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書評:三井さよ『ケアの社会学――臨床現場との対話』

立岩 真也 2005 『季刊社会保障研究』41-1(Summer 1995):64-67


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三井 さよ 20040825 『ケアの社会学――臨床現場との対話』,勁草書房,270p. ISBN: 4326652969 2730 [amazon][kinokuniya] ※

 たいてい書評欄は小さく、実際には書評などできない。それに比べて本誌で与えられた字数は多い。しかしこの本は、とてももっともなことが書いてあり、そのとおりだろうと思い、納得し、そんなことがあってよいと思い、書くことを思いつけない。以下、そのことについて。
 この本は、書きたいことがはっきりしている本である点でまず評価される。著者は、幾つかの病院に行って、長いこと聞き取り調査等をした。この本は、そこから書かれているのだが、言いたいことが調査と論文から生まれてきて、それははっきりと言われる。事実が並べられ、何か言いたいこともないではないようだがはっきりしない、という本より、いくらもよい。
 そうして取り出されるのは、「戦略的限定化」である。それは、「まずは、自らのなすべきことやできること、自らと相手との関係性、こういったものを、そのつど生じた問題的状況に即して限定することであり、また同時にそれによって、限定された範囲内においては無限にありとあらゆることを試みようとすることである。」(p.109)。そのようなことはあるだろうと思う。この本で取り上げられているのは看護という仕事だが、むろんこの仕事だけに限らない。さらにこれはある仕事を職業にする人たちだけが行っていることでもないだろうし、専門職者の行いにも限らないだろう。私にしても、やれることは限られているとし、他人にも自分にも過大な期待をかけることを防ぎながら、しかしできることをしてみる。その方がやりやすいしやる気がでる。圧迫される感じが少なく、かえってうまくできる。
 もう一つ、「相補的自律性」が言われる。「相補的自律性とは、各医療専門職が互いの職務が重なるときに、発言し合い問題提起し合うことの意義を互いに認め合った関係である。」(p.226、他に定義的な記述としてpp.213-214)。職域が分かれ、権限の差異もあることをまずは受け入れ、自らは自らのすべきことをしながらも、互いに協力し合って仕事をすることである。これもよいことである。次に言うことがない。
 とはいえ、むろん、いかにも言われそうなことがないわけでない。それは、こうした対応が、基本的にはケアの提供者の側(この本の場合には看護者の側)が行おうとして行われるものであるということである。相反するとも思われる二つの契機の双方を組み合わせ、使い分けてうまくやっていることを著者は描くのだが、その組み合わせ方、使い分け方は、その人たちに委ねられ、やり方によっては、逆向きの作用を起こしてしまうこともあるだろう。例えば、ある時には、それは自らの仕事ではないからとしてせず、ある時には職分を超えて行うことを拡張してしまう。互いに譲ってすべきことがなされなかったり、自分の職域にもってこようと取り合いになったりする。
 ではこのことを指摘する人たちは、代わりに何を言うか。第一に、提供者の仕事、権限を限定し、利用者の方が選び、使い分け、統御するのがよいと言うかもしれない。このような主張は、「全人的なケア」といったことを言う人たちの神経を逆なでし、その人々から嫌われもするのだが、しかし、それでももっともな主張ではある。だから私も、このような場面があることを書いてきた。けれど、そういう仕方ではうまくいかないこともたしかにあり、著者が見ているのはそんな場面である。病院にやってくるからには様々に弱っていることもあり、それで何もかも自分で決めるのは無理なことだし、辛いこと面倒なことでもある。自分で律するのには限界がある。その時にはケアする側がうまく振る舞う必要がある。(「当事者の自己決定の限界」についての著者の記述はpp.35-38。)
 すると第二に、規則を定め、何を行い、行わないかを決めて、それを遵守するようにしたらよいか。しかし、それではもとに戻ってしまう。そんなことではうまくいかないから、著者が記述するような臨機応変な態度、工夫もまた現われ、行われているのである。それを細かに決めてしまったら、かえってうまくいかないかもしれない。
 こうして、反問はすぐに出され、対置される立場が少なくとも二つはあるのだが、そちらの側も、二つともそう強くはないということだ。まず、皆が立派な消費者・決定者でないから援助する側も苦労している。規則を作ると、それは多く、余計なことをすることや必要なことをしないことの理由とされてしまう。またケアする側が何も思わず、考えないことを促すことになる。だから、別のことを言いたい側も、著者が示す態度に対する優位を示せるわけではない。
