が問題なのでなければ、ただたんに、人はそれぞれだからそれぞれのように、が可能であると言うかもしれない。しかしいつも同じことを言うが、この場合でも、人それぞれが何について決めてよいのかという問題はある。だが、市場主義者と同じように、自己決定主義者の多くがこのことに十分な注意を払っていないように思う(立岩[1998b])。では具体的に何をその人のもの(決定の対象)として指定するのか。生産物の帰属という規則でないどのような基準をそこに置くのか。このことについて考えてきた(立岩[1997:116ff.])。
★05 以上について立岩[2004a]第5章。
 社会的格差について社会的関心が高まっているとして、それ自体はよいことではあるのだろう。多くの本が出されていて、それもまたよいことではあるのだろう。
 しかし以前から不思議に思うのは、まず一つ、変化(のあるなし)(ばかり)が着目されることである。格差が広がろうが状態が維持されていようが、いずれにせよ格差を問題にすることはできるし、問題にすべきではないか。この社会を放置しておけば、格差はなくなるとでも言うのであれば別だけれども、そんなことはありそうにもない。変化をめぐる多少の理解の差にさほど大きな意味があるとは私には思われない。たとえばいくらか縮小しているとしよう。それはわるいことではない。ではそのままでよいのか。そんなことはない。
 関連してもう一つ、「社会移動」(の様相の変化)が重視されることの意義がどれほどあるのだろうかと思う。親の職業と子の職業が違う、違わないといったことの意味である。(今なされている程度の)機会の平等では階層の固定性はなくならない(それはその通りである)ことを確認するといった意味はあり、その意義は否定しないけれども、では社会移動が活発になりさえすればそれでよいのかといえば、私はそのようには考えないということである。なされてきた議論には固定された身分制社会と自由な自由社会という図式があって、それを今にいたるまで引きずっているようにも思える。前者がよくないとして、ではそうでない自由競争社会はよいのかということである。
 そしてもう一つ、結局なぜ差が開く(開かない)のか、説明されているようで、基本的なところはよくわかないということが多いように思う。ここでも、以上と同じことは言える。つまり理由がわからなくても問題にすることはできるし、ときには理由がわからなくても対処法を示すことができることもある。それでも知りたくはある。だが、満足な説明と思えるものがなかなかない。もちろん実際に分配されるものの差は、能力の差に「比例」しているようには思えない。増幅されているように思える。何か差異を増幅させているのかを考える必要はあると思う。その際、労働能力が獲得され、そして同じになればその結果も同じになるはずだという論を無視せず、にもかかわらずさほどよいことが起こっているようにも思えないのはなぜかと考える必要があるはずである。例えば「比較優位」といった議論がある。あらゆる面において生産能力の点において劣っていても、交換・貿易は双方に、つまり劣っている側にも利益をもたらすという。これにも一理はある。その上でどう考えるのかである。なにごとかをやさしく語らねばならないという条件を付されている理論社のウェブサイトでの連載(立岩[2006-])でこのことについて、すこしだけ、書いてみている。家族・性別分業についての連載(立岩[2005-b])でも、このことは気になっている。
 そして本文で述べたのが、提示される対処法の不思議である。例えば、教育の機構を通して階層の再生産がなされていることが指摘される。これはその通りだ。さらに「ゆとり教育」がかえって階層間の格差を広げたと言われる。そうかもしれない。しかし代わりにどうするのか。現状を憂える人たちからも示されるのは、多く、結局は「機会の平等」の路線ではないか。また、直接に平等を志向するのでないにしても、訓練し、労働能力を与えれば仕事がやってくるといった類の話がある。これも、いくつかの現実の条件を考えるなら、信じ難い。「ワークフェア」について立岩[2005a]でごくごく簡単に触れている。
 それにしても、本当にそんなに単純に「機会の平等」を人は言うのだろうか。虚像を作ってしまい、そしてそれを批判するなら、それはむなしいことである。図式化し、批判することには慎重であるべきだ。ただどうも誇張とは思えないところがある。アナリティカル・マルクシズムの論客として知られるローマーといった人であってもそんな図式を展開する(Roemer[1998])。「労働インセンティヴ」をもってきて、人を働かせるためには報酬を差異化せざるをえないといった話ならそれなりにわかる。ところがそうでもない。それ自体がなにか信心の対象となっているように思われる。これは不思議なことだ。
