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限界まで楽しむ

立岩 真也 2005/12/26
『クォータリー あっと』02:050-059
http://www.ohtabooks.com/view/bookinfo.cgi?isbn=4872339991

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 *この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました(pp.108-125)。買っていただけたらうれしいです。

『希望について』表紙

1 自前で行なうことの限界

 この特集は、人や技術を含む生産財について不利な条件で、しかし商売をして、あるいはその商売を支持して、働く人たちの生活を可能にしよう、そのことを含めなにか社会的に意義・意味のある活動をしようという動きについての特集なのだろうか。そうだとしよう。そこで、まずその困難について述べる。
 例えばどうにも働きようのない人はいる。そのことを認めてから、議論を始めようというのが私の立ち位置でもあった。ただ、もちろん、そんな人たちばかりではない。むしろ多くの人は何かができるし、何かをしたい。その場合の困難について。それは大きく境界に関わる困難である。社会との関係がありながら、しかしそこで起こっていることはよくないから、それと別のものを自分たちで作ろうということに関わる困難である。
 人がいて人以外の生産財があって、それで製品ができる。生産はこのような過程である。与えられている持ち分によって、またそこに起こる移動、比較によって、そしてそれらの制約によって、困難が引き起こされる。
 普通の職場は雇ってくれない。そこで、自分たちで場所を作って、そこで働く。そんな場所はいま無数に、とはおおげさだが、数多くある。しかし、それでは多く稼ぐことはできない。多くはそれで仕方がないとする。しかしそれは悔しい。そこで多く働ける人も、少なく働ける人も、あるいはさらにそこに働かない人も入って、働いてそして人数分で割ろうとする。職場の中での平等な分配を貫こうとするそんな試みは、あるいは少なくともそれを志向する試みは、多くはないが、なくはなかった。
 こうした試みは、多くある程度うまくいく。少なくとも、今どきの「業績主義」の導入を積極的に語る人たちが語るよりは、また積極的にではないが仕方がないのかもと思う人が思うよりは、うまくいく。しかし、できない度合いがはなはだしい人がたくさん入ってくると厳しくはなる。まず最初からその売上げを人数で割った平均の値は低い。そしてできなくとも他よりより多くをくれるのであれば、そこにできない人たちが入ってくる。その結果、全体の平均値は下がっていく。それでもあえてそういうところで働こうという人はいる。その連帯感でけっこう盛り上がることもあるかもしれない。しかし、やめたいわけではないが、やがて所帯をもったりして、生活費に足りないとなると、他ではもっとよい条件で雇われるだろう人たちは少なくなっていく。こうしてまた平均値は下がっていく。あとはその繰り返しになる。こうして、だんだん辛くなっていく。
 これは、皆をあてにしてもこの社会ではそれは実現しないから、どうにもならないから、自分たちでやっていこうと思うと、起こることである。そしてそれは小さな場だけに起こることではない。ある国が、困った人、例えば難民を、他は門戸を閉ざす中で、あるいは厳しく制限する中で、受け入れようとする。するとそういう人たちが集まる。すると国内に仕事がなくなる人がいるかもしれない。また、入ってくる人たちがすぐには働けないとなれば、そしてその人たちが暮らす費用を社会が負担するなら、社会はそれだけを払うことになる。他方、やはり移動が自由であれば、その中にいることで持ち出しの多い人は、より持ち出し・負担の少ないところ、より税金の安いところに逃げていく。むろんこれらは多くの場合、わずかな損失しか与えず、人の移入を制限することや税の累進性が低いことのたんなる言い訳であることが多く、そのことには注意深くなければならない。しかし、きちんと人を受け入れ、税を取ろうとすれば、起こりうることではある。こうして街の小さな作業所で起こることと国境を介して国家と国家の間に起こることとは共通している。これは、近くで起こっていることでもあり、国境の間に起こっていることでもある。
 むろん、働けない人も加え、平等に配分する企業とは、いささか極端ではある。多くはそれほど極端な平等主義はとらない。そして、そこで働く人はそこそこ、それほど他の人たちと変わらず働く人たちである。あるいは同じ働きができる人たちがいるのだが、そこにある生産資材は他の半分の生産性のものであったとする。そこで、半分のものを作ることができる。そして、他の半分でも暮らしていけてそれでよい、としよう。しかし、その企業、またその企業に働く人は、半分しか受け取れないがそれでも半分を受けとることができる、とは必ずしもならない。他と競合するから、その製品はまったく売れないということもある。常に、ではない。価格を安くすることができる場合もある。そしてやはり楽観的なエコノミストたちが言うように、そんなところでは別のものを作ればよいのだという忠告もときには有効なことがある。条件による。しかし、その条件によりはするのだが、まったくやっていけないことが起こる。
 雇い主が労働者を働かせて、少なくしか支払わず、多くをもっていってしまうという貧困もある。しかしそれだけではない。つまり仕事がない。人はいる。たくさんいる。それでだめなこともある。すると人以外のものが足りないということである。生産財がない。あっても、述べたように、その性能と受け取りとは比例するとは限らない。売れるものを作ることができないことがある。より生産性の高い生産財によって生産された製品に完全に駆逐されてしまうことがある。それでも、売れないとしても、自分たちが作って消費するだけならなんとかなりはしないか。しかし例えば土地がなければ自分の食べるものだけでも作ることはできない。また何もかも自前では無理なら、買うことになるが、価格差によって、買うことができない。
 おおむねこんなことが起こっている。つまり、内部でなんとかやっていこうとするが、やっていけないことがある。とくに外部との関係において、やっていけなくなることがある。

