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障害者自立支援法、やり直すべし

――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか――

立岩 真也 2005/07 『精神医療』39:26-33
批評社:http://www.hihyosya.co.jp
『精神医療』39:[amazon][kinokuniya]
 http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0424-1.html


■詳しくはホームページで

  法案がどんなもので、具体的にどんな問題点があるかについて、書かない。長く真面目に障害者政策に取り組んできた組織や人たちの見方を知ってもらった方がよい。ホームページ(http://www.arsvi.com、私の名前で検索すると出てくるはず)に「障害者自立支援法?、最初っからやり直すべし!」というコーナーを作ってある。そこから法案、様々な文書・文章、集会の案内等々にリンクさせている。
  そこに、よく知らない私が中途半端に書くよりよい文章がいくつもある。「DPI日本会議」などから出ている要望書などを掲載、あるいはリンクしている。DPIは世界組織「障害者インターナショナル」の略。その日本会議はここのところ重要な役割を果たしている。そのホームページや「全国自立生活センター協議会(JIL)」のホームページにある解説などが有用。またDPI日本会議の事務局長に今年就任したのが、長く大阪で活躍してきた 尾上浩二さん で、その尾上さんに、4月2日「障害学研究会」の関東部会(東京)で「『”障害者自立支援”法案』何が問題なのか」という報告をしていただいた。鶴田雅英さんがその報告と質疑応答の全体を文字にしてくれた。それをホームページに掲載させていただいている。これを読んでください。

■どうしてこうなったのか?