 なお、「機会の平等」――がいけないと言うのではなく――だけでは足りないという主張は、予め結果がわかってしまってはおもしろくないとか、結果よりも過程の方が楽しいという感覚を否定するものではない。このことを持ち出して「結果の平等」が批判されることがあるが、それは的を外している。社会が与えるのは常に手段であり結果そのものではない。
★06 社会契約論などと呼ばれるが、すくなくともそのある一部について、実際には登場人物は一人であり、その一人が独り言を言い、一人芝居をしているではないかという指摘はこのことを言っている。
★07 それは「変革」を巡る議論にも関係する。半端に実在するようなしないような人間を持ち出し、存在性格が曖昧な人間に言いたいことを仮託することをやめて、自分が言いたいこと言うべきことは先に言ってしまった方がよい(立岩[2004b])。ただこのことは、人間の現実とまったく違うところでしか別の社会については語れないことを意味しない。私は語れると考えている(立岩[2004a]第3章)。
★08 ロナルド・ドゥオーキンの「資源の平等」の主張に対して、ローマーは結局それが「厚生(福祉)の平等」を含意することになると指摘し(Roemer[1986])、それにセンが肯定的に言及する(Sen[1992=1999:124])。立岩[2004a:328]で引用、紹介した。
★09 ここでもドゥオーキンのことを言っている。ドゥオーキンは、後にDworkin[2000=2002]に収められた論文で「安価な嗜好」(と「高価な嗜好」)を問題にして、効用・福祉の平等ではなく資源の平等を主張する。他方、安楽死・尊厳死を肯定する(Dworkin[1994=1998])。
★10 受け入れられないような意志・欲望に直面してしまって、困惑する。他害の場合には――何を他害とするかは簡単ではないが――他を害することはよくないとすればよいのだからまだ簡単ではある。問題はそうではない場合だ。そこには整合性のある議論を混乱させ困難にしてしまうことに対する恐れがあるように思える。だから、そのまま受け入れるかのでなければ異常なもの、怪物的なものとして放り出し、埒外に置く。かえってそれを見ないようにする。これは通俗的な指摘ではあるが、実際、当たっていなくはない。
 例えば、人の中に譲渡されないものとされるものという境界線を引くことは恣意的な行いであり、不当な介入であるとする。その結果、なんでも認めてしまうことがある。そのことと関係して、人にあるものを一括りにした論を展開する。
 例えば、ベーシック・インカム(基本所得)を提起する著書で、ヴァン=パレースは人の「内的賦与」の差異への対応を論じる。一律の基本所得を支給するだけでは、才能や非・才能(disability、障害)によって得られるものが異なったり必要とするものが異なったりすることに対応できないではないかという批判は当然予想されるわけだが、それに対応しようというのである(Van Parijs[1995:chap.3])。それはよいことである。ただ、その論の組み立ては奇妙なものだ。
 あるマイナスの内的賦与を有する人がいる。それには障害も容貌もなんでも含まれる。誰もがそう思う(そんな状態を選ばない)場合に、補償を行なう。具体的には金を払う。そうして払う金を増やしていって、誰か一人が、その金をもらえるならこの身体の状態を受け入れる、と言ったらそこで止める。ごく簡単にするとこんな感じの話になっている。
 この話は、一つひとつをここに並べることはしないが、幾重にも奇妙である。例えば次のように考える方が普通ではないか。手段として補うことが可能なものについては補うのがよい。そして手段である限り、多くの場合に補うことは可能である。例えば足がなければ足の代わりになるもの提供することはできる。他方、人の人に対する好みが関わっているものについて。これをいまのような水準の再分配によって補償することができるだろうか。もちろん金をもらえればその状態を受け入れるという人はいるかもしれない。しかし、実際にはその状態は既に存在する(存在しない人にはしない)のだから、いくらもらったらそれを受け入れるかというのは架空の仮定の話でしかない。その仮定の話にどんな意味があるのか。そして仮になにがしかの金で折り合うという人がいたとして、それは何を意味するのか。その方法はよい方法か。誰でも思いつくこんな問いを通り過ぎて議論が組み上がっていく。
