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書評:佐藤幹夫『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』

立岩 真也 2005/11/15 『精神看護』08-06(2005-11):110-116(医学書院)
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00138/0013858.html

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佐藤 幹夫 20050317 『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』,洋泉社,318p. ISBN: 4896918983 2310 [amazon][kinokuniya] ※ a07. d,

 *関連項目や人のファイルへのリンクは、下にある「メモ」のところからどうぞ。
  *見出しは編集部による

※この文章の全文(にいくらか捕捉を加えたもの)は以下の本に収録されました。
◆立岩 真也 201510 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社 ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 [amazon][kinokuniya] ※ m.

『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙

■2つ、明示されている

 2001年に浅草で男性が女性を包丁で刺して死なせた事件が起こった。刺した男(以下「男」で通す)は自閉症の人だった。弁護側は、そのことが理解されておらず、捜査側の主導で供述書が作られ検察もそれに乗っていると指摘し、裁判所はそのことをわかれと主張した。しかしその主張は認められず、無期懲役の判決が下された。本書はこの事件を取材して書かれた。なお、男はいったん控訴するが、この本が書き終えられた後(2005年4月)控訴を取り下げて――いずれについても弁護士に相談はなかった――この裁判は終わってしまった。
 著者の佐藤幹夫は1953年生まれ、養護学校の教員を21年勤めた後、2001年からフリーライター。ここしばらく、読み応えのある本の多くがそうした書き手たちによって書かれている。著者のホームページ――私のところからもリンクされている――があって、それを見るとわかるが、既にたくさんの紹介・書評が出ている。おおむねきちんと紹介し評価してあって、どんな本かがわかる。あとは実際に買って読めばよいということになっている。

 この本にあるメッセージははっきりしている。一つに、自閉症といった状態にある人が犯罪を犯したときに、その状態がどんなものであるかをきちんとわかってから、わからなくてもわかろうとしながら、捜査にしても裁判にしても、対処すべきだということ。(裁判では、この障害の有無自体が争点になった。その場合の鑑定のあり方とか、あるいは鑑定に――自閉症なのか自閉傾向なのかといった対立が起こってしまうこととか、その場合の裁判のもって行きかたとか、それも議論の対象にはなるし、この本でもそれも言及されているが、ここでは略す。)また一つに、この男がこの行ないに至るまでには、この男が、この男だけでない人々が生き難い事情があるのだから、そこをなんとかすることが大切で、そちらが先決だということ。
 以上について、まったく異論がない。この二つは、言うだけなら言えることかもしれないが、この本には、たしかに本当にそう言えるのだと実際に思せるだけのことが書かれている。
 だから私には書くことがない。そんなときにはどうするか。一つはより基本的なところに論を戻し、考えてみることだ。私は、これまでもずっと、責任をとるとか、罰するということがどんなことであるのか、考えた方がよいことだとは思ってきた。しかし難しくてわからない。そこで罪とか罰といった主題を避けてきた、私には書けないから誰か考えてくれと書いてきた。ただ、確率による判断・処遇、とくに集団で括った場合の確率の差に応じた対応について、それにある合理性はあっても、できるだけ行なうべきでないといったことぐらいは言おうと思った。そして、ある人が被害者であるとき、その関係者例えば家族もまた被害者ではあるが、それでも両者は基本的には同じでない、と考えるべきではないか。そのぐらいのことは言えそうな気がする。だが、やはり様々にわからない。それでもメモを作ってみたりした。まとまらないまま、この文章の3倍ぐらいの量の文章がホームページ(http://www.arsvi.com/→「立岩真也」→)に載っているから、そちらでどうぞ。

■そのうえで・1――わかることについて

●まず、わかろうとすべきである
 それで、もう少しこの事件と本に即してみよう。
 証拠として採用された調書は、いくつもの理由で、本人がしたこと、思ったこと、語ったことそのままだとは思われない。このように弁護側が言っていることはもっともだと私は思うが、結局は検察側の主張に沿った判決になってしまった。このことについての評価・判断は、この本では読者に委ねる書き方になってはいるが、問題点ははっきりと伝わる。この本が出なければ、この事件がどのような事件であったかを知る人はとても少なかったはずだ。裁判は終わったしまったが、これからのこともある。
 その人が置かれている状態について理解に務めるべきだということ。それはその通りだ。知的障害に限ったことではない。例えば聴覚障害の人が被疑者、被告になった場合。通訳がなされなかったり、通訳がへただったりして、まったく間違ったことが伝えられることがある。外国語しかわからない人の場合にもそんなことがある。まずはどんな取調べがなされたのか。例えばビデオに録画しておいて必要な場合に後で見られるようにすればよいという案が出されている。それはよいと思う。

●では、わかるとはどんなことか
 しかしこのことはわかった上で、どのようにわかることがわかることなのかという疑問は残る。ある種の知的障害と呼ばれるものはいくつかの癖の塊のようなものであって、そのことさえひとまず飲み込んでいれば、かなりの部分はなんとかなる。ここまでは言えるし、そのこともわかられていないのだから、言う必要はある。わかってもらえないと、裁判の結果も違ってくる。ここまではわかる。
 そして少し身を引いて見てみると、それらの癖はときに当惑させられときに迷惑なものではあるが、それ自体としてよいとかわるいとかということはない。それにいちいち腹を立ててしまうのは、つまりはこちらがよくない。ここまでもよい。他方、検察側は、そして判決において裁判官は、非常にありきたりに異常な人間として描ききってしまう。それがおかしいことはよくわかり、確実に伝わる。そこまでもわかる。
 ただ、障害にもより人は様々、というところをもう少し越えていく、あるいは越えることが求められてしまう場面がある。たとえば「動機」やあるいは「反省」が求められる場面、求められてしまう場面がある。そんな場面ではどんなことを考えたらよいのか。同時に、私たちが越えることを求めてしまうことの意味、「わけを言え!」と言いたくなったり、「悪いと思っているか!」と言いたくなったりすることの意味とか、そんなことが気になったりするのだが、その時にも、どうしたってわからないところは残るのだろうなと思いつつ、やはりわからない、というか、いったいそこはわかるものだろうかと思う。

●もう少し行けたのではないか
 著者は幾度もこの男の言うことが不可解であると述べる。たしかにわからないという感じはある。また、その男の態度に憤る。著者は被害者の遺族にも幾度も会い、話を聞く、その心情を聞いている。ここもかなり丹念に本に記されている。とおりいっぺんの――と思われてしまう――反省の言葉しか言わない被告に憤りを感じる。弁護士も、困ったり、ときに苛立ったりしている。それはそうだと思う。
 そしてさらにやっかいというか微妙であるのは――それはまた希望でもあるのだが――その人の状態は脳のどこかがどうかなっていることからやってくるものではあっても、それは宿命のように固定されたものだとも言えなさそうだということである。実際、この男が語ることに変化はあって、そのことを弁護士も法廷で語ることがある。そしてどんな場で話すか、誰と話すかによっても、幅はあるようだということ。このこともまた記されている。
 わかればそれでよいというわけでもない。ただ、変化や幅を含めて、わかるところの限界というか、わかるのだかわからないのだかわからなくなる地点(がわかるように思う地点)というか、この本は、そこまで行っていないという気がする。この隔靴掻痒感というのがどこから来るのか。近づけばわかるというものでもないとも思うし、何かわかったような気がしたとして、それが当たりなのか、これもはっきりしないだろうとも思う。それにしても、「本体的なわからなさ」、というのでは多分ないように思えるわからなさが残る。

●本人に聞けたらどうだったか
 ときには、直接に聞いてみることは不可能ではない。何年か前に精神障害の人が起こした傷害事件があって、裁判になって、一審の判決が出た。その事件を長く取材している新聞記者の人から話を聞く機会があった。その人は、拘置所にいるその人に何度も会って、話を聞いてきた。浅草の事件の場合と違って、その人は多くのことを、ときに過剰に多いと思えるほど、語る。しかし一審判決の後、拘置所の側の裁量ということになっているそうなのだが、接見を拒否される。それは不当だと、裁判を起こそうと思うと言っていた。
 筆者は自閉症についての文献からいくつか見解を紹介する。それはそれで有意義なのだが、まだわからないという感じは残る。この事件でも、本人に聞いてみるということを、もちろん著者も考えたはずであり、しかし不可能だったということだろう。会いたいと言っても、先方は会いたくないだろうから会えないだろう、また会えたとして、弁護士が様々に働きかけてみて受け取ったものや、過去のことをよく知る人が知っていること以上のものを引き出すことはできなかっただろうとは思う。そして本人が何か語ったとして、それをどう受け取ったらよいか、やはりわからないところは残るだろう。だからまさに無理難題というものだが、しかし、ありうべき本から見たときには、この本にないものがあることは言っておこう。それにしても拘置所や刑務所での面接室では条件はわるい。もちろん公判の場も。ほんとうならもっと別の場で、あるいは別の人からであっても、何かを受け取れるかもという気がする。
 男は困惑はしている。こう振舞えたらたぶんよいのだろうと思っているが、振舞えず、そのことに困惑しているようでもある。反省の言葉が求められる。実際反省の言葉を言う。しかしどうもリアリティがないことに困っている。としたら、この困惑はどんな困惑なのだろう。例えば、悲しいことだと論理としてわかっているが、それを表現するのが苦手である(p.79)とはどんな事態なのか。こう言われるとなんとかわかった気になるのだが、しかし、少し考えてみるとやはりわからないところが残るように思われる。等。

■そのうえで・2――つきあうことについて

●刑法39条との関わり
 次に、犯罪や、刑罰や、「医療観察保護」の前にすることはあるだろうという、もう一つのメッセージについて。これは、刑法39条の「心神喪失「心神耗弱」の扱いにも関係はする。この本を出したのと同じ洋泉社から、2003年、だったか、後に『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』(呉智英・佐藤幹夫編、2004、洋泉社新書y)となる本に収録する原稿を依頼されたことがある。書けないと思いますが、書ければ書きます、というようなことをたぶん言い、しかし一字も書かないままに時は過ぎ、結局お断りするかたちになった。最初に書いたように刑罰や責任のことがよくわからなかったし、いま書いたように様々な障害のことがあまりにわからなかったからだ。書かなかったにもかかわらず、この本が出版されると、送っていだたいた。いろいろな人が書いている。佐藤はその本の編者の一人でもあり、一つの章を書いている。
 ただ、この本(『自閉症裁判』)は、39条の正当性そのものを検討するといった本ではない。そしてこの事件で、弁護側は、「心神喪失」「心神耗弱」を言って、刑を科さないこと、刑を減ずることを主張したわけではない。違うところに裁判の争点(に弁護側がしたかったもの)があったことは最初に述べたし、そのことは、この本の中で幾度も確認されている。つまり、この男が刑罰の対象にならないと言いたいわけでない、しかし裁判はきちんとしてほしいということだ。そしてこの点において、つまり(きちんとした)裁判を受ける権利という点で、39条の扱いをどうするかとこの事件とは関わりもある。そんな関係になっている。

