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「自己決定」他
立岩 真也
2006/12/15
『現代倫理学事典』,弘文堂
http://koubundou.co.jp/
[自己決定] 2000字 →
自己決定
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[English]
*2006年3月27日原稿発送 8月21日校正
自らに固有に関わることを自分で決めること。むろん、これだけで権利の範囲が決まるかといった問題と込みになってこの言葉はある。そのことを確認するためにもこの語の使用歴を概観する。
「民族自決権」と訳されるright of peoples to self-determinationの語は特に第二次世界大戦後の非植民地化を唱導する語として用いられた。また社会福祉の領域では以前から、クライエントが自分の判断で自らの方針を決めるというケースワーク上の原則として自己決定self-determinationの原則は唱えられていた。他に、1991年に米国で制定されたThe Patient Self-Determination Act等にこの語は見える。ただ英語でself-determinationの語はそれほど使われない。むしろ、多く「自律」と訳されるautonomyが自己決定に対応する語として頻用される。例えば英米のバイオエシックスの議論でも(patient) autonomyは中心的な概念とされる。思想史的な説明としては、19世紀後半、宗教的、政治的干渉を否定して個人の自由を主張したJ.S.ミルの『自由論』から紹介が始められることが多いが、自律はさらに遡り、近代社会での人間・社会のあり方の基本にある原理である。
同時に、この社会の中で自らの存在と決定を認められてこなかった人々の権利としてそれは主張される。医療の領域では、人体実験への批判の中で、また医療の消費者運動から、これが主張されるようになる。そこで主張されたpatient autonomyが「患者の自己決定権」と訳されたのだともされるが、この経路だけがあったのではないようだ。これらの主張・運動はみな、ある程度相互に独立に、世界の各地でほぼ同時に起こっている。日本では、法学説としては1960年代、判例が1970年代以降見られるが、利用者の運動の中に自己決定の語が大きな位置を占めるのはそれより後になる。女性の運動、例えば1970年代、1980年代の優生保護法改定への反対運動で「産む産まないは女が決める」といったスローガンが掲げられる。ここでは少なくとも当初、自己決定(権)という語自体は見えない。この熟語は少し遅れてやってきて定着する。サービス提供者側の倫理原則としてではなく、生活する自らのあり方に関わる原則として決定の主体たるべき人々自身が主張し出すのは1970年代、言葉として多用され出すのは1980年代に入ってからになる。この語は、翻訳語というより日本語としてわかりやすくもあったのだろう、よく使われるようになり、様々な主張の中に入ってきた。
こうして、近代のまったく正統的な主張でありながら、二〇世紀の後半になって、それは、新しく、周辺から言われたことでもある。まず、このことをどう理解するかが大切である。
これまで取り残され、決定することが認められていなかったから主張される。その理由は幾つかあるが、一つには、自分の持ち分で買えるだけが決められる分だという規則・価値のもとで、決めることができなかった人たちが主張し出したということである。とすれば、その権利はいわゆる自由権にとどまるものでないことが確認されるべきである。つまり、決めるためには、決めたことを実現するには資源がいる、それを得る権利があると言われているのである。とすれば、この限りでは社会権、生存権と呼ばれる系列に属する権利でもある。
もう一つ、この語の、とくに日本での議論について注目すべきは、この言葉が旗印として掲げられるのと同時に、時には旗印として掲げ強く主張するその同じ人によって、ためらいや懐疑が表明されていることである。何を自らが決定できる自らに関わることとするのか、自己決定を主張総体のどこに位置づけるのかといった、まったく倫理的な問いが繰り返し問われてきた。
それは、一つに、自ら決定すること、自らを自らで律すること、律することができることを第一の価値としてよいのかという問いかけである。律することができること、あるいは身体は動かせなくとも、知的に統御することができることを一番目に置いてよいのかが問われ、それを否定する主張があった。
また一つに、何が自分が決める範囲であるのかである。生まれる子のあり方を決めることはどうか。普通に考えれば自分のことを決めているとは言えないはずだ。しかしそのような場面でもこの言葉が用いられる。それは間違っていないか。そしてそのことと生殖に関わる女性の決定権とはどう関係するのかといった問題系がある。
さらに一つ、たしかにあることがその人固有のことであるとして、そのことについていつもその人の言うとおりに決めることを認めてよいかという問題がある。この社会での暮らし方を決められない人たちの主張というより、その社会の中での「尊厳」を維持し保守するために、自らの生命を終わらせる決定、「死の自己決定」としての「安楽死」はそのまま肯定されるべきなのか。このような問題群がこの語を巡ってある。
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■「障害/障害学」(1000字)→
障害学
[English]
