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当座の仕事は幾つか

立岩 真也 2005/05/15
第31回日本保健医療社会学会大会 於:熊本学園大学
ラウンド・テーブル・ディスカッションB「『病の社会学』では何を問うのか」


 *以下は報告要旨として送ったもの

 病について何を言えるのか、言ったらよいのか、わからない(cf.小泉義之との対談「生存の争い」、『現代思想』32-14(2004-11):36-56)→再録:松原洋子・小泉義之編『生命の臨界――争点としての生命』、人文書院、2004)。『病の社会学』では何を問うのかに答を一つ言えたりはしない。それでもすること、すべきことは様々あると思う。以下のそのことについて。ただそれではつまらないから、当日は何か別のことが言えたらと思う。
 「医療社会学」について紹介した本はそれなりにある。そのわりには実際に調べられたものが少ないことを感じていた。だから、ではないが、昨年『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院)を出してもらった。私がしたのは、ALSの人たちが既に書いたものを読んで並べるという安直な仕事なのだが、その安直な仕事さえもなされていないとするなら、一度は行っておいてよいのではないかとも思ったのだ。医療という領域に対象への接近の難しさはたしかにある。それでもできることがある、こともある。
 その本は、ある程度障害についての本ではあったが、病についての本だとは思えない。ただ「医療倫理(学)」について/に対しては言うべきことを幾つか言うことはできたと思う。そして、その倫理と地続きに続いている領野として「政策」に関わるところで言えることも幾つか述べた。こうした領野で社会学が仕事をしてならないことはない。
 医療社会学が言ってきたことそのままの出来事もある。例えば社会学は「技術による解決」という歴史観を疑ってきたのだが、確かに懐疑的であってよい場合があることが今回も確認された。また「医療行為」とされている行いを誰に認めるかといった争いについては、「資格職と専門性」(進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』、世界思想社、1999、pp.139-156)に記したことがそのまま起こっているとも言える。ALSはなおったよい病気だが、それでも「なおすことについて」(野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』、有斐閣、2001、pp.171-196、周藤さんのHPに書評がある)に書いたことが妥当する部分があった。近頃の医療社会学は「病気らしい病気」を回避するところがないではないように思うが、それなりに調べれば言うべきことは多くの場合にある。
 「言い方」については「社会的――言葉の誤用について」(『社会学評論』『社会学評論』55-3(219):331-347)という文章に少し書いた。わりあい多岐に渡ることを書いたが、その一つはかなり自明なことだ。つまり、構築といった言葉は、1)「虚構」の指摘のために、2)ある枠組によって認識されていることを言うために、3)「社会的なもの」によって何か(例えば病)が生起(等)していることを言うために用いられるが、これらはひとまず相異なる。病について、3)を言うことは大切なこともあるが、ときに外れているし、またその指摘がなにか病人によいものをもたらすと限らない。さらに因果としての社会性という把握自体が社会の作動に組み込まれてもいる。「反精神医学」(については周藤さんが詳しい)を、3)を言ったと誤解することによって消滅させてしまうといったことも起こっている。『現代思想』連載(2002〜2003)の「生存の争い」のうち『ALS』に収録されなかった部分にこんなことについても書いた。歴史がもっと記されてよいし、その際、最低限度において、ものの見方について自覚的である必要はある。


UP:20050424 
立岩 真也
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