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自由はリバタリアニズムを支持しない

立岩 真也 2005/09/30
日本法哲学会 編 20050930 『リバタリアニズムと法理論 法哲学年報2004』,有斐閣,206p. ISBN: 464112504X 3990 [amazon][kinokuniya] ※ pp.43-55


*依頼され、2004年度法哲学会学術大会(2004/11/13 於:広島大学)で報告したため、学会誌に原稿を書くことになり、書いたのが以下。
 →報告要旨(2004/08/09送付)
*この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

『希望について』表紙

■「要旨」

  まず「報告要旨」として送った文章を再掲する。

  拙著『自由の平等』(岩波書店、2004年)に考えたことを書いた。第1章でリバタリアニズムに対する反駁を行っている。また、契約論的な理論構成からもリバタリアニズムが正当とする規則は導出されると限らず、導出されても規則の正当化に至らないことも述べた。また第2章では嫉妬や怨恨を持ち出して社会的分配を非難する論に対する反論を行い、そして第3章で私たちがどのような私たちであれば、分配はより積極的に支持されることになるのかを検討した。(第4章から第6章は社会的分配に肯定的なリベラリズムの議論の吟味なので、今回の議論には直接には関わらない。)この本は基本的には財の所有・分配について論じた本なのだが(それ以外のことを論じた本ではないのだが)、その範囲内については、基本的なところでは間違っていないことが述べられていると考えている。だから報告もその線に沿ったものになる。(関連情報はホームページhttp://www.arsvi.comをご覧いだだきたい。)
  「Aが作ったものをAが所持し処分することは認められるが、それをBがとることは認められないとされる。/しかしこれを自由の立場から正当化することはできない。「私が私のためのものをとる」という状態と自由とを等値する人、自由とつなげる人もいるが、それはただ単に誤解している。この状態で自由であるのはAであり、Bは自由ではない。Bはしたいことができない、自由を妨げられていると言いうる。この状態を是認する立場を「私有派」と呼ぶならそれは自由の立場ではない。」(pp.40-41)
  つまり、所有・分配については、私の立場はリバタリアンの立場とはまったく異なっており、その立場は間違っていると考えている。ゆえに、以下に引用するその本の第1章の冒頭近くは、私としては比較的好意的な記述と言えるのかもしれない。
  「これは別に論ずることにするが、リバタリアンの主張にはおもしろい部分もある。おもしろいことも言う人たちがなぜこんなことを言うのか、不思議に思える。だから考えてみようとも思う。/まず、国家が行うことの性質を強制と捉えること自体はもちろん間違いではない。むしろ本質を捉えている。国家が他と異なるのは、それが強制力を持つことであり、リバタリアンはこのことにはっきりと焦点を当てている。だからその主張は検討するに値する。」(pp.37-38)
  強制されることがさしあたり歓迎されざることであることを認めよう。また強制を介在させることに伴う厄介事が様々あることを認めよう――それをどのように軽減できるかを考えることは興味深く重要な主題である。しかし所有権を設定し保護する規則を設定するのであれば、それは強制であり、様々ありうる規則の違いは、強制の有無という違いではなく、どのような強制を行なうかの違いである。むろん、これと別に、ここに一切の規則を設定しないという選択肢――リバタリアンの中にもそれを支持する人は多くないように思うが――もある。しかしやはりこの場合でも、多くの人々は除去あるいは軽減することのできる制約を課せられることになる。それでよいかと考えると、やはり望ましくないと答えることになる。

  そして以下は、学会大会で私が述べたと記憶していることである。そこでなされたように思う議論の一部にもふれている。またすこし論点を補った部分もある。
  リバタリアンの言説は湿気ってなくて、それは私が好きなところだ。また、森村進の論などに存する一種の脱力感、妙な力が入っていないところも好きだ。このようにまず述べて、あるいは後で補足して、私は以下のようなことを述べたはずである。

■身体への権利と財への権利

  […]

■強制労働・自由のための分配

  […]

■規則の並立あるいは例外扱いについて

  […]

■最初からの分岐・並立?

  とすると、今後は身体についての権利ではなく、生産物に対する生産者の権利そのものを、広く社会に共有され当然のこととされていることだとして、肯定しようとするかもしれない。つまり、なにか別のもの、背後にあるものによってではなく、生産者による生産物の所有それ自体を、それは当然だから当然だと、あるいはみながそれは当然だと思っているからそれは当然だと言う。これにどう答えるか。
  だが、私はそれが当然だと思っていない。そして他にあげよと言われれば、まずあと数人、私と同様に思っている人をあげることができる。だから、みながそう思っているはずだという主張は成り立たない。こうして見解が割れた場合にはどうなるのか。多数決で決めればよいともしないとしよう。となると、どちらも譲らずそれで終わりということになるか。
  つまり第一に見解が並立し、平行線を辿る場合の対処について。(こうした議論もまた当日にはあったと思う。)むろん現実においては、また現実の政治においては、並存のまま膠着し、また多数決で決するということがあるだろうが、論議としては続きがあってよいはずだ。ゆえに私(たち)の側は、おおむね人々はこのように感じたり考えているはずで、ならば私(たち)の主張が受け入れられるはずであるといったことを述べてきた(『私的所有論』第4章、『自由の平等』第3章等)。つまり、共有できるかもしれない前提を見出せるよう、こちらとしてはそれなりの努力はしている。他方のリバタリアンも、ただ皆がそう思っていると(皆が思っていないのに)言うだけでなく、何か言ってくれるだろうか。言うとすれば、自らの主張には自由があると言うだろうか。その場合には議論は元に戻ることになる。そして、それに説得されないことを、私はこれまで幾度か述べてきた。
  第二に、どれほど当然のこととされているかという事実問題について。私はそう思わないと述べたのだが、たしかに、リバタリアン的な価値が私たちの社会にあって強固な現実性をもつことは否定しない。ただ私は、その当の社会においても別の価値・感覚があるだろう、実はそちらの方が優位であると考えられるとも述べてきた(前掲拙著の同じ章)。次に、私の論の中にはあまり出てこないが、むろん、リバタリアンが当然とするものがどこの社会でも当然とされているわけではないという指摘がある。単純な共産制――がどんなものなのかもよくはわからないのだが――ではなく、様々に異なりまた各々工夫された所有の規則があり、所有についての価値・観念がある。(関連して比較的最近公刊されたものとしては、寺嶋秀明編『平等と不平等をめぐる人類学的研究』、2004、ナカニシヤ出版。)その事実にどのように対するかである。なにか進化論的な話を持ち出して近代の優位を言ってみることはできようが、その妥当性、正当性は疑わしい。そしてそれ以前に、もちろん、リバタリアンが示すあり方が人と社会の普遍的な事実だと言うことはできない。