2 うまくない解:閉鎖

 そんなことが起こる。どうしたらよいか。一つは境界を閉ざしてしまうことである。グローバリゼーションに対して地域主義が言われるのだが、そうした言葉で言われることの一部はそんなことだった。安いものが入ってきて、地域の産業を壊すから流入を阻止する。またせっかくその地で育てた人材が流出しないようにする。また富裕な人が出ていかないようにする、等。
 それで仕方がない場合、それが正しいと言える場合もある。とくに生産者たちが予想しない急激で大量の製品の流入があり、対処の方法がなく生活も保つことができない場合、それを止めることを要求することには十分な正当性がある。そしてそれに一定の効果はある。
 ただ、移動の自由は、とりわけ人の移動の自由は認めるべきだという考えがある。おおむね――というのは、例えば、費用をかけて育てた人材の流出を引き止めるのにはもっともなところもあると思うからだ――それは認めてよいだろう。あらゆる自由を無前提に認めないとしても、とくに、人々の生存の権利を認めるなら、とくに生活に困って職を求めてくる人が入ってこないようにすることは、また労賃の安いところからの製品の流入を防ぐことは、認められないとなるだろう。
 そして実際、流入と流出とを防ぎきるのは難しい。まず企業は流出を禁ずることができない。それを行なえるのは強制力を有する国家であり、実際、行なっている。しかし難しくはある。さらにそこに様々な摩擦が起こる。非合法であっても入ってこようとする人はいて、その人の多くは困難に直面する。それはまったく不当なことだ。また、多く、その地の内部だけで必要なものすべてはまかなえない。自然の条件の他、多くは既に剥奪されてきた歴史があり、そううまくはいかない。必要なものは受け入れなければならない。するとその相手の利害を完全には無視できず、特定の財に限って出入りを制限することは難しくなる。必要なもの・人だけを入れ、それ以外のものを排除するのは、それが正当があるという問いにさらされるとともに、現実に困難である。

