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「障害者自立支援法」?・3

―知ってることは力になる・38―

立岩真也 2005/ 『こちら”ちくま”』45(2005-4):


廃案→選挙→

  みなさんご存知のように、「郵政法案」が参議院で否決され、衆議院の解散(そして衆議員選挙)となったために、障害者自立支援法案は廃案になった。しかし報道によると、政府・与党は選挙後の臨時国会で同じものを再提出して法案を通過させるということのようだ。だから、こんどの選挙によってどうなるかが変わってくる。となると、あの法案に関心をもたざるをえなかった人たちは、あんなものでは困る人たちは、投票に行かざるをえない。
  というわけで、まったくのんびりできない状況なのだが、以下、前回に続き、『精神医療』(批評社)に載った「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」(書いたのは5月の初め)の後半から、「審査」と「自己負担」の問題についての記述を全部略して――全文はホームページでどうぞ――終わりの部分だけ、掲載させていただく。題の通り、いかにも遠回りではある。しかし、「改革」はよいとして――というかこの言葉だけでは何を指すか不明だ――もちろん問題は、なぜ、そしてどちらに向かって変えるか(あるいは変えないか)である。そこを、もっと普通に、冷静に考えたらよいのに。
  そして、以下では「小さな不正義」のことを書いているのだが、もう一つ、このところ、この社会は――「自国」のそして「外国」の――「大きな不正義」の扱い方も間違えている。とても粗雑に――「あなたたちがそんなことを気にしなければよいのだ」というように――ごく小さなこととして扱ってしまうか、あるいは――抑圧されている人々をさらに困窮させ、それで圧制者からの譲歩を得ようというように――とても乱暴な方法で対処しようとしている。そして報道の多くは、もっぱらどうでもよいようなことを取り上げ、伝えている。でなければ危機を煽っている。そしてさらに悲しいのは、報道している人たちもやっていることがくだらないことがわかってやっているか、でなければ、自ら熱狂してしまっているかであることだ。そしていずれも客(視聴者)に合わせてやっていると思っている。伝える方と伝えられる方と、相乗効果で、ばかのふりをしていて、本当にばかになってしまう。また興奮してしまう。前回の選挙の時にも新聞に書いたが――そして「読者のお叱り」をいただいたそうだが――、まったく政治に愛想づかし、無関心、の方がまだましだと思うほどだ。もっと普通に考え、わからないことなのにわかったふりをしないでおこう。
  とにかく私の方では、自立支援法については一つ、ホームページのファイルを整理・増補した。私の名前で検索するとトップ・ページにすぐいけるはずで、そこからリンクされていますので、ご覧ください。もう一つ、これらに記載した情報を中心に、私がこれまで書いてきた文章を加え、冊子を作った。1000円足す送料で販売。この冊子についてもホームページに案内があるので、どうぞ。では、引用の続き。

常識ある市民を相手にせねばならない・2

  [略]問題は、こうした[=「査定」や「自己負担」といった(補記)]基本的なまた現実的な問題を生じさせてしまうような手立てを使ってでも、利用を抑制する必要があるのかである。実際に人が働かず、お金だけが払われてしまうなら、これはたしかに無駄であるかもしれない。しかしそんなことを利用者側は望んでいない。利用者側はやはり自分に役に立つことをしてほしい。それで、介助する人にはきちんと働いてもらう。そしてその人が対価を得られるなら、働いた額で暮らせることにはなる。そして働ける人は余っている。だから失業者もいる。その人たちが無意味ではない仕事をする。本来は所得保障として分配されてもよかったお金が、仕事への対価として払われ、その人は暮らしていける。それはわるいことではない。
  金がないという話も、結局は、人がいないか、ものがないか、両方かであって、とくにこの場合は必要なのは人なのだから、結局は、人の問題に帰着する。人は余っているという認識は、むろん誰もが共有している認識ではない。したがって、ほんとうはこの辺りから、誤解――と私は考えるもの――を解いていかなければならない。それはたしかに悠長に過ぎるのであるのだが、仕方がない。言うべきことは言うしかない。
  以上を順序を変えて繰り返すと、第一に、サービスの利用(人の働き)を抑制すべき強い必要はない。第二に、この制度におけるサービスについて大きな不要な膨張は起こりにくい。第三に、膨張を抑制するとする方法としての「自己負担」にしても「審査」にしても大きな難点がある。だから、やめた方がよい。では何もしなくてよいか。何かはあった方がよいかもしれないという思いは私にもある。例えば不安が傍に人が長くいることを求めさせるかもしれない。その不安をうまく減らせるなら、人にいてほしい時間は少なくなるだろう。身体障害の人であれば、人が傍につかなくとも外出できるような環境であったらよい。人が傍にいるのはわずらわしいことでもある。いなくてもすめばその方がよいということはおおいにある。そうしたことを様々考えて実現していくことはできる。その方がよい。そのような当然の道を行かず、すぐに考えつくような、しかし乱暴な方法が採用されようとしている。

明るくなれない、としても

  この時代は、「小さな不正義」に敏感になってしまっている時代である。ずっとそうだったのか、このごろとくにそうなってしまっているのか。それは知らない。ただ、こまごまとせこくなってしまっているのが我ながら哀れであり、本当には困らなくてよいところで困ってしまっているのが悲しいところである。しかしただこれを嘆いても仕方がない。あまり暗くてもよくないから、気をとりなおして言うことになる。そして「きちんとした制度」を求めるもの言いには、いくらかはもっともなところがある。こちらも、そう歯切れのよいことは言えない。よいと思えることにも副作用のようなものがたいがいあるから、総合的に考えた方がよいことを言う。非常識と思えるような主張が、いくつかの要素を考え合せるなら、意外とそうでないことを言おうとする。そんなことを、私は、他にすることがないから、していく。
  そして一つ、まだ、後退はしていない。このたびのことは、獲得してきたものがあったから起こった。起こっていることは気の滅入ることである。だが、それを起こしたもとのものについては誇ってよい。そのことは忘れない方がよい。


UP:20050822
障害者自立支援法  ◇自立支援センター・ちくま  ◇立岩 真也 
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