*2006年に岩波書店から池田清彦さんの対談本が刊行される。
私は、その対談の相手の一人となった。対談は20060125に行なわれる(非公開)。
対談に際して、双方が文章を書いて(それは本に収録される)、相手に読んでもらうということになっていた。
以下は、23日までに届けなければならない文章の草稿のメモのようなもの。
また岩永さんは岩波書店の編集者。
立岩真也 20060112
→岩永様
立岩です。すみません。3回計200枚も書かせていただいた『思想』はようやく終わったのですが(昨夜校正)、他に、短いの(約10枚)短くないの(約40枚)含め、毎月連載のようなものが4つほどあり、どうしてもそういう「定期刊行物」系の締切の方がきついもので、他に時間がとれないまま、ここにいたっています。
あと文章になったものでなく、メモの段階のものであれば、問題ないでしょうから、私のホームページに掲載し、関連する私の文章(全文読めるものもあります)を読んでいただくようにすることもできます。
→みなさま(池田様・岩永様)
で、原稿書かねばと思っているのですが、いまようやくすこし、というところで以下、メモ(だいたい7枚分強ぐらいだと思います→文章にすればかるく10〜20枚にはなると思います。)ちゃんとした文章にせねばならないのですが、時間的にどうも。
しかしいついつ対談をするということになったら、もうこれは仕方ないですがら、その前には文章にします。また内容的に、以下に書くことと矛盾するようなことを書くこともないと思いますので、その点はご心配なく。以下を前提に、対談するということでこちらはだいじょうぶです。
◆岩永さんからもらったテーマ?
・平等とはなにか
・遺伝子による選別は許されるか
・ヒトの遺伝子に根ざした社会政策はありえるかなどです
■できる話?
◆1)
社会科学者は「環境説」に加担してきた。理由はある。
第一に、「社会」科学者であること。遺伝でみなが決まっていることになったら、自分の商売がなくなってしまう。
ただそれだけでもなく
第二に、B「能力に応じた取得」とC「平等主義」の両立という 改良主義的リベラリズムの前提+目標、にとって都合がよかったからである。
つまり、A「能力が同じ」+B「能力に応じた取得」→C「平等」
あとは「機会」を等しくすれば、うまくいく。
cf.拙著『自由の平等』(岩波書店)第5章「機会の平等のリベラリズムの限界」
その「機会均等」のための仕事か社会科学者、社会改良家に…
しかしAが成り立たなくては、このおめでたい話は成り立たない。
→Aは成り立たないから、成り立たない。BとCは両立しない。
(私は、すっきりBを否定するという立場 これは『私的所有論』、『自由の平等』から、それ以前から、一貫した私の立場。)
しかし能力が何に規定されているにせよ「同じ」というのは違うだろう。
(むろん、ヒトについて、おおまかにはだいたい同じ、だとは言えるだろうが、それよりはもっとせこいレベルで言えば…)
↓
違うものは違う というところから考えればよい 考えるしかない。
私は「社会(科)学者」ではあるけれども、なんでも社会的に決まっているという話にどうしても乗りたいとは思わない。
違いはある。どうしようもなくある。
*まず どちらがどれだけ決めているというような話自体がよくわからない。池田さんの「はじめに」を読んですこしわかったように思った。
◆2)
遺伝子差別 医療保険とのかかわりでは『弱くある自由へ』(青土社)所収の文章に書いた。
第6章「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」
ほぼもっともなことを書いたと思うので、それにつけ加えて言うことは、いまのところ、ない。
ちなみにさきのB的な図式を前提した上で、なおかつCの方に行きたい、改良主義的リベラリストのある部分は 未知(無知)→保険としての分配〜Cを主張した。しかし未知が既知になるとこの図式は成り立たない。(『私的所有論』第7章)
〜どれだけわかるようになるだろうかという事実問題(予測の問題)
と、どれだけ知ることにするか という問題
知るなり、知らないなり、各人の勝手でという案はあるが、そう簡単にはいかない。
◆3)「改造」について
うまくいくなら、それはそれでよいようにも思う。例えば 勉強するより、チップを脳に埋め込んだら何かができるようになるなら、その方が楽でよい。
として、「積極的優生学」がまずいとすれば、なぜか。『私的所有論』の終わりの方ですこし。つまり、
生殖が絡んでいるからには これは「他人」に関わることである(自分で「改造」するぶんにはかまわない、ことにする。)
「他人」のことを、「自分の好み」で決めることである。これはまずいのではないか。
…… …… …… ……
と、ここまで、池田さんの原稿(レジュメ)をもうずいぶん前にもらったこともすっかり忘れていて、今、気がついて、すこし読み始めたところ。(15:30)
◆1)まず(「積極的優生学」のところで)上記したことでもあるが、私は、親がどんな子を生むかについての権利を有しているとは考えていない。
これは「個人の自由」を尊重すべしという立場と矛盾しない、というか、整合するはずである。
*ここは話が大きくわかれるところ。私にとっては基本的な立場。きちんと話をして、つめられるならつめておいてよいことだと思う。
(ちなみに小泉義之は――私の同僚ということにもなるのだが――あれは、予想外の変な人間?が出現することを期待しているのである。しかし、残念がなら、そう期待どおりにはならないだろう、というのが私が思うこと。)
◆2)あと「コスト」の問題が語られていた。
1.自分は自分の生まれを決められない、親は子どものあり方を決められない
とすれば「自己責任」→「自己負担」という論理は――わざとやったわけではないということになるから――とれない。
2.問題は「わざと」の場合。わざと(というか、わかっていて)金のかかる子を産んだ(かかる子になった)のだから、その分は自分で払えという話は、わかりやすくはあるのだが、いつも成り立つか。そうとも限らない、と私は考える。
(私は、親→子、について「趣味」を実現するという立場を支持しないけれど→1.)
自らの「趣味」「価値」の実現にかかるコストはすべて自分持ちでなければならないとは必ずしも言えないだろう。
故意とか予測可能性と(負担の)責任の問題を別に語るという方向もある。(私は分配に関わる責任・義務についてはそういう立場。)
◆3)あと「社会的流動性」のことも
これはある意味、社会の「全体像」みたいなもののよしあしについて判断しているということ。(そのよしあしの判断そのものについては、私も、そう違うことを考えていないが。)しかし、それは個人の行為を制約する理由にはならないという、「自由尊重派」の主張はあるだろう。人それぞれの判断で、という価値を遵守するとそうなるはず、とも言える→流動性が引くなるから、これを使わないということにはならない。
池田さんの議論には、a個人の自由重視というところと、b社会の全体が動いていく方向にいての判断と、両方があって、むろん両方は関連しているものの、述べたように、bがどうであろうと、aの観点から、やりたいようにやることを拒めないという話にはなりうる。
◆4)所有権について
人体組織、情報の所有権の問題について。これについては基本的なことは
『弱くある自由へ』第5章「生命の科学・技術と社会:覚え書き」
3 その人を離れ利用可能になる時に生ずる問題
1 移動し譲渡されるもの/されないもの
2 所有の規則
でざっと書いたはず。
あと2004/10/10「遺伝子情報の所有と流通」『GYROS』7:146-154
これは添付ファイルでお送りしたりできます。
私の基本的な主張は、例えば遺伝子情報は、その「本人」だとも、「発見者(開発者)」
のものだとも言えないというものです。