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だからこそはっきりさせたほうがよい

立岩真也 2006/09/00 『グラフィケーション』146:17-19,富士ゼロックス 特集:企業社会はいま
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難題のように見えるもの

  いま起こっていることは単純なことでもあるのだが、それに文句を言いたい人の側にいくつかすっきりしないところがあり、歯切れよく文句が言えない。まずそれを順不同で幾つか並べてみよう。
  (1)現在存在するのは単純な「会社主義」ではない。会社から距離をとろうとする人は多いし、世間でも「会社人間」といった言葉はよい言葉としては使われない。しかし、会社の側も、そのとおり、と言うのである。会社は社員を保護する組織ではない。頼りにしてもらっても、妙に思い入れてもらっても困る。そんなことを言われる。言われるだけでなく、実際に見放されたりする。ではどうしたらよいのだろう。
 (2)今の会社に困っている人もいるが、あまり困っていない人もいる。よい位置にいる人が得をしてよい思いをしているのは当たり前のことだが、同じあたりにいても、会社に適応してうまく、楽しげにやっている人もいる。となると自分が困っているのは自分のせいなのだろうかということになる。
  (3)会社で「成果主義」の導入が言われ、行われる。それに対してその評価の基準、査定の仕方が恣意的であると思い、そのことを主張する。たしかにいいかげんである。しかし他方で、仕事をしていない人は明らかに周囲にいるように思われる。それで給料やら同じなのはやはりおかしいと思う。だから全面的に反対もできない。では、基準をより客観的なものにすればよいのか。しかしそれはどんな基準なのか。こうしてそんな細々しい、自分の首を絞めるような気もすることに自身も巻きこまれてしまう。
  (4)ここのところずっと起こっていることは、例えばフルタイムの仕事をパートタイムの仕事にすること、いわゆる正規雇用を非正規雇用に移していくことである。それはある人たちにとっては今の仕事が変えられること、さらに奪われることでもあるのだが、しかし、現に既にパートや契約という形態でやってきている人がいる。宅配の荷物を配っている人に比べて郵便局で雇用されている人はどうなのか、「既得権益」の上にあぐらをかいているのではないかというふうに突っ込まれる。
  こんなことを考えながら、論を組み立てていく必要があるのだが、それはかなり長い話になる。以下わずかのことを書くが、他に、この七月、『希望について』という題の本を青土社から出してもらった。様々な媒体に載った文章を集めたもので、本誌に載せていただいたものでは「労働の分配が正解な理由」(二〇〇二年、一二三号)と「どうしようか、について」(二〇〇五年、一四一号)を収録させてもらった。また稲葉振一郎さんとの対談をまとめた本『所有と国家のゆくえ』がNHK出版から八月に刊行された。そこでもいくらかのことを述べた。それらと「こみ」で読んでいただけたらありがたい。