 これは「総合評価」の問題にも関わる。幸福度などというものを持ち出したら、貧しいけれど幸福な人には何もしなくてよいということになるのではないか、だからやめようといった話がある。もちろん幸福でない豊かな人よりも幸福な貧しい人はたくさんいる。しかしそれは当たり前である。では幸福の総合値の大きさを基準にすれば、貧しいが幸福な人はそのままでよいのか。そんなことではないはずだ(立岩[2004:188-191])。
 もちろん、私が本稿で行なっている議論には、個人の領域の侵害になるという危険がある。だからこそαも言われてきたのではないかとも言われよう。たしかに侵害の可能性はある。否定しない。しかし実際には、不可侵を言い、さまざまをひとまとめにする(あるいはひとまとめにした上で、それでは使えないと放り出してしまう)人たちの方が、人を乱暴に扱っているのではないか。財の分配によって行なえることはたかがしれている。しかしそのたかがしれていることを、必要な部分できちんと行なうことが重要なのである。
★11 以前から幾度か言及したり(立岩[1997:6]等)、文章を書いてはきていたのだか(立岩[2000a]に収録されたものなど)、『ALS』(立岩[2004c])をなんとか書いて出版してもらって、しばらく遠ざかっていようと思っていたのに、ここのところまた安楽死・尊厳死について書かざるをえず書いていることもあって(立岩[2005-2006][2005-a]、また立岩[2006:291-309]には短文を幾つか集めた)、その行ないのことを念頭に置いて書かれている部分がある。考えても書いても楽しくなる主題ではないが、考えていくと、各々の思想がどのようなものによって縁取られているかはわかってくるように思われる。安彦一恵が、清水哲郎と私のこの主題についての見方について論じている(安彦[2006])。清水の立場はリベラリズムであり私の立場はモラリズムであるとする。私の立場について、言おうとすることはわからなくもないけれども、私自身はすこし違うように言いたいとは思う。ではどんな位置を取るのか。それを本稿でざっと説明しようとしている。
★12 ただ具体的な基準の設定において主観的な尺度が常に有効であるといったことを言いたいわけではない。人は嘘をつくこともできる。そしてその前に、基準を決める必要のない場合があることも踏まえておくべきである(立岩[2000a:292-297][2004a:199])。
 そして、多くの場合には、選択の対象となる財にさほどの価格の差はない。だから市場が機能していれば、現金を支給することによって、人はより自分にとって適切なものを選ぶことができる。A定食とB定食とどちらがよいのかを選ぶ。そして値段はだいたい同じである。そう困ることにはならない。あるいは食費を余計に使い、他を減らすといったこともできる。だから多くの場合、いちいち個別に設定する必要はない。ただこのように決めてしまえばよいと言う場合にも、やりくりしておおむねその範囲でやっていける、やっていってもらってよいという判断があって、それでこのように言うのである。なぜそれでかまわないと考えるのかである。「高価な嗜好」にどう対応しようかと考えるならこれらのことについても検討する必要がある。立岩[2004a:178-179,200-201]でいくらかのことを述べた。
★13 これは、その人自身が思いついたことである場合にも、それに異義を言うことはできるということでもある。なお、この嗜好の問題について「選好形成」に関して社会的要因が影響していることを指摘し、その分については社会の側が、という主張をしているのはArneson[1989]。立岩[2004a:329-330]で紹介している。
★14 シュクラー(Shklar[1989][1990])などを引いて、目標を残酷さの回避というところに置こうという論がある。残酷さに満ちているこの世界において、それはもっともなことではあるが、そして残酷という言葉の定義によるわけだが、それでよいのかと思うところがないわけではない。つまり、この世には誰もがそれはひどいと思うことがあって、誰もが、一般論としては、それはなんとかすべきだろうという主張に同意するだろう。しかしその時、もちろん残酷さをどのあたりからにするかにかかっているのだが、より些細な、と思われる行いについては不問に付される可能性があり、その些細、と思われることに対する対応はなにかよけいなことをしていることであるかのように見えてしまうことがあるということである。