●副島弁護士のこと
 ここでもまた私は何か書けるわけではない。ただ、一つ、この本に書いてあることから、詳述はされていないところに移っていってみたい。
 刑事責任の減免に関わる問題に関しても、刑罰や「医療観察保護」ではない対応を優先せよという主張に関しても、「人権派」という言葉が、予め否定的な、揶揄する言葉として使われることがある。「あまい」とか「ぬるい」とか、そして「ばか」だとか。しかし、これもずいぶん単純にした話だと思う。私が知る人は人権派の人たちの方が多いと思うけれど、そう脳天気な人たちではない。
 どんなきっかけからだったか、この事件を担当した弁護士の一人副島洋明さんをたぶんかなり前から知っている。それでこの事件のことも、マスメディアが報じたのと違う事件として少し知ってはいた。副島さんは障害(とくに知的障害)が絡んだ、施設における虐待等、金になりそうもない裁判にたくさん関わってきた人である。著書に『知的障害者 奪われた人権――虐待・差別の事件と弁護』(明石書店、2000)等がある。お会いしたのは3回ぐらいのものだと思うのだが、その最後が2002年?のある集まりで顔をみかけた時だと思う。副島さんが声をかけてくれて、短い時間雑談をした。副島さんは、刑務所にいる人たちの中にかかなりの数の知的障害の人がいるという話をされた。精神障害の人、知的障害の人の犯罪率は高くないと言い続けてきて、それはそれで間違いでないのだが、しかし、他方で刑務所に多くの、詐欺罪(無銭飲食や無線乗車)や窃盗罪で捕まった知的障害者がいるのも事実だ、と。そこのところをどう言ったらよいのか、どうしたらよいのか。難しい、という話をされた。(このことはこの本では240頁などに書かれている。)そんなことを話しているうち、たしか(たぶんこの浅草の)事件の関係で、彼の携帯に電話がかかってきて、それで話はだいたい終わりになった。最後、難しい問題だから(あなたは学者なんだし)考えてくださいよ、みたいなことを言われた、と思う。
 それ以後会っていない。それでも、この浅草での事件のことや、それ以外の副島さんたちが関わっている多くの事件のことが報告されているEメイルのニューズレターをずっと送っていただいていて、そのいくらかは読んでいた。

●危険であるとしても、という立場
 副島さんは、基本的には直情型の正義漢だと思うのだが、しかし様々なやっかいごとを知っていて、自分の仕事をやっている。また、さらにもっと直接に知的障害や精神障害の人とつきあっている人たちや、その本人たちがやっかいごとに直面している。たとえば作業所を作って運営したいと思う。それで、近所の人たちに彼らは、あるいは私たちは無害だと言う。おおむねその通りではあるのだが、それでもものをとってきたりものを壊したりする人はときにいる。それが繰り返されると、同じ場所で運営を続けられないから、自主規制を厳しくする。それがさらに苦しくさせ窮屈にさせることがあることを知っていて、それでどうしたものかと思いながら、日々やっている。
 他方に、無害な知的障害者・精神障害者を切り離し、そしてその(多数派である)部分について、普通の暮らしを、という――表立ってそうは言わないにしても、つまりはそういうことになってしまう――流れがある。(この本ではpp.35-36で政策としてのこの流れに触れられている。)「偽装された正義」といったものがきらいな人たちは、そういう流れを批判すればよいのだ。
 そんな流れと違い、保安処分や医療観察保護法を批判してきた精神障害の本人たちに、自分たちは危険ではない、とは言ってこなかった人たちがいる。危険であることがある、危険であるかもしれない自分たちから、しかし予防拘禁はやめろと言い、裁判はきちんとやってくれと言ってきた。そのことの意味はきちんと受け取り、その先を考える必要かある。

●共生舎の人たちのこと
 次に、それを言いながら、それにしても犯罪――も様々だから一緒くたにしない方がよいが、すくなくとも傷つけたり殺したり――は――残念であっても、根絶したりはできないのだが、それでも――止めたいし、避けたい。そのことについて。
 札幌で「共生舎」という障害者の生活支援をするグループがある。そこの岩渕さんも、直接の面識は全然ないのだが、まったく知らないという人ではなかった。ときどき、Eメイルの檄文というか、いただいていた。また、私のHPにリンクの依頼をもらいリンクしてもあった。彼が言うことにはおおむね賛成なのだが、なかなか表現が激烈で、この人はいったいどういう人だろうと思っていた。するとこの本では、いかにも、という感じの人物として登場する。「真っ白な長髪を頭の後ろで結び、長いひげを生やし、年のころ六〇過ぎの一人の人物」「杖をもってはいるが、眼光鋭く、背筋の伸びた人だった」「どう見ても堅気じゃない」(p.167)
 ホームページの写真を見るとそれほどでもない、好人物ではないか、と私には思われるのだが、ともかくこの人とその仲間は、まず副島弁護士から連絡を受ける。「彼こそが報道陣に囲まれた男の家に乗り込んでいき、テレビカメラやマイクをなぎ倒した人物であった。」(pp.167-168)マスメディアはこの事件が「障害絡み」であることをやがて知るとさっと引いてしまうのだが、その前にはとても熱心だったのだ。こうしてようやく副島弁護士らは、父親から弁護士選任の印鑑をもらえることになる(p.50)。
 共生舎の人たちは男のことを知らなかった。そしてその男は、東京に行ってしまい、女性を刺してしまい、捕まっている。もう何もできない。後悔するのだが、もう遅い。ここの人たちは、この事件でこの男の妹を知る。男の母は亡くなっていて、父の仕事もなかなか続かず、男もそれは同じで、家のものを持ち出したりしてしまう。家出はするし、前科はつく。妹は、中学校を出て、家の仕事をし、勤めに出て、22歳でガンを発病し、しかし仕事を続け、25歳で亡くなってしまう。その最後のところで、共生舎の人たちは彼女の暮らしをせいいっぱい手助けする。
 もちろんその女性を手助けすることと、その男に何かができたかもしれないそのことと、違うのではあるだろう。しかし、役所への申請や役所とのやりとり等、その人たちが手伝って、それで彼女はその人生の最後の時期を、その以前よりはよく、生きることができた。この本は、そんなことがあったらたぶんなんとかなったはずだと、その妹の女性の支援を記述することによって、伝える。
 ぎりぎりのあたりでなんとかやってる、というかやれないでいる人たちがたくさんいる。そのままに放置されている。それが、まわりまわってではあっても、この男の行ないに関わってはいる。そして、犯罪にあたる行為をするとかしないとかにかかわらず、困難はある。それはなんとかした方がよい。結局はその方が、様々なことがうまくいく。これはいささか予定調和的な話のように思われるが、それでも、おおむね当たっている。ただ聞くだけだと、なにをとぼけたことをと、とくにそう言いたい人は、言う。けれども、やはりそういうことはあるのだ。

●捕縛の手前で何ができるか
 この部分でも、この本は説得的である。言葉だけいいかげんなことを言う人がいるなら、それを責めるのはよいだろう。しかし、なにか引き受けている人がいて、その人はやはり「人権」、と言うし、言わざるを得ないでいる。さて私は、このすこし変わった(ように見える)人やその仲間たちをただ持ち上げようというのではない。彼らは「触法障害者」に関わってきたという。それはどんな具合のものなのだろう。このことが気になる。もっと知りたいと思う。
 「地域で」と、ただ言うのは危なくはある。地域とはまた恐いところでもあるからだ。また民間で、つまり「素手」で向かえというのか、ということもある。世の中にすごく迷惑な人はいるし、手におえないことはある。人間はたしかに危険だし、その危険はなくなりきったりはしない。ときには物理的に対処せざるをえない。しかし、武器になるものが様々あるから厄介だが、それ以前には、一人の人間には一人の人間の身体があるだけなのだから、はなからどうにもならないというものではないかもしれない。
 刑罰にせよ、医療という名がついている刑罰もどきのものにせよ、それらのいずれにも行かずその手前でなんとか、が現実にどのように、どのくらい可能なのか。そこのところをわかりたいと、というかその感触を得たいと思う。触法の障害には福祉支援が断たれる。しかし共生舎は札幌でそんな人を相手に「法外福祉」をやってきた――なのに、その男に会えなかったと、後悔するのでもある。「なにかつけては警察沙汰になるものがいる。共生舎では世帯分離させ、単身独居。そして二四時間、誰かが必ず連絡できるようにしている。そのことで警察の世話になることはほとんどなくなる」のだと岩渕さんは言う(p.169)
 「触法」の人たちとどうやって「法外」につきあって、それでどの程度どうにかなるものなのか。ただそれはこの本には書いてない。なんとかなったり、ぎりぎりなんとかなったり、あるいはなんともならなかったり、そのことを巡って何をしてきたのか、どんなことが起こってきたのか。そしてそれは札幌でだけなされてきたことではない。全国各地で様々起こってきたことだ。知りたいと思う。

●この本の後に知りたいこと二つ
 こうして、この厚い本にも、まだ書いてないことがあったと思う。公判に通って記録を分析し裁判を批判する、犯人の過去を辿っていく、また被害者側にもきちんと取材する。それは犯罪もののノンフィクションの正統的な書かれ方でもあって、その部分でもこの本は成功しているし、そして伝えるべきことがたしかに伝わっていることは述べた。裁判の問題性は明らかになり、もっとましな方向も明示されている。ただ伝わったこと、わかったことと対になって、もっとわかりたいことが二つあったということだ。
 一つ、障害なら障害のことがわかって取り調べなり裁判なりすべきだということは伝わった。けれども、この男にとっての罪と罰がなんであり、そのことと関わって、この男、この男の犯罪にどう面すればよいのか、そのところはやはりわからなかった。というか、何がわからないかをわかりたいと思った。
 もう一つ、刑罰や強制的な「医療」以外の対応、手前の対応が必要だということも伝わった。ただ、その行いが実際にどのようになされているのか、なされうるのか。それも、結局は一つめのこととも深く関係するのだが、知りたいと思った。それはたぶん、裁判を追うという仕掛けの本では無理がある。裁判は、わからないものはわからないと言うとか、法で解決しないように対応しようとするといったことから遠い場所だからである。このように定型の場所に収まらない領域を調べて書くのは手間のかかる仕事でもあるだろうが、この本の著者でないにしても、誰かが追って書いてくれたらと思う。

■関連書籍

◆立岩真也 2014/08/25 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

 「☆09 ここでも「加害」について述べることは別に行なう。それは、やはりふれなかった『造反有理』[2013d]と同じく、その主題が大切でないと考えているからではなく、最も重要だと考えているからだ。加害的でないという主張は高岡健[2009]でなされている。「浅草事件」の検証として高岡・岡村編[2005]、佐藤幹夫[2005][2007]――前者の書評として[2005b]。裁判・精神鑑定他について高岡[2010][2013](cf.第4章註03)。精神障害も入れれば、加害的であるという、あるいは加害的であるような一部は加害的であるという――同語反復的な――主張の方が目立っているし、それを主張する論・著作もより数は多い。すくなくとも多くの人たちに届いている。この主題を論じるときに別途紹介する。」

 
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   □メモ□
 *以下、まったく文章にもなっていないものを(ひそかに)掲載するのは、一つに、こうした?主題について研究している院生に向けて、のことでもあります。
 *というような事情もあって、以下のメモ、60(→65)枚ぐらいになってしまいました。雑誌に載せてもらうとしたら、1冊の本の書評というかたちではなく、かつ、分けて載せていただきたいとお願いすることになる、かと思います。
 *20050907 更新しばらく停止

   *概要?