  多くの文章・文書で、問題は大きく三つはあげられている。まず、人の話も聞かずになぜそんなに急ぐのだということである。次に、「応益負担」はよしてくれということである。そして、「認定審査会」でサービスの可否や量を審査するのも困るということである。さらにこれらの問題の出所は、つまりは金だ。それで、自己負担のために実際困る人が出てくる。ただ、具体的にどうなってしまいそうなのかは、前記した人・組織の分析に委ねる。この文章で述べることは、おおまかに、今起こっているこの事態、つまりはお金を巡って起こっているこの事態は何なのかである。
  まず、これが予想外のできごとではなく、いつか降りかかってくることではあったこと、実際そのことが予想されていたことを確認しておく。私がある程度知っているのは介助(介護)のことだけだが、それは福祉サービスの中でも大きな部分を占めるものではあるから、それを中心に述べてもわるくはないだろう。
  公的な介助制度の獲得・拡大を求める運動は1970年代に始まる。それから約30年、徐々に徐々に規模を大きくさせ、制度のある地域を広げてきた。それは、まったく新しい全国的な制度を作るといったものではなかった。既に存在する法のもとで、厚生省(厚生省)、そしてとくに市町村、ときに都道府県と直接交渉をし、自治体別の事業要綱を作らせ、サービスの規模を少しずつ大きなものにしてきた。(この辺については、安積純子他との共著『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』、藤原書店、1995)
  そしてそれがそうたいした予算規模ではない間、中央官庁、というかその障害者福祉担当者たちは――とくに、当事者団体との交渉・折衝を経て、その人たちの生活の現実がわかっている人たちであれば――その制度の充実・拡大を支持し、その方向で、自治体に対した。たしかに一時期、厚生省、後の厚生労働省は、制度の水準の低い自治体に対してその水準を引き上げさせるという役割を果たしていたのである。
  もちろん、このような制度の拡充の仕方に、その時々の限界はあった。つまり、声をあげられるところから制度が作られ、充実していったから、そうでないところが遅れた。これは事実だ。しかし、この限界、問題は、その運動をしてきた人たちが一番よくわかっていた。その人たちはそれではいけないと考え、制度を全国に広げる努力をしてきた。私は、それはほんとうに立派な活動だったと、今も立派な活動をしていると思う。それで間違っていたと思えない。ほかにどんなやり方があっただろう。
  こうしてその人たちは次第に制度をはびこらせてきた。こうして制度が一定の水準に達し、予算の規模も次第に大きくなるなら、それに対して、型にはめ、また量を抑制するといった動きがやがて出てくることは予想されていたことだった。私の記憶では、1990年代の半ばには既にそうした感覚はあった。そうなったとしてどのように対応するのか、検討もしようと考えたし、実際考えもした。(ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会『障害者当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』、1998、等。私の方からお送りすることもできる。)しかし、制度改変が現実に現われない間は、基本的には、制度を使い、使い勝手をよくしながら拡大のための行動を続けていくことになる。その方向しかなかった。それで間違っていなかった。
  変化の可能性が最初に現実的なものとして現われたのは、2000年4月から始まった公的介護保険に障害者(高齢者でない障害者)の介助の制度が統合される可能性があるという情報が伝わった時だった。私の知る運動は、それでよいことがあるかを検討し、ないと考え、加わらない方がよいと判断した。(他方、難病の人たちの団体などで積極的にこの制度に乗ろうとしたところもある。実際、介護保険を使えるようになり、他の制度と併用している。それがどんな具合かについては拙著『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)第10章。)この時には、こうした利用者・障害者側からの反対があったらから、というわけではないが、統合は実現しなかった。ただ、これからそうしたことが、例えば制度の見直しの時、幾度も起こりうるだろうと思われた。そのことを考えていた人の数は多くなかったにせよ、その予想はたしかにあった。こうした動きが、今いよいよ本格的に現われているということである。ただその経緯は、そうすっきりとしたものではない。私には内部事情はわからないが、そのうち誰かが調べてくれるかもしれない。ただ、その細部はそれほど重要なことではないとも思える。
  2003年4月から「支援費制度」になった。サービスを拡大させ、そして障害者自らが組織を作り、その供給に関与してきた地域では、利用者と供給者の契約関係、同時に利用にかかわる費用の社会的供給というかたちが既にできていたから、この制度への移行は、なにかまったく新しいものへの移行ではなかった。ただそれは、多くの人に、制度があって使えることを知らせることになった。貧弱な制度しかなかった地域での供給水準がいくらか上がった。サービスを提供する組織を作り運営することがより容易になった。介助などで働く人が得る報酬が多くの場合にすこしよくなり、人を派遣する組織に入るお金も増えた。そうしてサービスの利用・供給は増えた。