★15 多文化主義について。ここもまだ詰められていないと思うところだ。それは寛容の思想であるからにはもちろん評判のよいものである。しかし問題は、多様であるのはよいとして、そのことを言うだけではうまくいかない場合があることだ。ある価値とある価値とが衝突することがある。さらに具体的な規則と規則とがぶつかる可能性がある。この問題に単一の正解はありそうにない。幾つかの条件のもとでは正解がないことを証明できてしまう。しかしそのことを知ることは無駄ではない。その上で、部分的であってもできることを考えることはできる。
 ゲイに対する自由主義の寛容さへのサンデルの批判(Sandel[1982=1992])等、異なるものへの寛容という解がそのじつその人への敬意を欠いているという指摘は以前からある。私は共同体主義の立場には立たないが、その指摘にはもっともなところがある。そして私は、すくなくともいくつかの場面で「善」の内実を問うべきである、問うしかないと考えており、本稿もそのことを述べている。ただ、相互に独立し、互いに関与しない方がうまく場合もあるにはあるにはある。人々の処世術、社会の運営術としてのその有効性は認めよう。分離主義もときには使える。しかしむろん限界もある。移動その他の自由は認めれるべきである。他方で、いやおうのない移動も事実存在する。格別の敵意が存在しない場合でも、多数派の流儀や言語の習得が相対的に困難である時、そのために、あるいはそれを理由にして、差が維持・拡大することがある。むろん差別の禁止は可能であり、有効であるとして、他にはないか。移動する自由と、とどまる自由との両方を、実質的に保障するという方向もある。少なくとも、自らの地にとどまりたい人はとどまれるようにすることである。
 では、規則と規則、規範と規範との対立についてはどうか。一つには、規則の解釈の幅がどのぐらいあるのかといった要因も関係するだろう。不変の掟とされるものが、実際にはそれほどそうでないことはしばしば指摘される。
★16 同じ根をもつこと、ゆえに決しがたいことがあることは、パターナリズムについて考えた立岩[1999]他で幾度か述べた。ただ、それでも現実にはそう困らないことがあることについて――立岩[2004c:409]で自分にとって都合の方によい価値の方に乗り換えればよいのだといったことを述べたのではあるが――以下では、これまで明示的には書いていないことも含めて、幾つか述べる。
★17 多くの場合、「生活水準」を示す様々な統計の数字が示すのも、そんなことでしかない。つまり、この状態はいま固定されているのであり、ある指標についてある人々が有利な位置にいることが示されるだけであり、必要が満たされていないことがわかる人たちは、せいぜいみじめな気持ちになるだけといったことがある。このことを含め、指標を使って貧困の度合いを測ったり順序をつけたりすることが、ときに傲慢な感じを与えることがある。踏まえておくべきことは、やはりそのことの位置である。一つには、そこに不幸があるとして、それはそれほど大きくもなく、しかしそれほど小さくもない不幸であるということだ。註10・註14に述べたことにも関係するが、なにがしかの(実際にはたいしたことのない)「援助」を引き出すためにはなにかとても大きな不幸がなければならないということ、全体として不幸であったりしなければならないということ、他方、あの人たちはじつは幸福なのだと言うことによってこんどは何もしなくてよいことになること、いずれもが拒否されるべきなのである。

■文献
安彦 一恵 2006 「「安楽死」をめぐる清水・立岩論争のメタ倫理学的考察」http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/kakenhi06/ABIKO.PDF
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Dworkin, Ronald 1994 Life's Dominion, Vintage Books=1998 水谷英夫・小島妙子訳『ライフズ・ドミニオン――中絶と尊厳死そして個人の自由』、信山社、発売:大学図書
――――― 2000 Sovereign Virtue: The Theory and Practice of Equality, Harvard Univ. Press=2002 小林公・大江洋・高橋秀治・高橋文彦訳『平等とは何か』、木鐸社
稲葉 振一郎・立岩 真也 2006 『所有と国家のゆくえ』、日本放送出版協会、NHKブックス
Rawls, John 1971 A Theory of Justice, Harvard Univ. Press=1979 矢島鈞次・篠塚慎吾・渡辺茂訳『正義論』,紀伊國屋書店
