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しごとさせとくれ

立岩 真也 20060900 『理』10(Autumn 2006):2-3
関西学院大学出版会 http://www.kwansei.ac.jp/press/


 *原稿送付・掲載 20060713

 国内の社会(人文も?)科学系の研究者がしていることはどうなんだろうという話がある。おおまかには、いまいち、だとしよう。ただ、比べて、自分たちがそう頭がわるいようには思えない。するとそういう問題ではない。ではどんな問題か。
 大学院生のときには就職もしなければならないから、学会報告もするし学会誌に論文も出す。(結果、そういうものの水準は、平均的には、どうかな、というものになる。)就職してしまうと、就職できたしもういいやということになる。そうなっていると言って、近頃当局は「成果主義」だとか言ってきている。だが、私らにも言い分はあって、いや忙しいのだと。これは事実だ。授業の数は増えているし、学校行政の仕事もますます忙しい。
 もう一つ、これは比べれば小さい要因なのだが、別の場、媒体があってしまう。社会のことを書いているから専門の学者でないと読めないということはない。いくらか稿料をくれるということもある。学会誌より読んでもらえる、なにかしらの「社会的使命」を感じて、ということもある。だからそれはいくらか「啓蒙的」なものである必要もあり、「わかりやすさ」も求められる。そしてそのこと自体もわるいことではない。一億人というのは、その内部で商売が成立する数だ。出版が不景気なのは間違いないが、それでもなんとかやっている。そして学者もたくさんいすぎるほどはいない。同じ人間が使われてしまう。そういうものを書いていく。すると年月が経ってしまう。
 そこをどうするか。研究させようというふれこみで出されている金の出し方、使い方はそういう現状にうまく対応していない。ほんとかどうか知らないが、自然科学系では、研究の実際の第一線からは退いたリーダーが渉外係をし、組織と若い衆に金を下ろして何かしていくという仕組みでやっているという。そういうやり方にはうまくはまるかもしれない。しかし、他の領域では、研究すべき人本人が研究できないことが問題なのに、金などへたにもらうと、その人たちは、お金の算段だとか人を呼んだりだとかでますます忙しくなってしまうのだ。結果、研究水準はさらに低下する。
 ではどうするか。一般論としては簡単で、そんな仕事をあまりしなくてよいようにし、自分の仕事を進められるようにすればよい。私は私としてあたう限りまともなものを書いていくから、それを製造し製品にしていく過程を邪魔しないでほしい、願わくば手伝ってほしいということだ。例えば私は、不幸なことに、実用にたる速度で使える言語としては日本語がやっと、というところで、その言語でものを考え書くだけでせいいっぱいだ。ここがなんとかならないことには現状維持がせいぜいだ。
 今までこの国は横のものを縦にはたくさんやっていた。これは述べたように、市場としてちょうど成立し安定していたからということもある。そして近頃「交流」などと呼ばれているものも、実質的には、その延長上のもので、今まで翻訳者でなければ関わらずにすんだ人も巻き込み仕事を増やしている。変えたいのであれば、そこを変えるしかない、まず縦のものを横にする仕掛けを様々に作っていくのがよい、と私は思う。


UP:20060714REV:
立岩 真也
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