  支援費の制度自体には誰にどれだけという基準、審査の制度はない。2002年に案として示された時もそれは含まれていなかった。だが考えられてはいたようだ。隠しておいて最後の段階でさっと出せば通ると楽観していたのか、制度実施直前の2003年1月、サービス供給の「上限」を設定するという案が知らされた。しかしこれは大きな反対にあって実現せず、この部分を含まない支援費制度が始まった。
  サービス利用・供給の実績は予算を上回ることになった。これまで足りなかったサービスが増えたということだから、これはよいことであって、予算通りにいかなかったのは、見込みを間違えたということでしかない。しかし増えるのが困る人たちがいる。担当の役所は厚生労働省だが、この人たち自身がサービスを減らしたいわけではない。ただ、借金をかかえている政府・財務省が受けつける範囲で政策をやっていかなければならない。
  そのままではやっていけないと厚労省は言い、次に出てきたのが「公的介護保険」との統合案だった。介護保険の制度に入れば独立した財源だから心配しなくてよいというのだ――吸収でなく、統合でなく、介護保険を利用するのだという言われ方もされた。これが浮上したのが2003年の秋。以来、障害者たちがこんどはこの「統合案」への対応に追われた。(この辺までについて、拙稿「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」、平岡公一・山井理恵編『介護保険とサービス供給体制――政策科学的分析』、東信堂、近刊*。)そして、この案もとりあえず見送りになった。障害者側の反対のためにという部分もあるはあるが、それだけでない。むしろまったく別の理由から、つまり保険料の負担を気にする経済界等の思惑などもあってのことである。
(*もとになった文章として、2003/03/00「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」、平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88)
  さらに、2004年の10月になって急に厚生労働省の側から示されたのが「グランドデザイン」、長く言うと「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」。社会保障審議会の障害者部会がこれを審議する場だが、きちんとした議論をする時間もなく、審議は終わったことになり、そしてそれを受けて(受けたとして)提出されたのが「障害者自立支援法」である。(最初は「障害福祉サービス法」という仮称だったが、途中から「障害者自立支援給付法」、その後「障害者自立支援法」になった。)
  障害者の側は、この間ずっとこうした動きへの――疲れるし、楽しくない――対応で忙しかった。厚生労働省の「迷走」が、計画のなさ、計算間違いであったのか、あるいは計算された動きだったのか、それはわからない。サービスを膨張させ、この財源確保のためとして介護保険を提示、といった深謀遠慮があったとは考えにくい。介護保険との統合の方向はあったが、とりあえず支援費で行こうとし、当初は供給に枠をはめられると読んでいたがうまくいかず、供給が増えてしまい、その増えたお金を財務からとってくるのが面倒なことにも思え、それでやはり統合を急がねばとなり、だめなら、自己負担・審査という介護保険と相同の仕組みをもつ制度を作り、それで供給を抑える、抑えられるような機構の制度であることを財務に示し、そしてまた将来、介護保険との統合につながればそれはそれでよい、といったところなのかもしれない。
  この間の経緯には紆余曲折があり、法案にはいろいろなことが書いてあるが、起こっていることはとてもはっきりしている。この間の、こうしたあわただしくうっとおしいすべての動きが、結局は、お金の事情ゆえの動きであったと見るほかない。「自己負担」――その「自己」が、利用者自身に限られず、家族も含まれるのも困ったことだが――の分だけ安くなるだろうという。自己負担しなければならないとなれば、サービスの利用、「使いすぎ」を控えるだろうという。「審査」すれば、やはり使い過ぎを抑ぎ、「公平性」を保つことができるだろうという。
  当の厚生労働省の側が、積極的に予算を抑制しようと思っているのではない。むしろ、他の省庁と同じで、それぞれの担当の予算は確保したいと思っているし、自らが関わる事業を発展させたいとも思っている。自分の縄張りだから、という以外に、それなりの使命感と気概をもって仕事に当たっている人たちがいることも私は否定しない。
  ただ、政府・政権党の基本的な方向は別にある。厚労省も、自分たちが進みたい道を行く上でも、それは考慮に入れざるをえない。なににせよ、増やすことができないということになり、抑えにかかえっている。厚労省は自らの仕事をしようとするが、同時に、そのためにも、抑えるところを抑えることをせざるをえないという仕掛けになっているということである。抑制が主眼ではないと言うだろうし、実際そう思っていても、金は財務がもっている。このまま財源として税を使うなら、財務省と折衝し、受け入れてもらわねばならない。それに制度は制約される。他方、介護保険ということになれば、財源の上での独立度は高まる。財務省から一定の「自律性」を得ることができる。また介護保険を維持するためにも、若い人たちからも保険料を徴収した方がよく、それを正当化するために高齢者以外にもサービスを給付することにした方がよく、そのために「統合」する、ということもある。しかし、介護保険とはそもそも、そこそこの負担でそこそこのサービスを、というものであり(ものでしかなく)、そもそもがたかのしれた制度でしかない。そのようにして、財を財源にしても、保険制度に入っても、どちらにしても「適正化」が実現していく。