答一・ベースを確保すること

  会社から距離をとるすべを知っておくのはよいことではあるだろう。カウンセリングが効くことも――それよりは酒でも飲めるなら飲んだ方がよいことが多いと私は思うが――あるだろう。ただ、そんな人生の指南書のようなものはたくさんあるし、皆もよく知っている。そして、それでかたがつくなら苦労はしない。心がまえの問題ではやはりない。現実が問題である。現実をどうするか。さきに記した問題が面倒そうであるのに比すと、答は簡単である。
 一つ、人がどのようであっても暮らせるようにすること、具体的には、暮らせるだけの金が得られること。一つ、格差を小さくすること。簡単に言えば、これらがなされればよい。それらをきちんと考え、作っていけば先の問題にも対応できる。
  突然ひどく乱暴な話を、と思われるだろうが、私は以上が基本だと考える。そのために会社の中でできることもあるし、市場の中でできることもある。ただ限界もある。このことについて考えることはとても大切なのだが、まず「政治」の方について。
  どのようであっても、と今述べた前者は、「セーフティ・ネットの構築」なとど政治家たちが言うことと同じか。同じだとされても私はいっこうにかまわない。しかし、それはまじめに実現されねばならないし、本気で行われるべきことだが、実際にはすこしもそのようになっていない。その点は異なる。
  次に、前者を後者より順序としては先に考えてよいのだろう。つまり、ベースをしっかりしたものにすることの方が、傾斜を緩くすることにまずは優先してよいのだろう。ただ、前者を実現するための手段としても後者は使うことができる。簡単なことだ。金がないと言われるけれども、そんなことはない。基本的には多くもっている人から多くもってくればよいというだけのことである。税の徴収について累進率を高めること、まずはすくなくとも以前の率に戻すことである。これは、さきにあげた「どうしようか、について」でも、人々の「合意」の調達がより容易な道筋として述べたことだ。筋が通っている上に合意が得られるならなおよい。
  説明は省くが、自分の預けた額がそのうち戻ってくる貯金のようなもの、また保険会社が売っている各種の保険のようなもの、そうしたものをわざわざ政府が行なう必要はあまりない。行なうのはわるいことではないとしても、それを本来の仕事と考えるなら大きく間違える。そのように間違って考えてしまうから、財源がない、ないから給付も減らすといった話になってしまうのだ。政府がすることはそんなことではなく、たくさんあるところからたくさんないところに金を移すことである。こう考えると、すべきことができないといったことにはならない。
  具体的には一つ、とても唐突に思われるだろうし、本気にされないような気がするが、《生活保護》をもっとまともに使えるようにすることであり、そのためにこの国の生活保護の制度をもっとまともなものにすることである。
  会社との関係を会社員が考える時、会社と個人との関係を再考してみようなどとといった時、生活保護といった単語はほとんど頭に浮かんでこないはずである。多くの人はこの制度がまったく自分と関係のないものだと思っている。たしかにとても多くの人にとってこれは使いようのない仕組みの制度である。しかしそれは仕組みが悪いからだ。その会社ではやっていけないことがわかり、さしあたり次の仕事のあてもないといった時に、ただ自分を励ます言葉があればよい、わけではない。いちおう暮らしがだいじょうぶであるから離脱も現実に可能になる。いやな仕事をせずにすむ。すると、する人がいなくなって困るではないかと心配する人がいるが、いやな仕事は減った方がよいから、またなくせないならその仕事の対価は今より高くなった方がよいから、人が不足するぐらいの方がよい。

答二・格差を減らすこと

  次に、後者、つまり格差について。(4)に対する答にもなるが、ものごとを判断するおおまかな一つの基準は、それが全体としての格差を大きくするのか小さくするのかである。どちらに作用するかわからない場合もある。ならばそれはとりあえず棚上げにしてよい。ただ、今起こっていることははっきりしている。中かそれより少ないぐらいを受け取っている人たちが引き下げられているということだ。
  やはり唐突に思われるかもしれないけれど、ヨーロッパなどで移民を巡って起こっていることにもそんなところがある。中ぐらいからそれより下の収入の仕事をしに人が入ってくる。今までその仕事をしていた人たちの賃金が下がったり仕事が得られなくなる可能性が出てくる。結果、一部の人たちが排外主義に加担してしまっている。他方、そうした仕事に関わらない人にとっては直接の利害はない。むしろ賃金の低下に伴い物価が安くなったりして都合がよい。ゆえにその人たちは呑気に人道主義を支持できるというわけだ。
  私は、より多くを受け取っている人の受け取りの水準が下げられることに基本的には賛成する。だから、常に自らを守らざるをえない、既存の正社員中心の交渉、労働運動の全部を肯定することはできない。しかし、それは現在の流れをそのまま受け入れろということにはならない。中より上の部分の状態はそのままに残されて、あるいはより有利になる状況をそのままにして、水準の調整が行われていることを問題にすべきである。より多くを受け取っている部分も含めて水準が調整されるべきなのだ。そして、このことと合わせて、基本的には、パートタイム、非正規雇用の条件をよくすることである。さきにあげた「労働の分配が正解な理由」にも書いたことだが、この社会はみながフルタイムで働かなければならないような社会ではなく、それは、基本的には、とてもよいことである。かつては人の余り分を家族と性分業の形態が吸収してきたとも言える(『現代思想』連載中の拙稿「家族・性・市場」)。しかしこの対応法はよくないし、いまさら有効でもない。
  ここでも、組織の内部でできること、できないこと、市場の内部でできること、できないこと、様々ではあるが、各々手段は幾つかある。まず市場では、とくに市場内での組織では貢献に応じた分配がなされているといった話をそのまま受け入れることはまったくできない。内部の力関係が作動している。ものごとを決められる人たち、その人たちの近くにいる人たちにが有利になっていることは誰でも知っている。ただ、別の組織との間の競走があり、人の流出や流入の可能性があるから、ある人たちに相対的に高い値をつけざるをえないことがあることは否定できない。(3)にあげた組織内での基準の設定のあり方は、複数の要因が絡んでいるから、これでよいという一律の答は出ない。ただ、それは組織の中で動かせる現実もあるということでもある。一つには、会社が目的を有する組織であることをいったん認め、その限りで許容される範囲について同等の待遇を求めていく。つまり同じ仕事であれば同じだけということは認められるはずだとして、それで説明できない差を少なくしていくことを認めさせていくといったことである。それは力関係で決まってきたことの中の不当な部分を弱めていくことになる。
  その上で、問題は組織の内部だけではかたがつかないこと、例えば常勤の職と非常勤の職の仕事に応じた評価さえもが制度的な介入を要すること、そして同時に社会を単位とした分配が要請されることをわかっておく必要がある。それがうまく作動すれば、誰もが納得のいく基準などありえないぎすぎすした査定の必要度は減り、その結果に人生が左右される度合いも減る。ここでは、論理的に、一通りの解決法はない。話はややこしくなる。しかしどうしてもややこしくなることを仕方のないことと受け止めて、その上で考えることができる。そして、込み入ったことであるからこそ、基本的な方向をはっきりさせておく必要がある。