 ■書評?を依頼されたこと等
 ■関係者のこと
  まずは、この本(佐藤[2005])が言っているまっとうなことを短く。&関係者(副島など)の本などもいくつか紹介
 その上で…↓

 ■基本的に書けないように思えること

  「この主題」についての言説(研究…)の不在と必要性について
  とくにこのあいだのそう長くはない時間、現代史について知ること。
  本は様々あるにはある(→いくつか紹介)、が。詳しくは、というより、多くの人にとっては、まったく…

  概説
   言われていること→対立・しかし・並立
   そしていずれももっともでもある。
    ・なぜ個人への帰責、なのか。(ただ、それを回避しているかのように見える社会において。むしろ軽微な違背について、責任が問われる、叱られるということがあるのではないか。(意図→行為の連鎖を知らないといったことではなく)意図を問わないこと自体が、何かの知恵なのではないか。)
    ・抑止
 いずれもそれなりにもっともではある。では何が問題なのか?という問いを考える
 やり方が粗野であること、といった話にしかならないような気もするが…

 ■「応報」
  ◆(とくに)「関係者」について
    +関係者についてすべきことはある。このことは認めた上で…
   何が起こっているのか:「正義」の感情の昂進?(→責任を取らせる)
    このことについて冷静であるべきこと(  [  ]を引く、森[2005]等)
    (+「被害者学」関係の文献の紹介とコメント)

 ■「(一般)予防」…前期古典派
 ■<内部>
  ◆意志としての(他行為可能性…)…後期古典派
  ◆行為の因果了解(→予測)をもとにした対応…近代派
   いずれも受け入れる。とすると何が問題なのか?
  ◇並存・併用 使い分け →いずれにしても、拘束され…
   原因が「意志」にあるとされれば責任を問われる。あるいは身体や環境にあるとされれば、介入の対象になる。(それで、どうせなら、前者一本の方がすっきりすると言われることにもなる。)
   まずはこの並存、使いわけのさまをわかっておくこと。

   そして、そう歯切れのよいことは言えないのだが
   まず、何が怒りを昂めているのか?:「ずるい」「責任逃れ」という感覚
   これには一理ある。一つには「嘘をついている」という感覚
   どうせ対処されるのであれば、まっとうに対処してほしいというのもある。
   であるなら(これは佐藤[2005]等でも言われていることだが)きちんとした(たしかによくわからない話を、しかし聞いてはみるという)裁判、対応
   まったくの空白ということはそうはない。だから「責任能力」あり、か、なし、かという話ではない。同時に、基本的に、「心神喪失」に対して責任問わないという対応は維持する。    部分的な責任
   :「ずるい」の――「いつわっている」というのとは重なりつつ違うところもある――もう一つの要素。「社会(がわるい)」「なんでも社会のせいにする」…
   たしかにこの言い方が「陳腐化している」(と思われている)ことは認めよう。
   そのような風潮を踏まえて、なお何を言うか?
   +(純粋に?)「病」が関わることがあることを認める
   そしてまた「累犯」「性癖」としての…

   「確立」という理解が可能であり、そして一定の妥当性を「認めた上で」、なおそれを可能な限り使わないというあり方。
   *保安処分などを批判する人たちは、それが「近代司法」からの逸脱であると言うのだが、そしてそれは間違っているとは言えないのたが、それだけ言えばよいのか。
   しかしそれでもやってしまう奴はいるではないか、という反応。
   それを全面的には否定しない、その上で
   別の対応可能性
    「応答」が現実に(したい人に)可能であること

   「心理化」「心理主義」という提起(批判)(小沢・中島[  ]等)をどう読むか
    たしかにそれは帰属と「解決」についてのある物語の構築であるとは言えるのだが…

  ◇補:「人外の人」という理解を巡って
   何を言おうとしてそのことを言うか(持ち出してくるのか)
    社会理論としては:社会契約(の困難)を言う
   ★虚構が虚構であることを認めた上で、ものを考えていくしかない。現実を組んでいくしかない。
  現実の対処としてどうするかという問題
   どちらでもあるということ。人によって時によって状態によって
   ただ一方に、たしかにその人の言う通りとならない部分があることを認める
   羽交い絞めにする、こともあるだろう。
   問題は、そのようなことがしばしば都合よくなされているということ。
   ならばどうするか→(その限界、短所は認識しつつ)決まりは決まりとしてはっきりさせること。+…


 

■依頼されたこと等
 7月28日、稲葉振一郎さんとの対談で東京に行ったのだが、終わった後、医学書院の編集者にこの本の書評を依頼され、その場で本を渡されて、京都までの新幹線の中で読んでしまった。
 この本の著者は佐藤幹夫。1953年生まれ、養護学校の教員を21年した後、2001年からフリーライターをしているという。ここ数年、よい本の多くはそうした書き手たちによって書かれている(『こんな夜更けにバナナかよ』など)。学者が書いたものではあまりない。
 いっきに読んでしまったのだが、この本について、というよりこの本が相手にした出来事について、何が書けるかと考えてみるのだが、やはり書けない。
 この本は浅草で起きた事件を取材した。この事件は2001年に起こった。包丁で女性を刺して死に至らせたという事件だった。その人は自閉症の人だった。
 弁護側は、逮捕から裁判への過程において、そのことが理解されておらず、捜査側の主導で供述書が作られたと主張した。しかし検察側の主張がほぽ認められ、無期懲役の判決が下された。男はいったん――弁護側に相談なく――控訴するが、この本が書き終えられた後(2005年4月)――やはり相談することなく――控訴を取り下げて、この裁判は終わってしまった。
 この本にある、あるいは浮かんでくるメッセージはまずはとても単純なものだ、とも言える。つまり、一つに、自閉症といった状態にある人が犯罪を犯したときに、その状態がどんなものであるかをきちんとわかってから、わかろうとしながら、対処すべきであるということ。また、一つに、この男がこの行ないをするに至るまでには、この男が、この男だけでない人たちが生き難い事情があることがあったのだから、そこをなんとかすることが大切で、そちらが先決だということ。
 以上について、まったく異論はない。そのぐらいのことなら言える。言うだけなら言えるが、この本は、たしかにそう言えるのだと実際に思せるだけるだけのことが書かれている。
 ただ、この本に書かれていることはそれだけでなく、この本に書かれていることについて考えるためには考えておくべきことがいくつもある。しかし、考えてきれていない。私は罪とか罰といった主題を避けてきた。ここのところ書いたことは、1:私にはわからないので私には書けないということ、2:ただ、確率による判断・処遇に合理性はあるが、しかしできるだけ行なうべきでないこと。そのぐらいのことでしかない。それでもすこし考えてみようとする。

■関係者のこと
 この事件のことをまったく知らなかったわけではない。どういうきっかけからだったか、この事件を担当した副島洋明弁護士を、たぶんかなり前から知っている。1980年代の後半だったと思うが、東京・世田谷の二日市安さんのお宅で、私よりは上の世代の人たちが研究会をしていた(石川憲彦石毛えい子北村小夜・…)。「「国連障害者の10年」研究会」とかいう名称だったかもしれない。そのころ私は、後に共著の本『生の技法』(1990年、増補改訂版1995年、藤原書店)にまとめられることになる調査をしていて、そんなことでその会に出させてもらったことがあった。そのときのことだったかもしれない。しかし定かな記憶はない。
 弁護士には、「やまいだれの誰それ」(医療関係)――例えば鈴木利廣さんとか――「くるまへんの誰それ」といった言い方があるそうだが、副島さんは障害(とくに知的障害)が絡んだ、金になりそうもない裁判(施設における虐待…)にたくさん関わってきた人である。著書に『知的障害者 奪われた人権――虐待・差別の事件と弁護』(明石書店、2000 [kinokuniya])等がある。私が最後に――といっても3度目ぐらいではないかと思うのだが――会ったのは、2002年?のある集まりで顔をみかけた時だと思う。副島さんの方から声をかけてくれて、短い時間雑談をした。副島さんは、刑務所にいる人たちの中にかかなりの数の知的障害の人がいるという話をされた。精神障害の人、知的障害の人の犯罪率は高くないと言い続けてきて、それはそれで間違いでないのだが、しかし、他方で刑務所に多くの知的障害者がいるのも事実だ、と。そこのところをどう言ったらよいのか。この問題は難しいですよねという話をした。そんなことを話しているうち、たしか(たぶんこの浅草の)事件の関係で、彼の携帯に電話がかかってきて、それで話はだいたい終わりになった。最後、難しい問題だから(あなたは学者なんだし)考えてくださいよ、みたいなことを言われた、と思う。
 それ以後会っていない。それでも、この本の主題である浅草での事件のこと以外に、副島さんたちが関わっている多くの事件のことが報告されているニューズレターをずっと送っていただいていて――多くの場合、かなり立ち入った内容のものだったので、ホームページに載せたりすることはしていない――そのいくらかは読んでいた。あらかじめ言っておくと、今度の事件について私は弁護側の主張を支持する。それは副島さんを知っていて信頼できると思っているからでもある。ただ、それほど知らなくても、あるいはまったく知らなくとも、判断はそうは変わらないはずだとも思う。

■基本的に書けないように思えること
 そんなわけで、この本に書かれていることはまったく知らない出来事ではなかった。また、あとで記すように、言えることはいくつかある。しかし、基本的なところで、書けない。なぜ書けないのか。一つには、責任をとるとか、罰するということがどんなことであるのかわかっていないということである。この問いは、以前から気にはなっているのだが、答が見つからない。
 なにか害する行ないをした人をそのままにしておくのがよいとは思えない。たしかに加害が行なわれるなら、また行なわれてしまったなら、それがそのままに放置されておかれるのはかなわない、よくないとは思う。として、それはどうしてで、なぜなのか。何をすることができて、何をすることがよいのか。