3 基本的な解:生産財と労働を含む財の分配

 とすると、基本的には、どんなに厄介であっても、全域的な対応が必要である。そうすれば、物や人の自由を認めてもそう困ったことにはならない。暮らしに困らなければ、自分が生まれ育った土地から離れたくない人は移動しなくてすむだろう。具体的には、三つある。一つは、生活のために必要な財、を購入するための金の分配である。一つは、生産財の分配、とくに技術・知識の独占を緩めることである。一つは、労働の分割である。
 一つめ。基本的には、働ける人は働く、そして各々の必要に応じてとる。そのことばかり私は言ってきたのだが、いつまでも同じことを言うつもりだ。市場は市場としてそのままにしておき、そこで稼いだところからもってきて足りないところに配るというのが、その一つのやり方である。
 それは所詮は先進国の話だろうと言われてきた。事実はそのとおりである。そしてそれを一国的に拡張しようとしても、うまくいかないことは先に述べた通りである。そして、閉じることは基本的に正しくない、よくないことである。だから、ますます非現実的なことではあるが、しかし基本的には、分配は国境を越えたものであるべきだし、また、そうでないとうまく機能しない。それをいっきにできないとすれば、さしあたり、命に直接関わりそうなところからでもよい。HIV・エイズに関わる活動に後でふれるが、例えはその活動・議論からは、医療保険――保険制度でなくてもよいから、公的医療制度――を世界大に拡張したらよいのだという案も示される。少なくとも、言うだけは言ってみてよい。基本的にはこれでよいはずだというところから、現実の様々な、すべてが中途半端な案を評価し、いずれかよりましなものであるのかを言うことはできる。
 これが十分にうまくいくなら、それでひとまず問題はない。しかしそうはいかない。だから、またより積極的な理由から、あと二つの分配が支持される。以下その理由を四つ――まだあるかもしれない――あげる。
 まず第一に、かたちだけでも「再」分配という機構を採用してしまうと、人は、勘違いしてしまって、市場においてとってきた自分の稼ぎは本来自分のものであり、徴税とは自分のものを取られることだと思ってしまうかもしれない。一度受け取ってしまうと、それを当然のことだと思ってしまい、その一部を拠出することを当然だとは考えない傾向があってしまうのである。
 このことにも関係して、第二に、分配は不安定性から抜けることが難しい。納税者その他の意向が変わることによって、達成されている水準が変更され、切り下げられてしまうかもしれない。
 第三に、勘違いがあるにせよないにせよ、社会的分配分だけを受け取る人の受け取りは他の人より少なくなる。働く人はその分苦労もしているのだから、働かない人よりいくらかでも多くとってよいと考えるとしよう。また、働ければより多く受け取れるということがないなら、人はさぼって働かないかもしれないという懸念にもいくらかもっともなところがあるとしよう。これらによって、働かない人、働けない人は、働く人よりつねにいくらかは少なくしか受け取れない。それでもかまわないと言うこともできよう。しかし、少なくとも働けるし働きたい人が、働いてより多くを受け取りたいと思っても、それもまた当然のことではある。
 第四に、作ること働くことは価値のあることだと多くの人は思っている。手を動かしたり人といっしょに働くこと自体が楽しいということはある。また人のためになることをしているという喜びもある。組織の活動に参与し動かすおもしろさもあるだろう。また、そんな厄介ごとは人にまかせて、自分は自分の持ち分をという人もいてよいだろう。
 これらの理由によって、消費点における分配だけでは十分ではない。二つ目、生産財の分配、独占の排除が必要になる。それは、直接には第一から第三点から要請されるが、市場の競争の下でもやっていけるだけの性能をもつ生産財がなければ、働いて稼ぐこともできないのだから、第四点が実現するための条件でもある。
 生産財をある人たちがもっていること、しかし他の人たちがもっていないことは、まず不当なことである。とくに技術。いくらか時間を先んじることによって、さらに開発者の権利として保護されることによって、大きな利益をあげる企業があり人がいる。とくに大量に生産・複製することが容易であるものについてそのことが起こりやすい。競争が起こるから高いものは安くなるとも言われるのだが、それは部分的にしか起こらない。巨大な格差を緩やかにするためには、一つには、生産財に対する独占的な権利を緩める必要があるのだが、その権利の付与、同時に制限が政治によってなされている以上は、そこを変えなければならない。
 次に労働。やはり四つの理由から、働けるし働きたい人たちについては、仕事に就けるようにした方がよい。
 ならばどうするか。産業創生などと言ってしまう人がいるが、それはやめた方がよい。むろんそれは自由でありときには望ましいことではあるが、少なくとも、多くのものが総量としてほぼ足りている社会で、とりわけ経済の回復・維持・成長、雇用の確保…自体を目的として、政治主導で、そんなことをしても、無理があり、無理にそれを行なえば、無駄な仕事を増やすことにしかならない。そしてその仕事は働く人にとって苦痛な仕事である。辛い仕事自体はなくなることはないが、わざわざ増やした仕事には意義を感じにくいし、競争は厳しくなるから無駄な徒労も増える。買ってくれるところがないかと方々まわっても客がいない仕事はやはり苦労なことだ。そんな仕事が増えている。そういう仕事を増やさないことである。そして、仕事がないのに仕事に就かせるための訓練を行なうといったことも基本的には無駄であり、訓練だけさせられる人にとっては有害である。
 だから、すべきことは仕事を割ることだ。一人分の仕事を減らし――その分、収入も減ることを認めてもらう――働けて働きたい人がみな働けるようにする。そして、どうせ分配するのであれば、働ける人には働いてもらった方が、既に働いている人にとっても本来は楽でよいことであるはずなのだ。(ここまで述べてきたことについて、やはり概略的にではあるがそれでもいくらかは詳しく、拙著『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、二〇〇四)に記した。)