再度、容易でなくとも立ち位置をはっきりさせた方がよい

  こんなことが意外なほど考えられていない。だから考えていく必要がある。以下、残っている二つに即して述べたことを再確認しておく。
  (2)の現状でうまくいっている人もいるという指摘への応答は基本的には簡単だ。うまくいっている人がいることは、その体制がよいものであることを意味しないと言えば足りる。そして現状に満足している人にとくに言うことはない。問題はないのだから何か言う必要がない。しかしもしその人たちが、いまの社会や会社のあり方が自分にとって都合がよく心地がよいと言うだけでなく、その方が正しいとでも言うのであれば、それに対しては、その考えは違う、と言うことになる。
  そして、その人たちが強く組織や仕事に思い入れ、よく働いているのであれば、ほめてあげることだ。しかしそうは仕事を捉えない人もいる。どちらを基本にするかと考えると、後者である。仕事が生活の手段であることはまったく否定できない事実だが、それ以上のことであることを信じさせられるいわれはないからである。
  さらに、今しかるべき地位・位置を得ている人は、自分たちは気楽ではないのだと、その分苦労しているのだと、きっと言うだろう。もちろん、苦労していることは認めよう。けれども、その苦労をしてでも、気楽な(とされる)人たちの職とその待遇の方に自らは移ろうとはしないとすれば、やはり総合的には今いる位置の方が得だと思っているということである。とすれば、自分たちもいっそそちらにに移ろうかなと思うぐらいのところまで、気楽だとされる仕事の待遇を改善することに問題はないということである。
  最後に(1)、距離のとり方、距離をとれる実際の可能性について。つまりは、お題目でなく実際に離れられるすべが必要だということである。かりにこの国の制度がもっとまともになったとしても、多くの人はそれを使わないだろうし、それでもかまわない。しかし当座関係はなくても、どこかにぶらさがらなくてもやっていけるという現実が作られるなら、その意味は大きい。組織にぶらさがっていることの心地悪さをすこしでも本当に言おうとするのなら、組織されない人たちの場所からものを言うのがよい。その方が、多くの人にとって、楽でよいはずである。そして、実現されるべきことが容易に実現されないとしても、実現されるべき社会のあり方を示し、それを私は支持するという立場をはっきりさせること、そのようになっていない現実の側に不正を帰属させることは、たんに気持ちのもちようというだけでない基本的な態度を、そして自信ある態度を、自らに与える。


UP:200607 REV:20060804(誤字訂正)
分配  ◇平等/不平等/格差  ◇立岩 真也
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