 しかしそうではあっても、なにかをした方がよいのだろうとは思った。避けて通ってきた。それには相応の理由があると考えるし、また、私自身はそのことについて責めることはできない。厄介な問題ではあるのだが、反対かそれとも反対でないのか、態度決定を迫られる。ただ調べているだけですと言っても、それで許してくれそうではない。どう考えても気が重い。だから、この運動やあるいは政策に関わってきた人たちを除けば、この主題について研究したりする人が出てこない。
 しかしやはり大切である。いま私が言っているのは、都合よく過去のことになってしまっていることもあるのだから、それを書けばよいではないかということだ。もちろんこれは一つの消極的な理由であって、まじめにその必要も感じている。これはまったく今に始まったことではなく、その時々に…

 そこでまず、まったく迂遠なことではあるが、刑罰というものの意味について、言われてきたことをすこし見てみることから始めるとしよう。

■応報〜関係者の感情

 まず一つ「応報」が刑罰の意義として言われることがある(「古典派」とか「旧派」、3つに区分する人たちの呼び方では「後期古典学派」と呼ばれる流れがこちらを言いっているとされる。)
 これはわかりやすいようにも思えるが、しかしよくわからないようにも思える。例えば、「報復」という言葉と「償い」という言葉とは別の意味をもつもののように感じるが、それはどう異なるのか。もちろんすぐに違いは思いつく。前者は被害を受けた側が……だろうし、後者は加害を行った側が行なう行いであるとされる。ただ……
 次に、(そのいずれかが)あってよいものであるとして、それは、それが法の水準に置かれるべきものであることをそのま意味しない。(私讐の復権といったことを言う人もいる。…)
 そして、やはり人に対する害とそれ以外の犯罪(例えば窃盗…)とは分けて考えた方がよいのだろう。そして前者について、「とりかえしのつかない」行ないというものはなされる。とすると、それについて何かをなすとは何をなすことなのか、償うとはどんなことなのかという素朴な疑問がわくことになる。
 返すことのできない債務であるとか、返し終わることのない債務であるとか。そのようなことを言う人たちがいる。すくなくともある部分、そのようである気はするし、そのように言いたい人がいることもわかる。さて、その上で、どうしたものか、となるということだ。
 ★こうしていくつか思いつくことはあるが、少なくとも今のところ私にはわからない。ただ一つ言える(言いたい)と思うことは、思うほど強い理由にならないのでないかということ。とりわけ、被害者感情を忖度しそれを根拠にして言われる、(ある種の「医療」も含む)刑罰、厳罰化については…
 そしてこの間の、そうした「正義」の感情の昂まりがある。それがいったい何に由来するのか、私にはわからない。ただ、ある種の「(不)均衡」に敏感になっているということ、なってしまっているということだろうと思う。そしてそんなことが歴史上幾度も、あるいはいつもあったこと、あることは様々に示されいる。
 するとこの場合には、相手は正義の側にいると思っており、そしてそれはまったくの間違いというわけでもないのだから、対応の仕方というものもそれに応じたものであった方がよいということになる。

◆「関係者」について
 「被害者の感情」がよく言われる。しかし本人と本人でない人と、二つをまず分けることは必要だと考える。
 (裁判官が「殺された被害者の無念はあまりある」というようなことを言うのだが、これはもっともなような気がするとともに――だってその人はもう死んでいるではないかという、単純な理由によって――おかしなことであるような気もする。)
 そして後者、つまり直接の被害者でない人、「関係者」のことをどう考えるのか。その人は悲しいし、怒りもあるし、そのことは、皆が認めるだろうし、そのことがどうにかなされなければならないとも思うだろう。
 そして、その関係者(多くは家族)が「極刑を望む」というようなことを言って(そうでないことを言う人も少しはいるのだが★)それがとりあげられるということがある。
★ 原田正治[2004]。

 しかし、私は、今のところ、これを刑罰の、そして量刑の根拠にするのはよくないと思う。すくなくともそれにそう大きな特別な権利を付与することはできないと考える。
 一つに、係累をもたない人もいる。その人が死んでも、あまり強く悲しんだりする人がいないということは現実にある。あるいは関係者たちに疎んじられ、憎まれていた人もいる。そうした人を殺しても強く罰しなくてもよいというのはよいだろうか。よくないと考えるなら、それはそれとして、基本的には、刑罰とは別にした方がよいということにならないか。(そしてこれはもちろん、捜査から裁判、そして刑罰の全過程において、関係者のことが配慮されなければならないという主張と両立するものであり、また両立させるべきだろう。
 別にしてどうするか。どのようなことをすることができるか。
 一つに、生活の困難がある。実際、犯罪で人を失うことによって、生活が困難になることがある。その補償・保障をする必要がある。そのための費用を加害者から取り立てるのはよいとして、その加害者は、多くの場合そのもちあわせがない。また、加害者から受け取りたくないという人もおり、それもまたもっとなことのようにも思われる。
 (ただ、これは私の基本的な立場からは、理由がなんであろうと、つまり天災であろうと犯罪であろうと、一人ひとりの生活は可能である方がよいと考えるから、そして基本的には世帯単位等ではなく個人単位であるべきだと考えるなら、生活のための資源、お金という点だけをとれば、犯罪被害者を他から切り離して特別に扱う理由はないということになる。)
 もう一つが「感情」――この言葉がよいかどうか、わからないのだが――への対応ということになる。これを償うということがどんなことなのか、よくわからないのというのが正直なところだ。ここでさきの話に戻ってきてしまう。(これは直接の加害者が直接の被害者でない人に対して、という場合である。他に、直接の加害者でない人が直接の被害者に対して、といった場合、直接の加害者でない人が直接の加害者でない人に対して、といった場合がある。)

 ★→大谷:実際、被害者、被害者の関係者たちが捜査から裁判、そして裁判後、どのようなことに怒りや不満を感じるのか、それについて、日本や他の国で何がなされているのかを調べておく必要はあるだろう。
 また(これは以前話したことだが)従来の刑法学その他で被害者(の関係者)のことがどのように語られてきたのか、また語られてこなかったのか、それを押えておく必要もまたあるだろう。あまり立ち入った記述はないのではないか。そのことがよくないといちがいにいえないとことは述べた。ただやはり述べたように、刑罰本体?においてでなくとも、なんらかの対応がなされるべきなのではある。その辺りは完全に無視されてきたのだろうか。
 「被害者学」というものがあるのだ(そうだ)が(単行書として…[  ]…[  ]等)、それがつまりは何を言っているのか、何をしているのかは押えておく必要があるだろう。
 また「修復的司法」に呼ばれるものもある。これも何を言っているのか見ておく必要がある。(Zehr[1990=2003]、高橋[2003]……)
 加害者に(刑に服する以外の)何をさせるかという問題がある。とくに被害者との関係で。なかには思い出したくない、顔も見たくないという人が(たくさん)いて、それはそれで当然のことではある。同時に、顔を見るかどうかは別として、何か、と思うことはある。現在のところ、刑事でなけれは、民事で、損害賠償請求ということになるのだが、これが多くの場合、うまい手段ではないことは明らかである。(このことは小宅も書いている。)さてそれでというわけだ。


森 達也 20050421 『こころをさなき世界のために――親鸞から学ぶ〈地球幼年期〉のメソッド』,洋泉社,新書y133,206p. ISBN: 4896919092 819 [kinokuniya] ※,

 「被害者への過剰な感情移入が、いつのまにか主語を社会や国家に委ねていることに気づかない。つまり誰もが当事者の気分であいる。これでは連鎖は続きます。被害者や遺族が加害者を憎むことは当たり前です。僕だってもしも家族を殺されたなら、法の裁きを待つ前に犯人に復讐するかもしれない。当事者ですから。でもその憎悪を、非当事者が引き受けてはならない。
 実弟を殺されながら、死刑廃絶を訴えた原田廃絶を訴えた原田正治さんの著書『弟を殺した彼と、僕』(二〇〇四年、ポプラ社)に、こんなエピソードが記されています。当初は犯人の極刑を願いながら、やがて犯人との面会や文通などを重ねるうちに、そんな復讐心の発露だけでは自分も彼も救われないと考えた原田さんは、街頭で死刑廃絶運動のチララシを撒きます。するとこれを手にした通行人が、「遺族の気持ちを考えろ」と激昂するそうです。ところが彼がその遺族であることを知ると、通行人たちは決まり悪そうに去ってゆく。とてもシンボリックなエピソードです。(58)
 忘却の罪は確かにあるけれど、同じように記憶の罪もあるのです。」(pp.58-59)

 「原田正治さんの著書『弟を殺した彼と、僕』に、「被害者の痛みを知れ」と居丈高になる第三者について、とても印象的なエピソードが記されていることは、第T章で述べました。繰り返しになるけれど、この非当事者の当事者化が、いまとても気になります。被害者の気持ちを知れと居丈高になるいまの世相が、本気で被害者の苦痛や哀しみを共有ししようとしているとは僕には思えない。世論調査では、死刑制度を支持するパーセンテージが急速に上昇しています。その理由の大半は、治安維持と被害者の救済です。でも死刑を廃止したヨーロッパ諸国のデータを見れば、死刑が犯罪抑止効果をもたないことは明らかです。論理的にも破綻しているし、情緒的にも倒錯している。(158)
 国民の大半が死刑を必要とすると本気で思うなら、僕はそれに抗いません。別にヨーロッパ諸国を真似る必要はない。でもね、その根拠があまりにお粗末で一過性であることくらいは、もう少し自覚したほうがいい。ところが「許せない」と叫ぶその声だけは、なぜか常に大きいんですよね。」(pp.158-159)

 ◆

 そこにあった悪意に対して、たとえばそういう人間がまだのうのうとしていることが許せないということはある。悪意とか害とか。それはもっともなもののように思われる。
 その者はそれだけの「報い」を受けなければならない。それは、仮に「再犯可能性」がなくても、また「一般予防」の効果があってもなくとも、あって、それ自体を否定することはできないもののように思う。(被害者が実際にはもう亡くなり、いなくなっているとしても、また被害者がとても優しい人であって許してやると言ったとしても…)