4 もう一つ:商売を/商売もする

 もちろん、以上が実現しないから困っている。それで、また最初に戻って、なにか自分(たち)でやろうとする。商売をしようとする。一つは、売れるものを作ること、売れるようにすることである。それがうまくいけば、それはよい。このことについて、これ以上ここでは言うことがない。
 一つは、客の側の決定・行動である。これはいつも利用できるわけではないが、ときには使える。同じものでも、一方を贔屓して高く買ってくれればよい。例えば二倍の手間がかかる人が作る同じものを、二倍の値段で買ってくれればうまくいく。人がわざわざ高いものを買うことがないわけではない。少なくともそれは禁じられてはいない。
 それなら寄付すればよいと言われる。たしかに、他がすべて同じで、あとは価格だけが違い、その差が寄付にあたるといった場合には、商品を買うのと別に寄付すればよい。しかしそんな場合ばかりではない。例えば社会貢献を銘打った製品の方が他よりも売れるなら、寄付額をただ上乗せするよりは安く販売でき、たんに寄付を募るよりも多くの額を寄付できるかもしれないといったことがある。この辺りについてもここでは略す。
 もう一つは、「本業」に対する影響力の行使である。まず、その生産者・企業が何を原料に使い、何を作り、何を排出しているのかである。そのことに注目し、よいと思うものを多くし、不要あるいは有害と思うものを少なくすることである。このことについては既に様々な試みもあり、よく知られている。
 もう一つ、売上げの一部は、経営者や労働者や資本家にまわる。まず、まともな人の雇い方をしているところを支持し、そうでないところで作っているものを買わないことだ。前者から買う方が割高になる可能性はあって、そこがやっかいではある。しかし、やっかいであることは不可能であることを意味しない。他方、多くとっている人がいるなら、そこも変わるように動くことができる。一部にたくさん儲けることが可能な商売があり、格差は大きくなっている。商売をするのはよいが、あまり儲けすぎてはならない。そう人々が思うのは間違っていない。利益が少数の人に偏って多く配分されないような方向に事態が動くことを支持し、そのためにできることをする。
 そしてそのような効果のあることを自分で、あるいは自分たちでやってもよい。(ある程度の数の)客がこちらに関心を向けていることをあてにできるのであれば、最初に述べた限界をいくらか越えて行くことはできる。消費者として行なうことと、事業する側として行なうこと、両方があるし、その境界ははっきりとしたものではない。そんな一つ、と言えないこともないことを、私もしばらくしてみている。
 知人がその活動に関わっているといったこともあって、ここ数年「アフリカ日本協議会(AJF)」というNGOの活動をすこし支援しようとしてきた。というか、エイズ、とくにアフリカ、とくにサハラ以南のアフリカにおけるエイズの状態はやはりとんでもないことだと言うしかない。年に三〇〇万人といった数の人が亡くなっている。すべきことはすべきだと考えてきた。知られていることだとは思うが、HIVの感染者になること、さらにエイズを発症することは、かつてのようにそのまま死んでしまうことを意味しない。いくつかの薬をうまく使っていけば、なおりはしないが、十分に生きていける。しかしその薬が高くて買えない。その薬を作り流通させるための人がいないのでもないし、その原材料が枯渇しているのでもない。生産財としての技術、技術に対する権利を独占している企業の提供する薬が高すぎることが大きく関わっている。このいかにも困難な状況を、誰が、そしてどのように、変えてきたのか、さらに変えようとしているのかを知ることはとても大切なことであり、他の活動にも示唆を与えるものだと思う。AJFが主体となり、私が属する大学院の院生・三浦藍が協力して、私の研究室で印刷・製本した冊子を読んでいただけると、その経緯が詳しくわかる。