■常識ある市民を相手にせねばならない・1

  加えて一つやっかいなのは、そして疲れてしまうのは、これが予算の制約のもとでただ仕方のないこととしてなされようとしているのでなく、「人々」に――「障害者福祉」に肯定的な人々であっても、財布のことしか考えていないというような人でなくとも――に理解されてしまうということである。すべてを「政界」や「財界」の思惑のせいにできない。ことはそう単純ではない。
  この件に関係する官庁の人から、「納税者の理解が必要」という言葉が幾度も発せられる。これは、このたびの法案を通すための方便として言っているというだけでなく、どうも、その(自ら納税者の一人でもある)役人自らもそのように思っているようなところがある。たしかに「無駄使い」は悪いことに最初から決まっているのだし、「使い過ぎ」はよくないでしょうという話に「市民」「納税者」たちは、マスコミも含めて、納得しやすい。そのことについて何を言うか。
  なんていうことを悠長に書いていると、もうこのたびのことは決まってしまいそうなのだが、それでも、どう考えるか。聞いてくれそうな人に何を言うか。聞きたくない人は聞かないのだろうが、それでも何を言うか。
  もちろん、増えるとか足りないという額がせいぜい何百億とかそんな額で、たいしたことはないと言えばよいのではある。また、たしかに政策運営に失敗して国に多額の借金があるのは事実だが、だから一律に予算を減らすとか増やさないという話ではないだろうと言うことである。そして、実際に一律に減らされているのかといえば、そんなことはない。よけいなところにお金を使っているから、それを回せばよいと言うことである。そして私なら、税金をとるべきところからはとればよい、増やせばよいと言う。
  これらはみな正しい。問題は、正しい話を通すことが難しいということ、その難しさを前提に、また「無駄使い」といった言葉に敏感な人たちにも向けて、何を言うかである。
  まず、介助などの社会サービスを利用することで求められているのは、並みの暮らしであって、それ以外のものではない。その並みの暮らしというものを、あなた(たち)はたまたま、頭そして/あるいは身体が、早目にそして/あるいは秩序立って動いていて、できてしまっているわけだが、私(たち)はそうではない。しかし、頭がどうで身体がどうであろうと、並みの暮らしはできたってよかろう、というのである。そして、むろんこの主張は所得保障に関わる主張を含んでいるのだが、さしあたりそれをここでは置くならば、実際にはさらに慎ましいことを言っているに過ぎない。稼ぎがないとか少ないとかいった部分は、とりあえず、さておき、日常の生活の遂行に関わる部分だけについては、並みにできるようにしよう。それは当然ではないか。もちろんその人は、税金や保険料を払えるだけの収入があれば、税金を払い、負担している。同じ稼ぎの人は、むろん細かく言えば控除の有無による違い等ないではないけれども、同じに負担している。
  「ノーマライゼーション」という言葉――この語がこのごろ役所で使われなくなっているのではないかという指摘もあるのだが――があって、それは受け入れようということなっていたではないか。それでも文句を言いたいという人のことがよくわからない。もちろん、さしあたり自分はサービスは不要で、その分税金を払うのはもったいないというのはわかる。そのことが言いたいのだろうか。ならばはっきりそう言ってもらった方がよい。
  そうでないとすると、やはりなにか誤解がある。「サービスにはお金を払うのが当然でしょ」といった「素朴」な言い方がどのような水準にあるのか。必要に応じた(人並みまでの)供給はすべきでない、そういう信仰をもっているということだろうか。とするとそれは価値と価値との対立ということになり、それはそれで、合意には至らなくとも、議論をすることにはなる。拙著『自由の平等』(岩波書店、2004)でそのことについて書いてはみた。そして、負担は少ない方がよいことは認めた上で、そうたいした負担にもならないことを言い、その点では安心してもらう。その上で、頭がどうであれ身体がどうであれ、したいことがそこそこにできることはよいことではないか、自分がどんな自分であれ生きていけるときまっている社会で生きている方が楽で気持ちがよいではないか、と言う。すべての人を説得したいとか、説得できるとか思わないが、少なくとも、過半の賛成は得られてよいはずだと思う。