 ◆比較・量刑
 次に、この場合に「相応」というものがどのように規定できるだろうか? もちろんそんなことは不可能だ、と思われもする。しかし、そうではあっても、天秤にかけて、相応のものを、と思うこともある。この問題は――一般的には比較可能性をめぐるれいの問題なのだが――比較することは可能であるか、それとも不可能であるかというよりは、むしろ、比較しなければならないと人は思っているということのようなのである。誰が、正確に測ることができないことは知っている。けれども、それでもそれはなされるしかない、ということである。(測るべきであると考えることが先にあって、そして、測るのだということ。私たちは、(なんでも)測ってしまうことを批判したのだし、それはそれで当たってはいたと思うのだが、それとともにこのことも言わなければならないと思う。)

 ◆殺人のこと
 殺人のことをどう考えるかということがある。その何がいちばんいけないのか、考えたことがないだろうか★ 。
★  ひととき、なぜ殺してはならないのかといったことについていろいろ書かれたことがあった――たぶん神戸での事件の頃であったように思う、河出書房新社からだったか、原稿の依頼が来たけれども、書けないからと言って断ったと思う。大江健三郎がこんな問いを問いとして示すこと自体がまちがっているというようなことを言って、それを永井均がまた批判するといったようなことがあったように思う。本としては永井・小泉[1998]などが出された。
 突然に、気づかれることなくもたらされる死というものがある。そのようにしてなされる殺人がある。もちろん、その行ないは、その人から「未来」を奪ったのだとは言えよう。それだけで十分わるいことであって、免罪されると言いたいわけではない。しかし、では何なのだろうかと思うことがある。(そのようなことが起こるかもしれないという恐怖→その恐怖の防止としての刑罰という論はある。が…)他方、私が人を殺したいと思うとき、一つには、その人が未来に行なうだろう所業があまりよくないと考えてのことであるかもしれない。その場合には、ただその存在が消されればよいのだから、その限りでは、当人に知られない死でかまわない。他方、怨恨によるものであるなら、ただこの世から消えてもらうだけでは怨みが晴らされたとは思わないだろう。とすると、これから死ぬことになるという予期を与える、といったことをしたくなるだろう…。
 いっさん殺人が起こった後で、殺された者の関係者が思うことも、一つには、殺され方にもよるだろう。少なくとも殺され方によって、復讐したくもなるだろう。でなければ、殺してしまったという人に 毎日会いたいとは思わないが、死んでほしいとまでは思わないかもしれない。

 ◆死刑 cf.死刑
 死刑のこと。事実、死刑は殺人であり、誰かが殺すことになる。その人に殺させることになる。それは気が進まない。まず一つそんなことがある。(その仕事を担わねばならない人たちについての本もある。)
 私が思うに、私の者のような者にとっては、(人を殺した人であってもその人に)死刑を課すとはバランスを欠いている行ないのように思う。普通に殺される場合、何年も前から確実に殺されるといったことかわかっているということはまずない。しかし死刑においてはそのような殺され方をする。これは私にはバランスを欠いた行ないであるように思われる。


■「予防〜確率」について

 ◆一般予防
 一つに、個人のレベルでの防止ということがある。その人の自由を奪えば、その間は犯罪はできないだろう、とか。あるいは矯正して、更生させる、とか(「近代派」)。また一つに、一般的な予防。犯罪を行なえば罰せられることがわかっていれば、犯罪を犯すことがなくなるだろう、少なくなるだろうという(「前期古典派」、ベッカリーア等)。
 「一般予防」。ここではこれについては扱わない。現実にある制度・機構が実際にどれほどそのような機能を果たしているかとなるとあやしくもあるが、しかし、まったくそのような効果がないかと言えばそうではないだろう。いくらかはそのような機能を果たしていることは否定できないだろう。

 というぐらいにとどめておく。つもりだったが、これはやはり大きな意味をもつ。
 つまり、後に述べる話と関連するのだが、この機能が働かない存在をどうするかという問題があり、その文脈で、ある人たちが問題化されるということがある。つまり、「合理的」な人間であれば、犯罪を行なうことは(少なくとも長期的には)わりに合わないことであるから、そうした行為を控えるのに対して、そのような計算を行えないない人たち、行なわない人たちがいて、その人たちに対しては普通の刑罰の抑止機能が働かない、だから特別の扱いが必要だという話になっていくのである。「近代学派」「新派」の現れもこうした契機によるものと考えることができる。
 そして「社会理論」との関連で言うと、「契約論」的な理論構成をとろうとする論にとって、このような存在がいてくれることは厄介なことになる。→決定・契約の当事者から排除することにし、残った者たちによって気まることにする。すると話自体は前の方に進むのだが、その手前に行なわれた当事者からの排除とはいったい何か、その正当性はどこから調達されるのかといった疑問は当然生ずる。… このことについては「人外の人」のところで述べる、つもり。★
★ cf.北田[  ]
★ この種の理論構成を検討すること自体が私の仕事であると思ってはいないから、これまでたいしたことは書いていない。立岩[2004]第1章の一部。

 ◆
 もう一つ、「近代学派」が主張したとされるもの。
 犯罪の抑止のための手段としての刑罰という位置づけ。
 この契機を否定しさることもまたできないだろう。「社会防衛」といった言葉は、私のような者にとってはそれ自体よくない語感の言葉なのだが、「社会」を「防衛」すること自体はわるいことではないとし、それはそれとして認めた上で、考えていく。  ではそのどこに問題があるのか。犯罪を行なった人本人にとって、また犯罪を起こしやすいとされる範疇の人々にとって、負の影響が大きいことが問題にされる。

 まず「予見可能性」についての議論がある。つまり予見などできないのに、そういう怪しげなものによって、刑罰を課すのはおかしいというのである。これはもっともなことではある。
 しかし、一つ、実際には確率に基づいて様々のことがなされてきたし、なされている。未来の予測によって何かをするとかしないときには必ずそんなことをしている。
 一つ、はたしてそれを考慮しないことが可能であるのか。一方は明らかに再犯の可能性があるではないかと言い、他方はそれに反論して、どうしてそんなことがわかるのだと言う。その未来というまではやってくるまでは、何が起こるかわからないという意味では後者が言っていることは正しい。しかし、そんなことを言ったら、どんなことでも起こってみるまでわからないということになる。
 (けれども私は、確率を、できるだけ、無理をしてでも、使うべきでないと述べた。後で説明する→引用


■「免責」について〜個人への帰責について
 刑法39条 「心神喪失者の行為は、罰しない。2心神耗弱者の行為は、その刑を軽減ずる。」
 この頃(というべきかずっとというべきか)強いのは責任をとわないのはおかしいのではないかという論調である。それはどうだろうか。
 この本を出したのと同じ洋泉社から、2003年、だったか、後に『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』(呉智英・佐藤幹夫編、2004、洋泉社新書y、[kinokuniya])となる本に収録する原稿の執筆を依頼された。書ければ書きますというようなことをたぶん言い、しかし一字も書かないままに時は過ぎ、結局お断りするかたちになった。書かなかったにもかかわらず、この本が出版されると、送っていだたいた。にもかかわらず読まなかった。はじめて今日(7月29日)、読んだ。いろいろな人が書いているが、なかには論理的に辻褄のあっていない議論もあって、ばらばらなのだが、佐藤はこの本の一つの章も書いている。
 こうした動きは、基本的には、「特別予防」の立場から言われる。そして批判する側はその「社会防衛」的性格を批判する。
 ただ、言われているのはそれだけでもない。こうした規定が、罰せられる権利を奪っているという言い方もある。この規定を廃止することが、精神障害者に対する差別をなくすることであるといったことを言う人もいる。
 言いたいことはわからないではない。しかしやはりよくわからない。いったん初歩的なところから考えていくのがよいだろう。予防を主張する人たちと応報を言う人たちとが、原因、意志の問題を巡って、対立してきたということもある。

■どのように扱おうとしているのか?

 ずっと以前に調べたとき:かつて、その本人の意識や心的な状態というものか斟酌されないような刑罰の機構、刑罰についての観念があり、そこから、人の心的な状態に罪が定位される過程を追った(修士論文、それを使って[1986])。そのような作業の背景には、なにごとかが(あるいはたいがいのことが、この社会においては)個人に帰責されるという事態に対する疑問があった。

 あの時点で考えていたことは以下のようなことだ。自由意志の存否を巡る論争がずっとあって、これは(素朴に、ひとまず考えてみると)決着がつきそうにない争いなのだが、私が思ったのは、これは、二つ(以上)の立場のいずれが正しいのかという問題であるよりも、決着がつかないでいる間、両方が行なわれてしまうということに注目すべきではないかということだった。
 つまり、一方では、その者が選択し意志してなした行ないであるということで、責任を追及する。追及される。他方では、その行為に至る因果を辿り、その知識に基づいて介入する。介入される。同時に二つのことが行なわれる。そのような社会に私たちはいる。そんなことをまずは確認しておこうと思ったのだ。
 ……

 ◆個人性を外すこと(捨てること)ができるのか?

 ただ、財の分配という主題については、生産者であることと取得できるということのつながりのそのつながり方がおかしいということは比較的簡単に言うことができるし、また言うべきだと思ったから、そのことはこれまでずっと言ってきた(立岩[1997][2004])。しかしそれと同じように、個人への帰責を批判することができるだろうか。できない、のではないかと直観的に思う。
 関連して。まず、「害するな」という単純なところから考えようということだ。(それに比して、いったんその者によって生産され、そしてその者が譲渡(贈与にせよ、あるいはとくに交換)する用意のある財について、その者に特権を与えなければならないとは――それは、その者の存在に対する加害であるとは、その財が譲渡を想定されているものとして存在していることからして、言えないのだから――言えないということになる。このように考えられるはずだと、ひとまず思う。

 個人性について。第一に、少なくとも多くの行ないについて、それが誰かの行ないであることを私たちは知っている、というか誰かの行ないとしてその行ないを受け取っている。そして(ここでかつて止まってしまったのだが…。)わざと行なうということと、そうでない行ないと分けることはなされているはずだと思う。 (ここでかつて止まってしまったのだが…。)わざと行なうということと、そうでない行ないと分けることはなされているはずだと思う。(むろん、神様のお告げとか、つきものであるとか、その祓い、であるとかいった観念・行いが様々あるのではあるが。)これは、自由意思が存在するか否かといった議論(に、ずっと前に、すこしつきあって、多分ここを掘っても、そうたいしたものは出てこないはずだと思って、これもそのままにしてしまっている)とは別のことである★ 。

★ 行為の個体性という問題は、生産・分配の問題を考える上でも出てくる。例えば、かつて「即融」といった状態を基点において論述を進めていくという論があり、それが言いたいことはわからぬでもないにせよ、しかし同時に他方で、人と人とが分離されて個々に存在するということもまた、否定しがたい事実ではあろう。そしてまた、「自由意志」なるものが(どのような意味で)存在する存在しないということと別に(?)、身体を動かすのをやめようと思えばやめることができる、さぼりたければさぼることができる、ということもまた事実ではあるのだろう。そこからどのように考えてみようかということを私は考えてきたのだと思う――『私的所有論』(立岩[1997])第2章。