(長い題の冊子で、『貧しい国々でのエイズ治療実現へのあゆみ――アフリカ諸国でのPLWHAの当事者運動、エイズ治療薬の特許権をめぐる国際的な論争』。第1部から第3部の合本版、A4・二〇〇頁。普通の単行本なら四〇〇頁分ほどの情報量がある。一五〇〇円。売上げの全額が寄付される。AJF代表の林達雄の著書『エイズとの闘い――世界を変えた人々の声』(二〇〇五年、岩波ブックレット、五〇四円)も販売している。これは印税分が寄付される。私のホームページ――http://www.arsvi.com/(私の名で検索すると出てくるはず)から注文できる。)
 私は、これは、いやな人も無関心な人も協力すべきこと、協力させられるべきことだと考える。つまり政治の領域において対処されるべきことだと考えている。それ以前に、特許権の規定は政治によってなされているのであり、国際政治の力学に左右されているのでもある。その権利の付与の仕方を変更するのは政治の行ないである。しかし、繰り返せば、もちろんこのことは民間の行ないの意義を否定しない。政府や人々を動かすための活動が必要であり、そのための金が必要なのだ。
 「アマゾン」「ビーケーワン」といったオンライン書店(CDその他も売っている)にはアフィリエイト・プログラムなどとと呼ばれたりするサービスがある。登録すると、自らの運営するホームページを経由して本やCDほか様々を買ってもらった場合、買い上げ額の一定割合、三%から売上げの点数等によるが七%ぐらいが、ホームページの運営者に入る。(アマゾンはそれを寄付すると記すことを禁じている。やっかいごとに巻き込まれるのを嫌っているのか。わからないではないのだが、とにかくそうなっている。だから私は、このプログラムとは無関係に同じ額を寄付します、と書いて、そうしている。)この企画に賛同してくれる人が多ければ、私のホームページを経由しての注文が多ければ、額が増える。
 それ以外に、出版社から著者割引で買った自分の本を同じ値段で横流ししたり、非営利組織が出している本・冊子の販売委託を受けた本を販売しているのだが、それらについては一冊売れたら一〇〇円を出すようにしている。それらを合わせて、ここ一年では約三〇万円ぐらいになった。その前の年よりは増えたが、少ないような気もする。そのぐらいのものであり、それぐらいのものでしかない。しかし、もっと知られて利用されるなら、もっと多くが集まり、使ってもらうことができる。そのうちそうなるかもしれないと思っている。
 これは私企業の活動に極小に寄生しているというか、極小に利用しているということであるし、ことでしかない。ただ、そのようなことを自分たちでできないのだろうかと考えることもないではない。例えば本は今のところおおむね定価販売だから、安売り競争に巻き込まれることはない。同じ値段で売った上で、利益の部分が、他の会社であればその会社、その会社の誰かに入るが、ここの会社は別のところに使うことがはっきりする。いったいあのような規模の書店とかネットを介した商売にどのくらいの資金が必要なのか、本の点数はともかく多いし、本はかさばるものだから、置く場所もいるし在庫管理も大変だ。ずいぶんたくさんいるのだろうとは思うが、私は知らない。けれど、他に、場所をとらない情報を扱って、ネットで配信したりして、ずいぶん儲けている企業やその企業を所有・経営している人がいる。そんな商売の方がそもそもの資本は少なくてすむのかもしれない。規模は大きくてもよいし小さくてもよい。それは好みでよいし、うまくいけばよい。最初から利益を得ないために商売をする。儲けないこと、株主に還元しないことを明らかにし、その分は別のことに使うことは不可能だろうか。ここからものを買ってもああいう人(たち)を儲けさせることでしかないのだから、あそこのものは買いたくないと思っている人はけっこういるのではないか。可能性はなくはないと私は思う。

