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(発言)

立岩 真也 2006


◆市野川 容孝・金 泰昌 編 20060630 『健康・医療から考える公共性』,東京大学出版会,公共哲学19,348p. ISBN: 4130034391 [amazon][kinokuniya] ※, b

内容(「MARC」データベースより)
健康・医療から「公共性」について考えていく。医療は、人間(患者)と人間(医療者)との相互行為でありコミュニケーションである。そのコミュニケーションから「生活世界」と「制度世界」を媒介する「公共世界」を捉え直す。 この著者の他の作品を見る


 第44回公共哲学京都フォーラム(2003年)
 *立岩は(3日間のうち)1日目だけ参加。

□発題1 市野川容孝「健康と医療と福祉 その社会的側面」

  「立岩真也 市野川さんの話というのは簡単にいうとこういうことだったのでしょうか。かつて社会科学と社会と医療というものが、ある種幸福な合体と思われた状態があったというのが一つ目の話。
  しかし、それがそうはいかないということが見え出してきて、それが社会学においてはイン・メディシンとオブ・メディシンという社会学のスタンスの変化というものにも関わってきた。これが二つめの話。
  そして三つ目の話は、その亀裂の回収の仕方としてバイオエシックス(生命倫理学)の方から出されてきたものが「インフォームドコンセント」(十分な説明を前提とした同意)であったり「自己決定」というものであった。おおむねそういう三段の話になっていると思うのです。
  私は、ほぼそういうことを他のところでも言ってきました。そのこと自体はそういうことだと思うのですが、なおかつ発題の時間が限られていたので当然だけれど、<0016<常にそれに関する余剰みたいなものがあるわけですよね。つまり、非常にきれいにまとめられた三つの話ですが、第一段の無矛盾のある種の幸福さみたいなものから漏れている部分が、例えば19世紀にも必ずあったと思うんですね。そういった話がそれぞれについてあると思うのです。
  亀裂が起こった第二の段階に対して、バイオエシックスはそういう形で答えを出そうとした。私も一応社会科学者なんだけれども、その時に例えば医療社会学者は何をしていたのか。あるいは、市野川さん自身がどう考えるのか。一、二と来て、バイオエシックスは三の解を出した。それに対して市野川さんは明らかに不満気なわけです。そうだとすると、その時に医療をめぐる社会科学ないしは社会に起こったことは何であったのか。そのことについての見解を聞かせていただきたいというのが私の質問です。」(pp.16-17)


□発題2 進藤雄三「健康と医療と福祉における専門家支配論」

  「立岩真也 二つあります。第一点は、フリードソンの1970年の『医療と専門家支配』はとても面白くていい本だと私も思います。そこで、「専門家支配」というもの自体がどういう形で出てきたのかということを捉え直す必要があるだろう。これはフリードソン自身が言っていることだと思いますが、必ずしも「知識における優位」によってこのプロフェッショナリズムが出てきたわけではない。また彼は、「命」ときいう大切なものを扱っている職業であるからではないという言い方もしています。
  そうすると、ある時代においてすでに医師の仕事というものが特権的な位置を付<0040<与された。そのここと自体が歴史的な現象なわけで、そこには国家なら国家というものがすでにまとわりついている。そういう19世紀から20世紀への経緯というものを押さえた上で考えていく必要がおそらくあるだろう。これはまあ「そう思いますよ」という話です。
  次の二つ目の話は、迫田さんの話と関係しています。「サード」というときに、ソサは官僚制と市場とプロフェッションを足して3で割れば出てくるというものではない。私は新しい本を読んでいないので何とも言えないのですが、やはり「ちょっと粗いぞ」と思わざるをえないところがあるわけです。
  そういうことが討議されていくとよいと思いますが、やはり、誰が何をするのかという話を詰めてやっていかなけれはならない。当たり前の話ですが、法なら法が担うべき役割というのがある。強制力をもってコントロールすべき部分というのがある。例えば、加藤良夫さんが「患者の権利法」ということをずっと主張されてきた文脈が確かにあります。私も強制力を介した制御が必要な部分があると思います。
  そういう意味で「国家」というものも登場させざるをえない。というより登場させる必要があるだろう。そうすると、国家には何をさせるのか、あるいは「専門家」といわれる人たちはどこまでのことをするべきなのか。と同時に、迫田さんがおっしゃっていたような消費者あるいは患者自身ではないかもしれませんけれども受け手の側に立って彼らを擁護する人たちの役割がどうなっていくのか。
  全体のコンステレーション(布置)の中でそうした仕事をする人たちをどの程度のものとして位置づけるのか。私は、医師という専門職集団がある種の専門的な原則をちゃんと持ち、そういう意味でオートノミー(自律性)が必要であるとういことは全く否定しないのですが、しかしながらそれがうまく機能するために外側から何をするのかという問題があるわけです。しかしそれだけでは解決できない問題もある。そこに医療社会学が果たすべき役割があるのではないかと思います。
  そのときに面白いのは、進藤さんの「コンフリクト・モデル」です。みんな仲良くやっていくのが望ましいけれども、しかし現実には、また論理的な可能性として、必ずそこに利害の対立みたいなものが起こってしまう、それをコミで考えていかないと、美しい絵は描けるかもしれないけれどそこで終わってしまう。
  そういうところがフリードソンの言ったことの非常に重要なポイントだと私は思うわけです。そういったことを踏まえたうえ、進藤さんは「専門職」の位置づけ方とういことに関してどういうあたりを狙っておられるのでしょうか。大雑把でも結構ですから伺いたいと思います。」(pp.40-41)


□発題3 川島みどり「看護学から見た医療の公共性」

  「立岩真也 私も実は昨年の3月まで看護系の学生を育てる学校にいました。先生のおっしゃることはだいたいそうだろうなと思います。特にこの10年の間に急速に学校が建ち、そのためにいろんな問題が起こっているということを現場にいて感じています。
  チーム医療に関してお尋ねします。チーム医療の中で責任の所在がはっきりしないために生じる問題がある。チーム医療は水平的なイメージで捉えられるけれども厳密にはヒエラルキーがあるとおっしゃったと思うのです。そうした場合に、チーム医療で責任の問題が生じたときにどういう形で対応するのが適切なのか。例えば看護職がリーダー的な役割を果たすという解もありうるかもしれないのですが、目下の川島先生のお考えを伺いたいと思います。」(p.57)


UP:20060702 REV:
医療と社会  ◇身体×世界:関連書籍  ◇立岩 真也
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