Roemer, John E. 1986 "Equality of Resources Implies Equality of Welfare", Quarterly Journal of Economics 101:751-784
―――――  1998 Equality of Opportunity, Harvard Univ. Press
Sen, Amartya 1992 Inequality Reexamined, Oxford Univ. Press=1999 池本幸生・野上裕・佐藤仁訳『不平等の再検討――潜在能力と自由』、岩波書店
Shklar, Judith N. 1989 "The Liberalism of Fear", Nancy Rosenblum ed. Liberalism and the Moral Life, Harvard Univ. Press=2001 大川正彦訳「恐怖のリベラリズム」、『現代思想』29-7
――――― 1990 Faces of Injustice, Yale Univ. Press
立岩 真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
――――― 1998a 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,『仏教』42:85-93→立岩[2000a:51-63]
――――― 1998b 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」,『現代思想』26-7(1998-7):57-75→立岩[2000a:13-49]
――――― 1999 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」、後藤弘子編『少年非行と子どもたち』、明石書店:21-44
――――― 2000a 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社
――――― 2000b 「たぶんこれからおもしろくなる」、『創文』426(2000-11):1-5→立岩[2006:17-25]
――――― 2002 「労働の分配が正解な理由」、『グラフィケーション』123(富士ゼロックス、特集:働くことの意味)→立岩[2006:153-161]
――――― 2004a 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
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――――― 2004c 『ALS――不動の身体と息する機械』、医学書院
――――― 2004d 「社会的――言葉の誤用について」、『社会学評論』55-3(219):331-347→立岩[2006:256-281]
――――― 2005 「ニートを生み出す社会構造は」(インタビュー)、『Fonte』168:7→立岩[2006:162-170]
――――― 2005a「自由はリバタリアニズムを支持しない」、『法哲学年報』2004:43-55→立岩[2006:229-243]
――――― 2005b 「限界まで楽しむ」、『クォータリー あっと』2:50-59→立岩[2006:108-125]
――――― 2005-a 「良い死」(1〜),『Webちくま』http://www.chikumashobo. co.jp/new-chikuma/index.html
――――― 2005-b 「家族・性・市場」(1〜),『現代思想』33-11(2005-10)から連載
――――― 2005-2006 「他者を思う自然で私の一存の死」、『思想』976(2005-8):23-44,982(2006-1):80-100,982(2006-2):96-122
――――― 2006 『希望について』、青土社
――――― 2006- 「人間の条件」、理論社HPで連載 http://www.rironsha.co.jp/special/ningen/index.html(→『人間の条件』
Van Parijs, Philippe 1995 Real Freedom for All: What (If Anything) Can Justify Capitalism?, Oxford Univ. Press


UP:20110122 REV:
『情況』  ◇立岩 真也  ◇立岩より送付 
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