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初歩的なこと幾つか

―知ってることは力になる・41―

立岩真也 『こちら”ちくま”』48(2006-5):


  *この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

  今回は、『朝日新聞』4月21日朝刊の「三者三論」の欄に掲載されたインタビュー記事。聞き手は権敬淑記者。2時間ほどのインタビューをまとめてもらったものにこちらで手を入れ、さらに二度ほど往復して、できた。新聞の方でつけてもらった題は「生き延びるのは悪くない」。もう二人は谷田憲俊(アジア生命倫理学会副会長)、山崎章郎(日本ホスピス緩和ケア協会会長)。
  この年の3月25日、射水市民病院で7人の患者が人工呼吸器を医師から取り外され死亡したことについて病院側が記者会見を行ない、新聞で報道された。その日に取材を受け、翌26日に『読売新聞』にごく短いコメントが、『京都新聞』に短いコメントが掲載された(私のホームページに掲載)。また翌々日27日に書いて送った文章が「良い死・9」。これは筑摩書房のサイト内の『Webちくま』に掲載されている。そこに記したことでもあるが、この後、本人あるいは家族の同意があったかどうかをもっぱら問題にし、さらに、同意があれば問題なしとする「ルール」を作るべきだといった論が多く続いてしまうことになった。主要な問題はそのようなところにあるのではないだろうと私は考えてきたから、では何を考えるべきなのか、その上で何が言えるのかを述べようとした。
  昨年、「尊厳死」法制化が与党内で検討され始めたりといったことがあり、それで「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という会が6月にできたりもした。不肖わたくしも、ふらふらしつつその呼びかけ人の一人になってしまっている。そして、そう急ぎの話でもなかろうと、ゆっくり考えましょうと、今年になって「良い死!研究会」という変な名前の研究会を作ってしまい、2つの会の共催で3月25日に研究集会を東京でやっていたら、その事件の報道が入ってきた、という次第だった。
  以下の記事、ごく穏当なことしか言ってないのだが、どなたかの癇に障ったらしく、電子メイルでクレイムが送られてきた。その種のものにはありがちなのだが、あなたは「現場」を知らない、みたいなことが書いてあった。「意識のない状態で、数種のチューブにつながれ、本当に本人がそれを希望していると思いますか?」という文言があったから、その点についてだけ返信した。「意識のない状態で希望するということはありません。(それ以前の時点で、希望することはありえますがそれはまた別のことです。)このような初歩的な誤りの幾つかをただすべく取材に協力しました。」と書いた。それで題を「初歩的なこと幾つか」とした。なお、6月に一人で書いた本としては5冊目になる『希望について』(青土社)が刊行される。政治だとか労働だとか様々なテーマについて書いた短文を集めた本。その一つが安楽死だとか尊厳死といったテーマで、以下の『朝日新聞』の記事の他、2004年に『ALS』(医学書院)が出たのを機会に『聖教新聞』に書かせていただいた記事、2003年に『東京新聞』『中日新聞』に載った同じ主題についての文章などが収録されている。よろしかったらどうぞ。以上についての情報は私のホームページから「安楽死・尊厳死2006」他にあります。なんだか解説の方が長くなってしまった。では、以下。
* * *
  終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
  そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
  意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
 他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
  それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。
  なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
  負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
  家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
  尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
  物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。

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UP:20060511
自立支援センター・ちくま  ◇立岩 真也 
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