 第二に、その者の加害について、非難することを、取り下げることはないように思われるということである。わざとであるかそうでないかによって、扱いに差をつけてもいるのだろうと思う。
 (ここでかつて止まってしまったのだが…。)わざと行なうということと、そうでない行ないと分けることはなされているはずだと思う。(むろん、神様のお告げとか、つきものであるとか、その祓い、であるとかいった観念・行いが様々あるのではあるが。)  ではどのように考えたらよいのか。結局、そのことを詰められないまま、今に至っている。というか、よくわからないから、このことを考えるのを放棄している。→引用

 わかっていてやったこととそうでないこと、わざとやったこととそうでないことの区分はそうとうに普遍的であって、その区分を破棄すべきではないということにひとまずなるだろう。
 →その限りでは、やはり、その時の心的状態がどうであるかは考慮にいれられるべきであるということにはなる。
 とすると、そのような弁別、別々の対応はどこでもあることだ、というだけで終わりということになるのだろうか。そのようにも思われない。

★ [1997]第6章の「主体化」という節(の注)でも引用・言及しているが、吉本隆明の『マタイ伝』の読解。その前にニーチェが言っているともいえるのだろうが。
 内面への遡及によって人は罪人であることから逃れることができなくなるということ。これは(自らによって完全に否定することはできないという弱い意味においては)その通りであって、そしてそこに、なんというか大きな詐術を感じる。そんなことが一つあって、このことが気になったのだが、しかし、このことと、行為の個体性・個別性また、個人への帰責そのものは否定できないだろうという感触とをどのように折り合わせたらよいのかというところで、私は考えるのをやめてしまった。


 ◆並存
 近代の社会はこのことにどのように関わってくるのか? すぐに思いつくことの一つは科学――犯罪学、…。一つは国家による統制・管理。いずれも間違ってはいないだろう。だが、それだけだろうとか思って、何か言いたいと思っていたのではあった。
 一つに、さきほどに述べた二重性。
 人間は、創発的な存在であるとされるとともに、経験的な、因果に規定された存在であるともされる。こうした二重性がある。両者を使い分けること。両者を組み合わせること。そしてどちらも個人への負荷としてかかること。
 対立してきたということになっている。実際に理論における対立の歴史はある。ただ、私の了解では、両方の考えは対立しながら、実際には並存してきたのである★ 。
 論者が刑罰において(基本的には古典学派の側の)公式通りの見解を維持するかいなかということと別のものとして考えることができる。
 刑罰においては、常に行なったことだけを問題にする、そしてその人の行動時における心的な状態を勘案して責任の有無を決めるという原則をとる。こうして、刑罰が既になされてしまった行ないに対してのみ適用されるべきであるという立場をとっている場合にも、それと別の対応を刑罰以外のものとして行なえばよいという主張はありうる。刑罰とは別に、別の機構を支持するということもありうるからであり、実際しばしばある。つまり刑法と別に、例えばこの国にできてしまったような「心神喪失者医療観察法」があればよい、あるべきだというような話になることもある。他方、「新派」「近代派」と呼ばれる流れは、刑罰をそもそも「…観察法」のようなものだと位置づけるから、一括りになるのだが、他方の主張にしても、それが二つに分けられて、そのうちの片方だけが刑法・刑罰と呼ばれるというだけのことであったりするのだ。だからどちらでも許容されるということにもなる。

 病気でどうもならなくて→治療の対象として…
 意識(悪意)…の持ち主として→責任主体として…
 いずれにしても。それに対して、それで当然ではないか、問題ないではないかと言われる。それに対して答えること。
 それのまったくの反対、ということにはならないはずだ。その意味で歯切れのわるいものになる。ただ、

 そしてここでも、原因、要因があるようだということ。このこともまた否定できないように思われる。

■原因〜

 だからこれ(これら)はいずれもそれとして受けとればよい、ということになるのだろうか。そんなことではないだろうと思う。
 どれほどの人たちが知っているのか。「保安処分」(1980年代初頭に法制化の動きがあった)、「触法精神障害者問題」→「医療観察保護法」のことは――とくに後者は多くの人に知られることなく決まったのだが――ある人たちにとって大きな主題ではあった。
 その人たちは、「私たち」は、どんなことを言ってきたか。
 一つ、犯罪行為自体が実際には多くないこと、増えていないことを言ってきた。
 一つ、犯罪への対処として、厳罰化、また「医療観察保護法」のような対応を含む対応が効果的でないことを言ってきた。これとつながるが、一つ、他の方法の方がよいのだと、効果的であることを言ってきた。
 私はこれらがみなそのとおりだと思う。ただ。

 一つ目のものは、犯罪の原因が精神障害にあると言う人たちに対して、そうではないと言う。つまりは因果という図式を受け入れた上で?、その因果の把握の仕方が間違っていると言っていることになる。
 一つ目について。刑務所の中にいる人に知的障害の人がかなりいることはどうも確からしい。最初に記した副島さんとの雑談で話していたのもこのことだった。障害者の人たちは犯罪をすることが少ないのだということによって、かえってそうした人たちに対する対応がなされないことになってしまう。そのことを副島さんはおっしゃっいたと思う。
 まず、このことはこの本の中でも指摘されていることなのだが、実際に起こることは、知的障害や精神障害が直接に犯罪を帰結させるといったことではない。多くの場合には、暮らす場所がなくなり、金に困っての、軽微な犯罪ではある。

 その人が病気でこれこれの精神状態であって、それで何かをなした時、その行ないや、行ないの責任は個人、その人ではない、とされる。しかし、その障害・病はその人から離れることがない。その人が(そのことに「責任」はないとしても)病者である。であるから、その人本人も「治療」の対象になるのだし、また、その範疇の人たちがまとめて… ということになる。…
 そのような因果の把握に基づいて行なわれるわけだ。
★ 別の文章に書いたもう一つの問題というのは、もし問題でないとすれば、なぜ人は問題にするのかという問いである。その人はただ間違っているのか、騙されているのか。騙されているとすれば、誰がなぜだましているのか。…
 「例えば、ある人たちが危険な人間だと括り出されてきたと言われる。[…]
 その指摘はその通りで、多くの人々がそうは思っていないのだからもっと言えばよい。しかし考えておくべきことは、まず、実際に危険でなく無害であるなら排除されるのはなぜかである。[…]

 もう一つは、間違いではない場合にはどう考えるか、例えば実際に危険だったらどうなのかである。」(「社会的――言葉の誤用について」

 ◆対処法
 二つ目と三つ目について。多くの場合、刑罰を強化するといった乱暴なことをしなくても、うまくいく。
 しかし、いま人々のある部分はとても短気になってしまっている。このようになってしまっているのは、私らのような人たちがいて、甘いことを言っているからだということになる。その人たちのいくらかは最初から頑迷であることに決めてしまっているから、その人たちに何を言ってもむだという感じはするのだが、むろん、そんな人ばかりというわけでもない。だから何かを言う。何を言うか。

 ◆1)
 まず第一に、これではますます怒らせてしまうような気もするのだが、犯罪がなくなることはない、いつでもどこでも、いくらかは起こってしまうことだというところから考えた方がよい、よくなくとも仕方がないのだろうと思う。  犯罪に対する対応が必要であるとして、その対応がもらたす問題というものがある。前者をどんどん進めていくと、どこかでよくないことの方が多くなる、むしろもう多くなってしまっているということだ。
 これは死ぬのと痛いのがなにより困ったことだと思う者にとっては、たいへん困ったことではあるのだが、どんなに手を尽くそうと、起こることは起こるということは受け入れざるをえないということ。(このように言うと、それはその通りだと言うかもしれない。しかし可能な限りのことはやはり行なうべきだと。… つまり「程度問題」だということになる。とすると…)
★ これは「リスク」とか「セキュリティ」とか「リスク社会」といった言葉で、言葉を巡って語られていることをどのように考えるかということでもある。

 ◆
 いくらか、「宿命的な累犯者」、というか、そういう人がいることを、認めてよいと思う。精神障害や知的障害の人たちはだいじょうぶなのだと、危険ではないのだと言ってきたのだが、しかしそれでも、そういう人はいるではないかと言われる。認識が甘いと言われる。だから、ではないのだが、そういう人もいるだろうことを認めよう。ただまず、累犯の場合、心身喪失で幾度もということはそうない。行なうことを抑えられない、かもしれないが、しかしなにをしているかはわかっているといった人たちである。だからこの場合には…。
 どんなことが言えるかだが、私は、宿命的な犯罪者、といった人たちがいたとしても、そしてそのいくらかを「精神病理」と関わらせて言うことができたとしても、このたびのような(そして日本にだけ存在するのでない)法や機構がなくてもやっていけると言いたいのだ。これが一つ。
 病気・障害のせいではあって、それはつらいものではあるから、自分でもなんとかなってほしいとは思う。しかし、どんな施設であっても、あるいはそうした施設に収容されればなおさら、そう簡単になおってしまうというものではない。だから今でもそうなっていて、抜け出してはいないのだ。ということ。そう簡単になおせばよいと言われても困ってしまうということ。

■「責任」主体であること。

 一つ。何も覚えていないかといえば何かは覚えている。例えばその人に声が聞こえていて、その声の主に命令されていた。しかしそれに抗することはできたかもしれない。そのことに「責任」というものはやはりあるのかもしれない。しかし、それにしても…。
 こんなところだとしよう。そして、殺したりするのはわるいことだということは承知している。一度してしまったとして、もうしたくはないと思っている。
 まずは、もうしないこと、しないですむこと。しかし、あまり乱暴でないかたちでそのことが可能になること。
 そんなところだと思う。