 とすると、反問する側は、代わりにどんなあり方があるかではなく、事態が起こっている条件・状況について今度は言いたがるかもしれない。ここでもまず二つあげられる。
 第一に、この本に描かれる人たちはたしかにいっしょうけんめいやっている、調査対象の病院は情熱によって支えられている、しかし、と言う。調査された病院では、すべてはよいケアを提供するために行われていて、使命感や、それを実行しているという誇りがその行いを支えている。現状を改革しようとしていて、その実現を現実に志向することによって、負の効果を与えるような方向に行かないようになっている。たしかにそれならば、また加えて情報の誤伝達がないなら、うまくいくだろう。しかし多くの施設はそれほど熱心ではない。先駆的な施設は少数だから先駆的なのだ。多くの人はそう大きな情熱を感じたりもしない。だからそうそううまくはいかない。このように言うだろう。
 それはたしかにそうかもしれない。だが、だからどうすればよいのか。そこで批判者は再度同じところに戻されることになる。つまり、やる気のない供給者に代わり、一つ、消費者が制御できるようにする、二つ、規則で規制する。しかし、それでうまくいかないから、それで実現されないことがあったから、筆者がこの本で取り出す契機が大切だという話だったのではないか。
 第二に、ケアの与え手と受け手の関係を規定している枠組み、「社会」を問題にすることもできよう。局所的な関係の中でなされていることの外側にあるものがある。それが大切であり、そのことを看過してはならない。こう言うのである。しかし、言われた人たちもまた、自分たちが定められた囲いの中でやっていること、やれることに限界があること、そんなことはわかっている、と言うだろう。常に限界はある。自分たちを囲む大きなものを変えていくことは必要だろうし、そのことをけっして無視するのではないが、それは今できることをしなくてよいということではないはずだ。私たちとして今やれることを、その限界を自覚した上でするのだ。こう言われる。これももっともである。だから、なにかにつけて「社会」を持ち出し、言いつのるのも大人げない行いではある。
 こうして、著者のこの本に記す立場は強い。それに対して何か言いたい側も、批判と自分の主張とをあまり強く言うことはできない。代わりに指摘できる事実、代わりに示すことのできる方向はなくはないが、それには限界がある。
 こうして、この本について書くことがないという感じは、まず、本に書かれているようなことは事実あるだろうし、あってよいだろうと思えることによるのだが、さらに、それについて別の言い方をしたくとも、あまり強く自信をもって言えないというところから来ている。示される方向は、基本的にすべきことをしようとしつつ、無力感と過度の疲労とを防ごうというのだから、力の使い方としては効果的である。常によい方向に作動するか、それはわからない。しかし、そんなことは著者も当然わかっている。だからこのことを指摘するのは大人気ないということになる。
 それでも、あえて何か書くとしたらどんなことになるだろうか。関係し合う二つのことを述べる。
 一つは、もっと先に行って、縁取ることである。しかしもっと先とはどこのことか。まず、この本が、他と比較した時、どこの辺まで行っているかについて述べる。
 この本が教えるのは距離のとり方である。いくらかの距離をとれないと巻き込まれてしまい、螺旋状に下の方に向う道行きになってしまい、双方が潰れてしまうから、それはいけない、距離をとりつつ、力を尽くすのがよいと言われる。これ自体が発見であるなら、それを発見して終わるのもよい。ただそうでもないだろう。例えば距離のとり方については、著者も引いている人としては宮子あずさの本等々に、論文的な書かれ方でではないにせよ、書いてある。
 そしてケアの仕事や、専門職の人を肯定し、応援することも、この社会では既に当然のこととされている。あらゆるものを斜めから見て、文句を言う、というのが戯画化された社会学のあり方だが、私は、その戯画通りのものをめったに見かけず、たまにはそんなものがあってよいとさえ思う。大勢として存在するのは既に、そんな単純でやんちゃな言論ではない。著者の立論に既に(社会学者も含め)ほとんどの人は反対せず、ほぼ敵はいないはずである。
 とすると、やはりその先、というか、前というか、である。さきに、消費者主権と規則主義をもってくればすむというものではないことを述べたし、ケアする側の態度に左右されることや、社会的な状況・条件が大切なことを指摘すればよいわけでもないことを述べた。それはその通りなのだが、それは、筆者が見出し推奨する方策も含め、どれもが唯一の解、特権的な策というわけではないということでもある。とすると、何がどれだけ、どのような場面で、必要なのか、あるいは必要でなく、やめた方がよいのかである。私たちは、依然として、どこで何がなされ、どこでは何がなされたらまずいのか、わかっていない。著者が推奨する方向でやってみて、うまくいかないことが当然いくらもあるだろう。その時にはその場はどうなるのか。またどうしたらよいのか。