身体(広義の身体)の異なりと人・社会のあり方との間に起こる事態であり、通常は否定的なものとして現象し、多くそのことが当の人に帰責させられる。身体障害・知的障害・精神障害と分けられることがあり、また他にも発達障害等々の言葉がある。1980年の世界保健機構(WHO)国際障害分類では機能障害(impairment)→能力障害(disability)→社会的不利(handicap)という図式になっていた。これに対し、身体を不利の原因と捉えているといった批判があり、環境因子と個人的因子の相互作用を重視した方向の修正が示された。同じ文脈で、障害は人の一部だから障害のある(with disability)人と記そうとか、社会が障害を与える(disablement)のだから、障害を与えられている人(disabled)と呼ぼうといった主張があり、例えば米国にはADA(The Americans with Disabilities Act)という名の法律があり、本人たちの世界組織にDPI(Disabled Peoples' International)がある。
障害学と呼ばれる動きもその流れの中にある(日本では2003年に学会設立)。個人の身体とその欠損に注目し、問題解決の責任を個人に負わせ、治療・訓練する医療・福祉の専門家支配に連なる「個人モデル」「医療モデル」に代え、社会の中に障害が現われることを把握し、社会変革を求める「社会モデル」を主張するとされる。また、本人の経験に定位しようとし、本人の寄与を重視する。身体からの逃れ難さが語られ、障害の否定性が疑問に付され、独自の文化の側面があることが示されもする。
これらから考えるべきことは多い。できること=能力(できないこと=障害)の度合が人々皆等しいのであれば、業績原理・能力主義を採用しても、人は等しく得られ、同等の生活ができるだろう。つまり障害という契機が存在しないなら、現行の社会は基本的にそれでよいとも言える。しかし社会に格差はある。また人々の身体に異なりはある。それをどう考え、それにどう対するか。これは社会規範・社会構成の根本的な問題である。さらに、できないことは機械や人に代わってもらえばよい、社会が補えばよいという主張は正当であるとして、代替できない機能もある。姿形の違いは多くの場合なくならずその人にとどまる。そしてそれに対する反応は人の感性・感覚に関わり、それもまた変更され難いものだとされる。では事態は膠着したままである他ないのか。そう言いたくないなら何を言うか。
■「生存権」(1000字)
人間が尊厳を持って生きる権利。社会権の重要な一部とされ、また一般に自由権と対置される。法としては1919年のドイツのワイマール憲法における規定が最初のものとされる。日本国憲法では第25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、第2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」としている。第1項は国会での論議で憲法改正案に新たに書き加えられた。米国憲法にはこの規定はない。他の諸国でも規定の有無、性格、表現は多様だが、「人間の尊厳ある生活」といった表現で世界人権宣言や国際人権規約にも盛り込まれている。また、日本国憲法前文第2段に「平和のうちに生存する権利」も謳われ、これが「平和的生存権」として主張される。環境権の根拠に生存権を位置づける説もある。人以外の生存の権利を巡る議論もある。ただやはり、所得保障や社会サービスとの関連で議論されることが多い。「最低限」と言うべきかという論点もあるにはある。ただ現実にはそれが問題になることは多くない。この権利は体制の問題・矛盾を激化させないための手段ともされつつ、同時に強く肯定されてきた。「最低限」を暫定的なものとしつつ、現時点では有意義なものとするという捉え方とこの見方は整合する。しかしそうした段階論をとらないなら、どれほどが尊厳を保障するのかが問題にはなりうるし、またどれほどかを規定したり論じたりすること自体の意味も論題になる。ただ、そんな議論の手前で、生存・生活の困難が感じられ、その際に25条が拠り所にならないかと人々は思う。すると、憲法学上、具体的に国に請求できる権利なのかという論点があると言われる。幾つかある他の説とともに、25条は国に政治的・道徳的義務が課せられていることを宣言するもので、国民には憲法に基づいて裁判上の救済を求める具体的な権利はないとする「プログラム規定説」がある。国に政治的な義務があることを認めた上で、なお具体的な訴訟を提起できないとするこの説に論理の一貫性を見出せるかはたいへん疑わしいが、最高裁の判例(朝日訴訟、堀木訴訟、等)はその説を採用しているとされる。だが、立法・行政にさしたる期待ができないとなれば、司法の場に訴えることにならざるをえず、すると解釈論議が、生存権の具体像を言う手前で、またなされてしまうのかもしれない。
■「ソーシャル・ワーカー」1000
■「措置入院」1000
■「中間施設」400
■「ノーマライゼーション」400 →
施設/脱施設
1950年代のデンマークで、巨大な収容施設での知的障害者の暮らせられ方を親たちが批判し、バンク=ミケルセンがそれを支持して登場した。1960年代以降スウェーデン他に波及し、国際的に普及した。もとの語の読みを継いでノーマリゼーションと読まれることもある。障害者に、普通の市民の通常の生活状態を提供することを目的に掲げる。日本では1970年代に使われ始め、1981年の国際障害者年の前後からよく知られる言葉になった。この語は、初期には施設での生活は前提とした上でその小規模化とその中での生活の諸条件の改善を目指したが、後には自立生活運動の流れも受けて脱施設を射程に入れるものとなった。しかし日本の1970年代以降はむしろ施設が作られていく時期であり、施設をどうするかという具体的で厳しい論点をおおむね回避しつつ、普通にするという穏当な語感がよかったのか、表立っては誰にも反対されることのない言葉として普及することになった。
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http://d.hatena.ne.jp/ecochem/20061209
UP:20060925 REV:1207,09 20080320
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