■常識ある市民を相手にせねばならない・2

  あなたには(人よりよけいに)よいことがあるから、その分は自己負担、「応益負担」という論はなり立たない。とすると他に「審査」と「自己負担」に理由があるか。増え過ぎること、無駄使いがなされること、そのように使う人がいることによる不公平が生じることを心配しているのだろうか。それはもっともな理由のように思える。自己負担には、たんにその分だけ他の人たちの負担を減らせるというだけでなく、供給を抑える作用がある(とされる)。抑制と言われると抵抗感があっても、「公平な制度の運用」などと言われ、そのために「きちんとした基準」が必要だと言われると、それはそうだろうと思われる。この間、報道がおおむね及び腰であるのも、そのことが関係しはするだろう。そして現行の巨大な制度である「介護保険」は既にそのような制度として動いている。
  増え過ぎることがよくないことであるとして、それを防止するために、自己負担を求めるか、基準を設定し審査するか、あるいは両方を行うのは――今度の法案は両方を行おうとしている――、誰もがすぐに思いつく方法ではあるが、よいやり方ではない。次にこのことをわかってもらわねばならない。
  法案の文章を読むだけでは制度の具体像は明らかでないのだが、これまで示されているものから試算され指摘されているのは、端的に生活が困難になる、サービスが使えなくなるということである。いま多くの人がいくらで暮らしていて、そこに1割負担が加わるとどういうことなるか。こういうことを具体的にわかってもらうのが大切なところなのだが、それは他の人たちや組織にまかせよう。ここでは基本的なことだけ書く。拙著『弱くある自由へ』(青土社、2000)の第7章「遠離・遭遇――介助について」に述べたことでもある。
  基準がないと、と言われる。しかしまず医療サービスは(自己負担はあるし、増えているが)出来高払いで、まがりなりにもこれまでやってきた。事前の審査はなく、基準はない。それに対してむろん、だから医療費が増えてしまったのだ、あれは手本にならないと言われる。実際、医療保険でも定額制の導入も検討されている。こうした論を全部否定する必要はないと私は考える。ただ、基準があり審査があるのは当然だろうと思ってしまう時、多くの人は、そんなものなしで少なくともこれまでやってきた大きな制度があることに気がついていない。すこし横にあるものを見るだけで、当然と思うことが必ずしも当然でないことがわかる。これはわかっておいた方がよい。
  お金ならあればあるほどよいかもしれないが、医療にしても介護にしてもあればあるほどうれしいというサービスではない。むしろ増やしたいのは経営が絡む供給側であって、利用する側はそうむやみにほしいわけではない。だから、供給側が供給を増やして経営を維持しよう、楽にしようという動きを抑えられれば、よい。また医療の場合は高い薬を使うとか、たくさん注射をするといった増やし方ができるが、介護の場合はそうではない。
  そして審査にも自己負担にもよくないことがある。どちらも、サービスを増やそうという意図に発するものではない。「無駄」を省くことが基本にあり、そこから何が必要で何が不要かという判断がなされることになる。世に行われている様々のことには不要なものが多々ある。私もそうは思う。ただ、それが審査され判断され、それに基づいた支給がなされる。抗弁することは認められるとしても、結局は決める側が決めることで、それに従うということになる。
  身体障害の場合は――比べれば、だが――まだよいかもしれない。何ができないかが比較的はっきりするから、それを補えばよいということになる。しかし、精神障害の場合など、外側から見てもよくわからない。これまでの制度はおおむね身体障害の人に限ったものだった。けれども知的障害の人、精神障害の人にも介助は必要である。このことは認められたとしよう。そして人数もたくさんになる。その人たちの生活の何を手伝うということになるのか。その基準が決められるという。しかしこれにはとても難しくそして危険なところがある。その無謀さ、危険さに気がついているだろうか。そんなことは自分でできるはずだと言われ、そうでないことを言いたいが、うまく言えず、言えても聞いてはくれず、聞いてはくれても結局向う側の決めたとおりになる。そんなことが、今も起こっているのだが、もっと、そして制度そのものに組み込まれたこととして起こる。そんなことが、その人たちを暗くさせ、生き難くさせていく。多くの人々は、無駄ではないかと問われればたしかに無駄なことを、しかしいちいちそれを咎めだてられたりすることなく行っている。しかしこの制度では、無駄を出来るだけ省こうとする方向で、問われ、咎められる。