 それが可能なのか? まずどのようにしたとしても、完全に可能ということはない。このことは認めざるをえない。あらゆる処方が不完全であるということ。だから、こうするしかないではないかという方法もまた、完全であることを求められているのではないということ。
 多くの場合に、部分的に責任を負うことにした方がよい。  (主張する側において、その動機が混ざっているということ。まず、「野放し」にしてはならない(また同じことをするだろうから)という把握がある。
 まったく何もあとで覚えていないということは少ない。だとすれば、完全にではないにせよ、行ないに責任があるとすべきではないか。(実際にも既にそのように扱われているのだが。)
 もう一つ、多くの場合には上記と関係するが、いちおう別のこととして、やはり自分が何かしてしまったという意識がその人にあるとき、その人と無関係のことして扱うのはよくないのではないかということ。後で教えられてであるにせよ、どうやらそのことをこの私がやったらしい。覚えていないが、しかしそのことも含めて、それを私が行なったことは事実であり、そのように私は思う、といったことがある。放免されてしまったら、それは(それ自体はその人にとってよいことであるとしても)納得のいかないことではないだろうか。
 とすると、なんらかの制裁が、「その人」に加えられてよいのだということになるのかもしれない。ただこれは、とても基本的な問題であると思う。そのように思うのは、また別の場面、意識を失った状態にいる私、あるいはまた今とはずいぶんと異なった心的な状態にいる私のことを、それ以前の私が決める権限というものを有しているのだろうかということである。言うまでもなく、このとき私は、「植物状態」になったら、生命維持をやめてくれという、もっといえばその者(私?)を殺してくれという「安楽死」「尊厳死」の「事前指示」を、有効なものと考えるべきなのたという問いを考えている。そして、直観的には、私は、そのような権利をその者はもたないのではないかと思うのだ。
 むろん、意識のない状態において既に行なってしまい、今は、意識をとり戻している私はその行ないについて責任を有するのかという問い――ここではそのような状態に意図的になったわけではないという場合を考えている――と、未来に訪れるかもしれない無視息の状態になった自分について、今意識を有している私が決定する権利を有するのかという問いは同じ問いではない。しかし、なにかしらの共通性があるように思われる。このようなことをここで考えてみたいと思う。さて、… ★
★ このようなことに関連することを書いている人としてParfitがまずあげられるのだろう、か。
 「尊厳死」について書いた文章の第1回(立岩[2005])では問題の構成を示すところで終わった。遷延性意識障害の状態になった自分に対する自分の決定がどこまで及ぶかのかといった問題については続篇(11月号掲載?)で考えることにする。

 それは、一つ、私のやったことである場合に、そこから切り離してよいのだろうかということである。その人の意識がない状態での行ないについてその人を罰するというのはやはりまずいのではないか。
 自分がやったということの認識。誤解があって、このことは知っている人であれば指摘しているのだが、精神障害があること自体によって免責されるということではない。意図してそうした状態を作ったといった場合は別として、この認識がない場合、「その人」を罰することはできない。これは基本であり、捨てさるべきではないようにと思う。(そしてこうした規定が他の国にはないというのは――そんなことを上掲の本に書いている人もいるのだが――誤解であり、近代刑法の体系をそなえているところではみなこうした規定はある。
 また一つ。そうした人たちが免責されてしまうのであれば、その結果、かえって非難されることになる。ならば、刑法によって罰した方がよい。こういう理屈である。しかし、そもそも、そのような場合に非難し攻撃することが間違っているのだとすれば、やはりそれは違うだろうということはできる。


★ 問題は、あの人は病気だ と言う時に、私たちは何を言っているのかということである。病気が「責任免除」の理由になるということは、パーソンズなどという人の名前を出さなくとも誰もが知っていることである。そしてこの「免責」が、(免責された当人にとって)正負双方の意味を有するということもまた以前から言われてきた(と思う)。


◆確認→それで?  その人たちもまた「普通」の人間である、と言えば、「責任主体」として責任と義務を負うべきだということになるし、でなければ、監禁・医療かということになる。(それを受ける側にとってみれば)どちらに行ってもよいことがない。そのような状況にいる。

 一つ、その人が人外の人、であるのか、わからないし、わかりようがないというところにとどまること。聞かないでもよいということではなくて、聞くこと、しかし聞いてもわからないならわからないと思うこと。
 そんなことが実定法によって動いてる場でどのように可能なのかと言われるかもしれない。具体的に何をするのだと言われるかもしれない。しかし、どうにもならないわけではないと思う。

 ◆本に書かれていること
 述べたように、この本は、39条の正当性について検討するといった本ではない。そしてこの事件で、弁護側は、その線で主張したわけではない。そのように被告を弁護したわけではない。
 本に書かれていることはさきにも述べたようなことである。
 なんだかよくわからないまま、供述が作られた。それは妙だと、本人が語ったことそのままだとは思われない。このように弁護側が言っていることはもっともだと私は思うが、結局は検察側の主張にそった判決になってしまった。いったん本人が  することにしたものの、その後それを取り下げ、無期懲役が確定してしまった。

 一つに、自閉症のことをわかった方がよいということだ。それはそのとおりだと思う。その人が置かれている状態について理解に務めるべきだということ。それはその通りだと思う。障害に限っても、知的障害に限ったことではない。例えば聴覚障害の人が被疑者、被告になった場合。通訳がなされなかったり、通訳がへただったりして、まったく間違ったことが伝えられることがある。
 しかしこのことはわかった上で、どのようにわかることがわかることなのかという疑問は残る。行動がなされることを、またそれを理解するということをどのように考えたらよいのかということだ。感情とか表現の仕組みが、多数派と同じでない――ただ同じではないというだけでもない。
 筆者は幾度もこの男の言うことが不可解であると述べる。たしかにわからないという感じは残る。また著者は、繰り返し、その男の態度に憤る。私はその現場に居合わせなかったからでもあるだろう、それほどには思わなかった。ただ筆者は被害者の遺族にも幾度も会い、話を聞いている。とおりいっぺんの反省の言葉しか言わない被告に怒りを感じることになる。
 けれども、まず、こんなことをする人はいるし、そんなことはある。たしかに困るのだが、そうする人はいる。それはどこかで仕方のないことだと、言うしかないような気がする。著者はそうは言わないし、言えないのだが。すくなくとも、それではどうしてもいけないのだろうかと問うことはできる。…

 ただ、さらにやっかいというか、微妙というかなのは、その人のその状態が固定されたものだとも、脳のどこかがどうかなっていることからやってくる宿命のようなものだとも言えなさそうだということである。実際、その人が語ることに変化はあって、そのことを弁護士も法廷で語ることになる。そしてどんな場で話すか、誰と話すかによっても、幅はあるようだということ。このこともまた記されている。
 さて次に、そのことがよいことだとただ言えるものなのか。やはりここでも慎重であるべきではないか、と思ってしまう部分はある。
 まず事実として、そのようであることを認めること。可変的であるかもしれないこと。しかしどのように可変的であるのか。それもあらかじめわからない。そんな具合になっている。

 その人は、その人でない人、例えば私と、まったく隔絶しているとも言えないし、同じだと言うこともできない。
 個別に違うということもあるけれども、しかし、やはりある類型というものはあって、その括り方の正否が問題にもなり、また対応の仕方が問題にもなる。→ここで括ること自体が暴力だという批判はそのままでは、あるいはそれだけではうまくいかない。
 何がそこでなされるのか、記録しておくべきだということであり

 もう一つは、その人たちをとりまく困難について。母は亡くなり、父はたいして働かず、重い負担は――がんで25歳で亡くなってしまう――妹にかかってしまうというような家庭にいる。それが直接の原因であったわけではないにしても、この人の行ないに関わってはいる。また犯罪にあたる行為をするとかしないとかにかかわらず、困難はあるということ。
 ぎりぎりのあたりでなんとかやってるというかやれないでいる人たちがたくさんいる。私たちの社会はそれを基本的には放置している。  そのようにしておいた方が危険は高まる。だから別の手を打った方がよい。けっきょくはその方がうまくいく。これはいささか予定調和的な話のように思われるが、しかしおおむね当たっているはずである。(むろん、社会が物質的にどれだけ豊かになったとしても犯罪がなくなることはない。それはまったく当然のことであり、こちらはそんなことを言っているのではない。)
 手におえない、か。ほとんど、そんなこともある。しかし、少なくとも一人の人間と一人の人間が動かせるものがあるだけなのだ。どうにももらないというものではないはずだ。
 この本でけっこう感動してしまうのは、その人の妹さん――彼女は25歳でガンでなくなってしまう――を、北海道の「共生舎」の人たちがせいいいっぱい手助けしたあたりのことが書いているくだりである。私は、ここの岩渕さんからもまた――そういえばこのごろ途絶えているような気がするが――Eメイルのニューズレターのようなもの時々いただいていた。おおむね言われていることには賛成なのだが、なかなか表現が激烈で、この人はいったいどういう人だろうと思っていた。誰かかから上の年代の人ではないというように聞いていて、その人がこういう言い回しを使うというのは、と思っていたのが、それは私の勘違いであったらしく、この本では、いかにも、という感じの人物として登場する。
 「裁判に通っていると常連の傍聴人がいて、話こそしないものの、挨拶程度は交わすようになる。なかに真っ白な長髪を頭の後ろで結び、長いひげを生やし、年のころ六〇過ぎの一人の人物がいた。杖をもってはいるが、眼光鋭く、背筋の伸びた人だった。何者だろう、どう見ても堅気じゃない、などと失礼な印象をもちながら、私も彼も挨拶ひとつ交わそうとはしなかった。[…]山元さんに、ひょっとしてこんな人ではないか、と特徴をあげてみると、まさに符合する。それならということで[…]」(p.167)
 「彼こそが報道陣に囲ま(167)れた男の家に乗り込んでいき、テレビカメラやマイクをなぎ倒した人物であった。」(pp.167-168)★

★ 以下の写真の人であるようだ。引用からは「古老」といった感じだったのだが、どうやらそんなことはない。
http://www1.odn.ne.jp/~aaa08190/wagaya/wagatop.htm
 私のHPにリンクの依頼が来て、それでリンクしてあった。以下。
「◇岩渕進さん
 [共生、共学、共育、協働の未来のために!]札幌【Well−Being WINDs】
 http://www1.odn.ne.jp/~aaa08190/index.html
 「共生舎」
 http://homepage1.nifty.com/takamitousou/


◆補:人外の人

 人外の人 といった範疇(の設定)をどのように考えるのか、である。
 たぶんなにか構造的な理由によって、「現代思想」はそういった存在を想定するのがすきなのだと思う。それはなにか訴えるものがある。
 精神病・精神疾患…は「現代思想」頻出のアイテム、であったようなところがある。ただそれを揶揄したいというのではないのだが、しかし聊か食傷気味になってしまうというところもある。
 それは人間の存在様態を示す、あるいは現代社会を映す「鏡」のようなものだというような位置を与えられた。難しい本もたくさん書かれたし、臨床医――斉藤茂太、なだいなだ、…――が綴る読み物のようなものはさらに夥しく出版された。そこでは、様々変な人やおもしろい人たちか登場する――登場する人物たちに印税を払わなくてよいのだろうかと思ってしまうほどだ。そしてまた、奇異な事件が起こるたびに多くのことが書かれた。

