HOME > Tateiwa >

どうしようか、について(下)

―知ってることは力になる・40―

立岩真也 『こちら”ちくま”』47(2006-1):


  *この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。


なってしまっている(前回)

どうしようか

  こんなふうに事態は進行しているように思える。さてどうしたものか。考えられることを考えて書くしかないと思って、その仕事をしてはきた。ただそれは、こうした状況下で何を言ったら多くの人に受けるだろうと考えてのことではないから、人によっては、なにを寝ぼけたことを言っているのだと思われもしよう。そこで、今まで書いてきたことと矛盾はしないのだが、すこし違う言い方をしてみよう。おおむね6割の人が今よりよくなると思えばよいはずだと、それを条件として置くとどうなるか。
  まず、つらいながらもがんばっていることは、まったく賞賛されるべきことではあるけれども、それを標準にして、やはりおおむね中ぐらいのところにいる人ですこし楽しているように見えるあたりを引き下げたとしても、結果そうよいことにはならない。楽なところに合わせた方がよいはずではないか。そう思うから、そう言う。
  すると一つ、物知りの人は「国際競争力」が、と言う。これは、たんに誰かに吹き込まれているだけだとは言い切れないところはある。その論理を追っていくと、まったくの杞憂であるとは言えない。これをどう考えるのかは大きな課題だ。ただ現実にそれほどこの要因が効いており、そして、それへの対応としていまこの国がとっているやり方がよいのかととなれば、それは怪しい。
  しかし、この件について心配のしすぎだという言い分を仮に認めてもらったとして、それでも、ないものを分けるわけにはいかない、となれば、自分たちはとられる側だとやはり言われる。私は、中の上以上の人については、負担は減らないこと、すこし増えるぐらいを覚悟してもらう、そのことは正直に言った方がよいと思うのだが、その上で、まったく古典的な言い方ではあるが、収入にせよ資産にせよより多くあるところからもってくればよい、そうしよう、と言って、言ったとおりに行えばよいと思う。中ぐらいのところの細かな損得をどうこうするのでなく、おおまかに、多くあるところからもってくるというのでよいではないか。課税における累進率を変更して、というよりまずは、累進性を緩くした以前の率に戻して、たくさん(収入にしても資産にしても)持っている人からたくさん出させる。
  今、人々を駆り立ててもいるしまた諦めさせてもいるのは、一つに国の借金である。そんなものべつにかまわないのだという経済学説もあって、聞いてみると、どうやらかなりもっともな説である。しかし、普通の人々はそうはわりきれていない。借金は返さなければならないと言われると、そう思う。それまで節約しなければならないと思ってしまう。それは仕方がないということになっている。それが重くそして熱っぽい状況を作っている。借金があるからといって、気が滅入るほど細々したそして巨額な節約を迫られているのは、社会サービスや公的扶助と呼ばれる領域である。そこに直接税をまわしてもよい。ただ借金がどうしても気になるなら、その気の小さい人たちだけのためにも借金を返すことにしよう。というより、借金がどうという言い訳、居直りを聞かずにすむことを優先するなら――実質的には同じ効果をもたらすのだが――まず借金の返済に充ててもよい。公共事業は減らしたらよい。しかし、それは使い方が間違っているということであって、税を介した再分配自体には問題がないのだから、浮いた分は個々人に渡す方向で行くのがよいと考える。
  そんなことをすると景気(回復)を減速させるとか、様々な理屈はある。しかし、中ではまともに考慮すべき国境の存在、人・もの・金の国境を越えた移動という要因についても、税金のために人が国外に逃げていくということは、この場合にはあまり考えられない。
  すると残るのは「インセンティヴ」というお話である。これは、働かせるためには褒美を出さねばというわかりやすい、そしてもっともと思える話だ。格差をつけないと人は働かない、か。そんなことで私たちは働いてきたのではない、と、これまでこの国の経済を支えてきた人たちからの正面切った反論があってよいところだが、ここではすこし引いて、そんなところもいくらかは人にはあると認めるとしよう。
  ただ明らかなのは、「貢献に見合った報酬」が得られるのが当然とされるなら、報酬のインセンティブとしての力はかえって減じていくということだ。なにか発明・開発したら何億円か得られるのが当然だとされたら、それ以上の力を出すためにはもっと必要だということになる。それよりむしろ、基本的に同じ給料でやってもらうと、ただなにか特別うまくやったら、ほめてあげるし、そしていくらか給料にも上乗せをする、ということでこの社会はやっていくのだということをはっきりさせた方がよい。その方が費用対効果の観点から言っても賢いはずなのである。
  こんなことを書いていくと、結局「大衆」におもねっているのではないか、とか、金持ちに対する「ルサンチマン」だとか、言われうる。だから、そのような詰問に――私はむしろこうした詰問にほの暗いものを感じてしまうのだが、それを言っても水掛け論だから、すこし冷静に――答えなければならず、それで考えて書いてもきた(『自由の平等』、岩波書店、第2章等)。まん中あたりの所得階層にはあまり触らず、上の方からもってくるというのがある種の多数派工作であることは認めよう。またこれは暫定案であって、とくに世界規模の格差を考えた場合にはそれではすまないことも認めよう。しかし、この社会での市場のあり方を見れば、税による格差調整の度合いを強めることに問題はない。(それだけでは十分でなく、労働の場の編成の変更も望ましく、また必要であることについてはHPに掲載している拙稿「労働の分配が正解な理由」等。)だから基本的には間違っていない、ずるくはない、と言おう。むしろ、常に多数派の支持をとりつけながら、結局は多数の人にとってよくない状態を作ってしまうことの方がずるい、と言おう。


UP:200603
自立支援センター・ちくま  ◇立岩 真也 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)