  そうしたことごとを、法案を作る側の人たちもまともに考えていないし、案に賛成しそうな(精神そして知的)障害者の(親などの)関係者の団体も受け止めているように思えない。このような気にされなさ、鈍感さ、気にしないでおこうという割り切りが、私にはとても気になる。
  もう一つの自己負担については簡単にしよう。そして繰り返しになる。まず、ほぼ同じ収入があるなら、同じ額の負担はほぼ同じ意味をもち、それなりにはわかるとして、現実はそうではない。負担の意味合いが収入によって異なってくる。ある人たちにとっては、ほとんど(過剰な利用を抑えるという)意味をもたないが、他の人にとってはそうではなく、必要な部分も抑えざるをえないことになってしまう。次に、それではいけないということになって、負担が収入に対応するよう調整したとしても、やはり、負担する人は、負担する分だけ(同じ収入の)他の人たちなら使うことができる別のことにお金を使うことができない。このことに、基本的に、正当性はない。
  そして次の問題は、こうした基本的なまた現実的な問題を生じさせるしまうような手立てを使ってでも、利用を抑制する必要があるのかである。実際に人が働かず、お金だけが払われてしまうなら、これはたしかに無駄であるかもしれない。しかしそんなことを利用者側は望んでいない。利用者側はやはり自分に役に立つことをしてほしい。それで、介助する人にはきちんと働いてもらう。そしてその人が対価を得られるなら、働いた額で暮らせることにはなる。そして働ける人は余っている。だから失業者もいる。その人たちが無意味ではない仕事をする。本来は所得保障として分配されてもよかったお金が、仕事への対価として払われ、その人は暮らしていける。それはわるいことではない。
  金がないという話も、結局は、人がいないか、ものがないか、両方かであって、とくにこの場合は必要なのは人なのだから、結局は、人の問題に帰着する。人は余っているという認識は、むろん誰もが共有している認識ではない。したがって、ほんとうはこの辺りから、誤解――と私は考えるもの――を解いていかなければならない。それはたしかに悠長に過ぎるのであるのだが、仕方がない。言うべきことは言うしかない。
  以上を順序を変えて繰り返すと、第一に、サービスの利用(人の働き)を抑制すべき強い必要はない。第二に、この制度におけるサービスについて大きな不要な膨張は起こりにくい。第三に、膨張を抑制するとする方法としての「自己負担」にしても「審査」にしても大きな難点がある。だから、やめた方がよい。では何もしなくてよいか。何かはあった方がよいかもしれないという思いは私にもある。例えば不安が傍に人が長くいることを求めさせるかもしれない。その不安をうまく減らせるなら、人にいてほしい時間は少なくなるだろう。身体障害の人であれば、人が傍につかなくとも外出できるような環境であったらよい。人が傍にいるのはわずらわしいことでもある。いなくてもすめばその方がよいということはおおいにある。そうしたことを様々考えて実現していくことはできる。その方がよい。そのような当然の道を行かず、すぐに考えつくような、しかし乱暴な方法が採用されようとしている。

■明るくなれない、としても

  この時代は、「小さな不正義」に敏感になってしまっている時代である。ずっとそうだったのか、このごろとくにそうなってしまっているのか。それは知らない。ただ、こまごまとせこくなってしまっているのが我ながら哀れであり、本当には困らなくてよいところで困ってしまっているのが悲しいところである。しかしただこれを嘆いても仕方がない。あまり暗くてもよくないから、気をとりなおして言うことになる。そして「きちんとした制度」を求めるもの言いには、いくらかはもっともなところがある。こちらも、そう歯切れのよいことは言えない。よいと思えることにも副作用のようなものがたいがいあるから、総合的に考えた方がよいことを言う。非常識と思えるような主張が、いくつかの要素を考え合せるなら、意外とそうでないことを言おうとする。そんなことを、私は、他にすることがないから、していく。
  そして一つ、まだ、後退はしていない。このたびのことは、獲得してきたものがあったから起こった。起こっていることは気の滅入ることである。だが、それを起こしたもとのものについては誇ってよい。そのことは忘れない方がよい。


UP:20050509 
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