 もう一つ、これらに関わりつつ、またすこし異なった性格を帯びたものとして、「外の人」と「社会(の形成・存在)」という主題系があるように思う。
 「ゾーエ」でも「ホモ・サケル」でもなんでも…。あるいは…。
 精神障害という領域が、ある部分――つまり犯罪とか刑罰とか医療観察保護法といった部分――については――賛成の刑法学者や犯罪学者がそれを主張するか、あるいは反対の立場をはっきりさせている人たちがそれを主張するといった場合以外――まったく空白にされているのと同時に、夥しく語れてきたということも関係はある。それは、なにか「人間存在」のあり方を示すものとして語られるのではある。ただ、それは「同じ」であることを意味しているわけではなく、共通の根をもったりしながら、どこかで…というふうに。(あまりに夥しくそんな本があるから、私はもう、そんな類いの本を読むのをすっかりやめてしまっている。)
 最初から言うにせよ、共通性を言いながらであるにせよ、「向こうに行っている」という理解があって、そこから しかしという方向に行くか。それもまた人間主義的であると思われ、そこで…

 ただ、そういう話のもっていき方に多くの人が疑問を感じるし、それもまたもっともことであるように思う。つまり、もっと普通の人間なのだという。そんなにはなばなしくない、はなばなしくおかしくはない(だが、やはりおかしくはある)、そんなふうにも思える。

 そしてこのことの病の存在性格、原因論の問題とが絡む。(かつて「脳病」と言ってくる側に対する批判としてあった)「社会」を言う側に対して、(さらに)「脳」をもってくる。病気であるというラべル、レッテルによってかえって楽になるという現実があることの指摘。ニキ・リンコの文章(彼女が訳した本を紹介した→立岩[  ])。

 どう考えたらよいのだろう。この本の著者が考えているのもそんなことなのだろうと思う。それなりにわかるという感じと、これはわからないという感じと、行ったり来たりしている。(ところで、筆者自身は、この人に会って話を聞いたりはしていない。)
 そして、まったく凡庸なことではあるが、現実はそんなところだと思うのだ。つまり、人はその中間にいる。またどちらでもある。どちらか片方だけを言っても、あまり当たっている感じがしないということである。そして自らが、そのおかしさとか、おかしいと思われていることであるとか、そんなことを意識したり、しなかったりしている。(出口の本がおもしろいのは、その辺りを記述しているからである。…)
 さて以上、当たり前のことを言って、それでどうなのか?
 本人にとってみれば、実際これはわからない、ということもあるだろうし。
 ……

 規範を理解しない人、その外側にいる人とどうつきあうか(という問題の立て方をどう考えるか)。正の価値をもつ財の分配については、問題はそれほど難しくはないと思う。その人がどうか思うか(思わないか)と別に、分けるものを分けてしまえばよいということである。その上でいらないということになったら、返してもらうなり、捨ててもらうなりすればよいということになる。(この場合にも、それですむのかという問題はあって、パターナリズムという主題と関係もするのだが…。)

 しかしここでは罰することが問題になっている。例えばその人は、罰せられるということの意味をわかっていないようなのだ。そんな時にはどう考えることになるか。
 一つは、こういう「外の人」をもってくるという型の議論が何を言いたくて、何を問題にしたくてこのような登場人物を登場させるのかである。
 それは一つに、ある「批判的」な文脈で用いられる。つまり、「契約」「合意」がなにかの「排除」を前提として成立するのだといったことを言いたくて、この話をする。そしてもちろん、この指摘自体は正当なものである。
 一つに、理論構成としてはアクロバティックであることを承知の上で、こうした人たちを含めた社会を導出してみせるといった方向。
 と、認めた上でそれでかまわないと言っていくことはできる。ただ、制裁の場合にはをとなるのか。つまり、それはその人に不利益をもたらすのだが、その人自身がそのような制裁を課す規則に同意していたわけではない。そこで、…
 ただ、こういう「仮想の話」をするという型の議論に慣れていない人は、このような筋の話を聞く時、それはいったい誰のことを言っているのかと思うはずである。まったくの「外の人」というのはそうそういないではないか。そんなふうに思うのだし、そのように思ってしまうことが――ここではあくまで理論として議論している、のだから――「はずれ」かというと、そんなことはないのではないかと私は思う。

 もう一つ。現実にいる人に対する対応の問題として。
 たしかに難しいといえば難しい。とりあえずのことであることを承知しつつ。


■注

★ 社会学に関しては、こうした主題を扱った論文はほとんど皆無だと言ってよい。端的に恐いからだと思う。むろん精神障害、精神医療全般をみれば研究は様々ある。精神病院の中に起こることを描いた山田富秋[  ]。
★ なぜそうなっているのか?。どうしたらよいのかということを考えることと、なぜ昨今?、39条のようなものがいらないといったことがよく?言われるのかを考えることとは、またすこし別のところがある。
 たしかに別扱いでよいのかという疑問にはもっともところがあるのだが、つまり言いたいことは、いわゆる「厳罰化」の推進であったりということはままある。犯罪が増えているという(かなりの部分間違った)認識があり、それで厳罰化を支持する声がある。というよりも、すぐに「人権」を言う知識人(等)に対する反感がまずあって、何よりもそういうものに反対したい、そうしたものを攻撃したい人たちもまたいるようにように思う。
 そしてその、かなり扇情的な主張が受け入れられるところがある。たしかにとんでもない人間がいる、と思われる。「そんなことになっても自分は有罪にはならないのだ」、そのように公言する者がいる。そのようにうそぶいて、釈放されてくる――だけではたいていすまず、案の定犯罪は起こり、それに対してときに「超法規的に」(たとえばクリント・イーストウッドが)立ち向かうという――ドラマとそっくりだが、しかし、その通りのことが言われることがあること自体を否定しない。
 しかし、池田小学校の事件でもう死刑になって死んでしまった男は、刑が課せられないこと自体から利得を得ようとしていたというより、そのことを言うことから利得を得ていたように思える。人々の気持ちを「逆なで」すること、挑発すること、からあの男が何を受け取ろうとしていたのかわからないが、しかしそれを意図してはいたのだと思う。ではこの場合に、こういう輩がいるから、39条の規定はなくなった方がよいと言えるか。言えないだろう。なくなればそんなことも言えないのだからなくしてしまえばよい、と言うのだが…


■文献

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小泉 義之 199708 『弔いの哲学』,河出書房新社,シリーズ・道徳の系譜,137p. ISBN:4-309-24193-X [kinokuniya][bk1] ※
◆呉 智英・佐藤 幹夫 編 20041021 『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』,洋泉社,新書y,236p. ISBN: 489691855X [kinokuniya] ※,
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◆諸沢 英道 19980701 『被害者学入門 新版』,成文堂,546p. ISBN:4-7923-1477-1 3990 [kinokuniya][bk1] ※,
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◆日本臨床心理学会 編 19900810 『裁判と心理学――能力差別への加担』,現代書館,396p. 3500  [bk1] **
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 cf.立岩 2002/12/25  「サバイバーの本の続き・2」 (医療と社会ブックガイド・22),『看護教育』43-12(2002-12):1076-1077(医学書院)
小沢 牧子・中島 浩籌 20040621 『心を商品化する社会――「心のケア」の危うさを問う』,洋泉社,新書y112,222p. ISBN:4-89691-826-6 777 [kinokuniya][bk1] ※,
坂上 香 19990126 『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』,岩波書店,296p. ISBN: 4000027913 2205 [kinokuniya] ※,
坂上 香・アミティを学ぶ会 編 200202 『アミティ・「脱暴力」への挑戦――傷ついた自己とエモーショナル・リテラシー』,日本評論社,233p. ISBN: 4535561885 1785 [kinokuniya]
佐藤 幹夫 20050317 『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』,洋泉社,318p. ISBN: 4896918983 2310 [kinokuniya] ※, 3675 [kinokuniya][bk1] ※
◆塩谷 毅 20040225 『被害者の承諾と自己答責性』,法律文化社,383p. ISBN:4-589-02711-9 7350 [kinokuniya][bk1] ※,
副島 洋明副島 洋明 20001110 『知的障害者 奪われた人権――虐待・差別の事件と弁護』
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◆高橋 則夫 20030120 『修復的司法の探求』,成文堂,179p. ISBN:4-7923-1602-2 3675 [kinokuniya][bk1] ※,
吉本隆明 19780905 『論註と喩』,言叢社 ,187p. 1200
◆Zehr, Howard(ハワード・ゼア) 1990 Changing Lenses: A New Forcus for Crime and Justice, Helard Press=20030630 西村 春夫・細井 洋子・高橋 則夫 監訳,『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』,新泉社,283+22p. ISBN:4-7877-0307-2 2940 [kinokuniya][bk1] ※


■立岩

◆1986/07/**「逸脱行為・そして・逸脱者 ―西欧〜近代における― 」
 『社会心理学評論』5,pp.26-37. 45枚
◆1987/12/**「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む」
 『社会心理学評論』6, pp.91-108. 70枚
◆2004/04/25「ニキリンコの訳した本たち・1」(医療と社会ブックガイド・37)
 『看護教育』45-04:(医学書院)
◆2004/06/25「ニキリンコの訳した本たち・2」(医療と社会ブックガイド・39)
 『看護教育』45-06:(医学書院)
◆2002/11/25「サバイバーの本の続き・1」(医療と社会ブックガイド・21)
 『看護教育』43-10(2002-11):268-277(医学書院)
◆2002/12/25「サバイバーの本の続き・2」(医療と社会ブックガイド・22)
 『看護教育』43-12(2002-12):1076-1077(医学書院)
◆2003/01/25「サバイバーの本の続き・3」(医療と社会ブックガイド・23)
 『看護教育』44-01(2003-01):48-49(医学書院)
◆2004/01/14『自由の平等――簡単で別な姿の世界』
 岩波書店,349+41p.,3100
◆2004/12/31「社会的――言葉の誤用について」
 『社会学評論』55-3(219):331-347
◆2005/08/05「他者を思う自然で私の一存の死」
 『思想』976(2005-08):023-044 文献表 [了:20050623]
◆2012/**/** 『分かること逃れることなど――身体の現代・1』(仮題)
 みすず書房

■→精神障害・年表

19640324 ライシャワー事件起きる*
19640402 厚相 精神衛生審議会に精神障害者対策を諮問(0428 警察庁 厚相に法改正意見具申)*
19640400 日本精神神経学会「精神衛生法改正法案は人権侵害の恐れあり」と反対決議*19681200 法制審議会精神障害者の犯罪に保安処分施設新設案を出す* 

■cf.

アムネスティ・インターナショナル日本支部
おおさか被害者支援センター・マーガレット(2005設立)


UP:20050907  REV:20050909(訂正等),26(誤字訂正・表記統一),1024(書誌情報掲載) メモ:20050730, 0731(28k),0802(35k),03(46k),05(52k),06(56k),25(65k), 20150119
自閉症  ◇佐藤 幹夫  ◇犯罪/刑罰  ◇書評・本の紹介 by 立岩 
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