■残される論点と補足

  となると残るのは帰結主義的な正当化である。大会で嶋津格が、リバタリアニズムの主張する制度をどれほど採用できるかはそれが結果として何をもたらすのかの判断によると述べたことに、私も同意する。(なお、言うまでもないことだが、結果で判断するとは、そこに原則がないとか根拠がないということを意味しない。ある機構やある規範がもらたす結果をある基準・原則に基づいて判断してどうなのかが問題とされるということである。)
  とくに重要なのは、人は褒美をもらわないと働かないものだと言われることをどう考えるか、「労働インセンティブ」のことをどう考えるかである。ただこれはこれで長い話になる。別に書くことにしたい。ここでは、何と比較するのかについて、確認すべきことを一つ。
  私が批判しているのは、生産者がその生産物を独占的に取得する権利があるという、特殊な形の私有の規則・構図であり、ある範囲の財の使用のあり方について、個々人が自由にできることの意義をまったく否定していない。その意味で私もまた「私有」を肯定する。だから、リバタリアンによる批判が、批判の相手を、財の生産・流通・消費を国家が統御するといった主張をしている人たちであると捉え、すると社会が機能不全に陥ることなどをもって相手を否定し、もって自らを肯定するというのであれば、それは私(たち)の主張に対しては当たらない。
  「言うまでもないことなのだがそれでも誤解されることがあるから確認しておく。この本で「分配派」に対し「私有派」という言葉を使うことがあるが、それは実際には「生産者による生産物の独占派」とでも言うべきものである。この意味での私有の反対は共有ではなく、さらに国有ではない。近代社会における私有は私有の一つの特殊形態であり、私はこの特殊形態の方を批判している。共有されるべきものもあるだろうが、一人一人に権利が分割された方がよいものものあり、その意味で私有が以上から否定されることはない――では何が共有されるとよいのか、そして所有権を個々の財の完全な処分権と等値する必要もないのだから、その保有や利用や処分の権利のあり方をどう考えたらよいのか、それらは考えるべき主題として私たちの前にある。」(『自由の平等』pp.4-5)
  こう言うと、分配を国家が担うのなら、そこにはやはり国家による管理・統制があるではないかと指摘されるかもしれない。それに対してはまず、完全な無政府状態でなく所有権の設定・保護を国家が行うとするなら、どんな場合でも法・強制力による権利の設定・保護が行われている点では同じだと反論できる。
  とするとさらに、そのことは認めたとしても、分配派の路線の方が国家による介入がより大きいではないかという反論がなされる。その指摘はひとまず認めてもよい。また、徴税や給付の政策の実行に関わる不要・不当な干渉をいかに減らすか防ぐかという課題があることも認めよう。ただまず第一に、ここでは既に問題は程度問題として現れていることは確認しておこう。ここでは国家による関与があるかないかではなく、大きいか小さいかが問題になっているのである。第二に、人の生活の全体をみたとき、いずれがより大きな不自由・過度の干渉をもらたすかは国家による関与の度合いとはまた別であり、リバタリアンが正当とする規範の方がより大きな不自由をもたらすと言えると私は考える。こうして、何と比較するかが大切であり、どこを比較するかが大切である。


◆日本法哲学会 編 20050930 『リバタリアニズムと法理論 法哲学年報2004』,有斐閣,206p. ISBN: 464112504X 3990 [kinokuniya]
 http://www.yuhikaku.co.jp/bookhtml/comesoon/00047.html

目次
〔発題〕
統一テーマについて=森村進
〔論説・コメント〕
リバタリアニズムの人間像=森村進
自己所有権型リバタリアニズムの批判的検討=橋本務
社会規範に従う「自由」?=鳥澤円
自由はリバタリアニズムを支持しない=立岩真也
リバタリアニズムと「イデオロギーの正しさ」=嶋津格
リバタリアニズム法理論=橋本祐子
憲法学はなぜリバタリアニズムをシリアスに受止めないのか=愛敬浩二
私法におけるリバタリアニズムの自由の構造=山田八千子
リバタリアンと交換的正義=浅野有紀
シンポジウムの概要
〔分科会〕
伝統論についての一考察=土井崇弘
関係性の権利を考えるために=野崎亜紀子
構造的差別と法=若林翼
法の不確定性を論じる意味=佐藤憲一
現代正義論の文脈における正と善の関係=伊藤泰
J.ロールズ国際正義論の批判的検討=松沢俊樹
〔研究ノート〕
自然法論における伝統と近代=山本陽一
〔特別寄稿〕
追悼 矢崎光圀先生=竹下賢・松浦好治


UP:20050601 REV:1014
リバタリアンlibertarian/リバタリアニズムlibertarianism
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