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希望についてとまたまた死ぬ話

――知ってることは力になる・42――

立岩真也 200607 『こちら”ちくま”』49(2006-3):2-4


  ずっとこの連載の題でやっていてよいのか気にはなっているのです。最初は「みんな生活保護をとろう」みたいな、実際「力になる」つもりの記事を書いてたのですが(バックナンバーは私のHPでも全部読めます)、ながらくそんなお役立ち情報は載せられていません。どうしたらよかろう。
  悩んでいてもはじまらない。力になるかどうかわかりませんけど、7月に、『希望について』という本を青土社から出してもらいました。1人で書いた本としては5冊目になりますが、まず、その中では一番安い本です。最初の本の3分の1です。最初のが高かっただけですが。2200円+税。
  あと、たぶん、一番わかりやすい、ところもある本です。雑誌や新聞、いろんなところに書いたものを集めて本にしました。その中にはいくつか、新聞に載った後『ちくま』に再掲させてもらったことのある文章もあります。
  その本の帯(「腰巻」とも言うようです)には次のように書いてあります。「過剰労働、ニート、少子高齢化社会、安楽死、私的所有、愛国心… さまざな局面で、国家や組織を駆り立てて、私たちを容赦なく追い込む近年の社会状況。はたしてそこにはどれだけの閉塞的前提があるのだろうか? 現象と要因そして先入観を丹念に解きほぐし、一人ひとりが生きやすい社会に向けて構想する、たゆまぬ思考の軌跡。」そして大きな字で「考えられるところまで考えてみよう」とあります。
  自分ではこういうのは恥ずかしくて書けません。帯の文章には著者はノータッチです。今回も現物が届くまで知りませんでした。「ニート」のこととか、一つ、短い文章で書いている(インタビューなので、しゃべっている)だけなのですが、これもご時世ということなのでしょう、単語がいろいろ並んでいる中のはじめの方に出てきます。こう並ぶと、「なんだこの著者は?」、ということになりますが、それでも本人としては、筋は通っている、はずだとは思っています。どのようにか、そんな解説も含めて、やはり私のホームページにこの本についてのページがあるのでどうぞ。
  さて次に、さっきの単語の列の中ではまんなかぐらいにでてきている「安楽死」。(前回も、このテーマについての『朝日新聞』に掲載された記事でした、と前回をみたら、今度の本の紹介までもうしてしまっていたのでした。)とにかくこの種の取材などがこの春は多くて、夏にもなってもすこし。発端となった富山県の射水市民病院での事件についての報道はぱったり止まりましたけど、雑誌で取り上げられたりはしています。
  『通販生活』という雑誌は多くの人が知っているはずで、けっこう愛読者の方もいらっゃるのではないでしょうか。私も、なにか買った記憶はないのですが、けっこう見てしまいます。そこに「通販生活の国民投票」というコーナーがあります。あるテーマについて6人の人に意見を求め、その意見についての読者の投票結果が次号に載るという趣向のようです。ちなみに夏号のテーマは「タクシーの規制緩和」で、亀井静香や猪瀬直樹も出てきてます。またその夏号は、春号のテーマ「電車内の目に余る無作法、注意するか、見過ごすか」についての6人の意見を受けた投票結果を掲載。その秋号で「尊厳死法制化」をとりあげるというわけです。以下はそこに載るはずの意見。ただこれは私が最初にお送りした原案で、編集者とのやりとりの中で、最終的にはすこし違った文章になりました。さて、読者のみなさんは私の意見に賛成するのだろうか反対するのだろうか。では、以下。
* * *

  「延命措置」という言葉は、このごろ最初から悪い意味の言葉になっています。でも、まずそれは、栄養の補給であり、呼吸の補助です。いくらかでも感覚があれば、おなかはすきますし、喉は渇きますし、呼吸が困難なのは苦しいです。周囲の人にはその状態はよくわからない。本人ならどうか。その時点では本人は意志をはっきり伝えられないから事前に決めておくことになっているんですが、事前には本人にも実感としてわからない。その時にはどうしたいか伝えられない。しかし事前に言ったとおりになってしまいます。
  次に、たしかに病による身体的な苦痛はとても大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提で、日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。
  他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
  すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
  それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは、苦痛を与え、効果のない処置がなされているからかもしれなません。効果が見込めないのに心臓に強い電気ショックを与え続けるとかです。それはやめてよいと思います。本人に益がないのですから。しかしそれは、今ある法律の範囲内で可能なことです。
  一つ補足します。回復に効果がないというのと、生きるのに効果がないというのは別です。回復しないからといってなんでもやめていったら、病や障害をもちながら生きている人はどうなりますか。残念ながら回復をもたらさなくても、生命・生活の維持に役立つ処置を否定する理由はありません。
  それでも、実際、遷延性意識障害、いわゆる植物状態から回復する人もいます。脳死についてはずいぶん議論があったじゃないですか。尊厳死で問題になっているのはもっとずっと死から遠い状態なのに、簡単に認めることにしようというのは変だと思います。
  それ以外に「延命」を拒否する理由があるとしたら、大きいのは、周囲に迷惑をかけたくないという理由です。それは立派な心情のようにも思います。しかしそれを周囲がそのまま受け入れたら、それは「私たちのためにありがとう、どうぞ死んでいってください」と言うのと同じじゃないでしょうか。
  私自身には、その人が決めたとおりでよいだろうという思いもあります。けれども、最低、社会の側の問題があって、それで人が「自分が決めた」とおっしゃって亡くなっていこうとされるのを、「自己決定」だからとか言って、そのまま「どうぞ」と言うのはおかしい。尊厳死に賛成する人の多くも、負担のこと、医療や福祉にかかるお金のことで決定が左右されることはよくないことを認めます。なら、どう考えたって、昨今の流れは順序が逆です。生きたいなら生きられるという条件がきちんと整えられてから、死ぬのもよしということにするべきです。

  *知ってることは力になる 41>42>43


UP:20060708 REV:0713(誤字訂正)
安楽死・尊厳死 2006  ◇自立支援センター・ちくま  ◇立岩 真也 
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