 こうした主題は「規範論的」に考えてみるという方向もある。だが、同時に、そのような関心をもって、実際のところを調べることもできるはずだ。そのためには、やはりうまくいかないところ、衝突してしまうようなところ、それでよいのかわからなくなるところを見ていくという方向があるだろう。
 例えばこの本には、「ガンなんじゃないのか」と問いかけられたのだが、病名告知はなされていないために答えるわけにもいかず、かといって問いかけを無視することもできない看護者が行う「ニーズの「翻訳」」が、「戦略的限定化」の一つとしてあげられている(pp.130-134)。けれども、それで話が終らなかったらどうなのだろう、どうなったのだろう。例えばあくまで知らせられるべきだと言い張ったら(ちなみにそれは私自身の立場ではない)どうなるのだろう。あるいはどうしたらよいのだろう。例えばそんなことである。そんな場面に起こる右往左往や、問題の処理のされ方、あるいは忘却のされ方を調べてみること、そういう方向が一つあるだろうと思う。
 それはある種の「医療社会学」の伝統に連なる捉え方、冷たい接近法・記述法ということになるかもしれない。しかし、医療や看護の仕事を記述的に記述し、ときに皮肉に語ってきた人たちが、その仕事をしている人たちを否定していたのか。多くの場合、そんなことはない。むしろ、どこに限界があったり、綻びがあったりするかを見出すことによって、ではその人たちは何が出来るのかを知ったり、考えられたりすることもある。
 このように考えていくと、もう一つ、多くの人たちが最も聞き飽きもし、言い飽きもしていることを、やはりここでも言うことになるだろうか。つまり、ケアする相手との間に何が起こっているのだろう。その関係に生成しているのは何だろう。
 いったいその人は何を「ケア」されたいのだろう。それはその人に聞いてもわからないし、聞いても仕方のないようなことではあるだろう。少なくともあらかじめその人はそれを知ったりはしておらず、そして多くの場合、わからないままに、そしてとても平凡に、時は経っていく。しかしそのまったく同じ時に、様々なことが起こってもいる。かなり多くの場合、ケアする人が仕事として対応していてそれなりの限界があることは、ケアされる方も知っている。そして、それでもうれしく、それでよいと思ったりすることがある。すべてを与えろなどと病者は求めはせず、むしろ多くの場合かなり社交的にことは進む。ただ間違えてならないのは、それでも、それがたんなるうわべの行い、関係だということになると限らず、そこにいくらかの真実が生成するように思われたりもするということだ。「承認」を語る人たちの中にもときに単純にすぎる人たちがいる。たしかに、「ケア」は分割して薄めることが容易でない。しかしではそれは本来は賃金を得るような仕事にならない仕事か。そんなことはない。
 ケアする側の「戦略的限定化」をも一部として含みこむようにして、たんなる仕事上の関係でもあり、それだけでもないような関係ができていく。例えば「心のケア」なるものが不愉快であるとしよう。しかしあんなものでもときに効果があるということは、それほどには人間は賢いということかもしれない。そのような(それ自体はたいしたことのない)行いをそれを仕事にする人がわざわざ私に行うというのだから、それに応じてあげる、自分がそのケアの提供者にそのように応じてあげることによって、すこし立ち直ったりもできる、そんなことがある。これらで何が起こっているのかは、おそらく「ナラティヴ」をただ再録することによっても、また「感情」の抑制・秘匿と吐露という「感情労働」を語る語り口によっても、うまく拾うことができない。どうしたらよいか、よい方法を思いつかない。しかし、なにか書きようがあるような気はする。
 その人に固有であるようなあり方を保持するために、(そのためにも)消耗し尽くさないように行動する。力を無駄にしないように、しかし真剣に対する。そんなことは存在するし、必要だ。しかしそれだけなら、ある視点(「ケア」の視点)のもとに存在する世界をそのまま代言し、既に現場で保持されている物語=現実を反復していることであるかもしれない。ケアする人の力の傾注あるいは調整というだけでない動きが起こることがあるだろう。その中には、どうにもならないような膠着もあるだろう。心中物のような破滅への道行きがあったりもするだろう。生き続けていくためには距離は必要なのだから、ここで浪漫主義的である必要はない。ただ、それらの中に、ただあしき事例として教訓を得るためにそうした例も見ておく必要がある、というだけでないことごとがあるように思う。
 原稿送付:20050519


UP:20051031
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