5 「基本」と「もう一つ」:各々の得失

 だからこの方法も使える。必要なことは、政治を介してなされることの性質がどんなもので、そうでなく行なうことのできることがどんなことなのかを確認しておくことである。
 第一に、基本的な違いは、参加資格である。消費者の運動が中産階級の運動であり、でしかないというのは、半分は揶揄であるとしても、半分は当たっている。消費行動によって事態に変化を与えるというのだが、それが可能なのは消費可能な人間に限られる。他方、政治においては、様々な制限がありながら、投票権をもつ人は一人ずつ同じ権利が与えられる。この違いがある。ただこのことは別様に考えることもできなくはない。少なくとも分配において、拠出すべきであるのは相対的に多くを持つ人たちである。だから、たしかに自発的な行為において供出するのは供出できる人たちだけであるのだが、財の分配という点では、行なわれること行なわれるべきことは同じであるとは言える。そして前者が政治が区画する範囲内でなされるのに対して、後者はそれに限られない。国境を越えることができる。
 第二の違いは、実現のための手続き、それに関連して実現可能性である。政治を変えるといっても、少なくともその形式的な意味での民主制を肯定する限りでは、多数派をとらなければならない。それは困難である。困難であるから困って、あれこれ行なおうとしているのでもある。それに対して、他方の場合には、個々が行なうことがそのまま行なうことである。始めることの可能性においては、後者の方が容易である。
 第三の違いは、政治的決定は成員全員に義務を課すことができる。それ以外では、拒む人まで参加させることはできない。そこでは、権利が、それを肯定しない人に対しても認めさせられる権利であることはできない。義務が、それを果たしたくない人も果たせねばならない義務であることはできない。「自由」を持ってきて、後者の方がよいと言う人がいるのだが、それは間違っている。むしろ自由が大切であるのなら、個々の他人の意向に左右されない権利と、同時に嫌でも従う義務とが設定されるべきである。むしろ拡大されるべきである。このことを(このことも)言おうとして、私はものを書いてきた。
 いろいろ言っても世の中は動きはしないから、あるいは主義として他に頼らず、自前でやっていくという主張は、それに自らは関わらず、負担をせずにすむ側にとっても好都合である。その人たちにとって、先方が独自に勝手に慎ましくやっていくと言い、実際にやってくれるというのは、わるい話ではない。褒めてあげてもよいことだ。だから、このことばかり言うのは損であり、また正しくもない。このことはわかっていた方がよい。
 第四に、政治の決定は、全員に義務を負わせることができるからより多くの資源を動かすことができるかもしれない。他方はそうはならない。ただ、その効果は必ずしも自分一人分ということではない。自分の力以上のものを生み出すこともできる。述べたように、過半をとらなければ政治は動かないのだが、市場の場合には、それより少ない人の消費行動によって、変えることができる。例えば数パーセントの人たちがその企業のものは買わないとはっきりと意志を表示するなら、その企業の商売は立ち行かなくなり、方針を変えざるをえないということはある。どちらの方が効果が大きいか。可能性としては前者となろうが、現実は現実的に決まるから、いちがいには言えない。
 こうして両方が使えるのだが、その得失を考えた上で、組み合わせ、使い分けていったらよいし、そうする必要がある。例えば基本的に暮らしていける、その上で(当面)さほど収入を得られない仕事に就く、商売をやっていくこともできる。北海道にある「べてるの家」は近年たいへん有名になってしまったのだが、そこでは精神障害の人たちが昆布を売ったりしている。よい商売をしている。それは、生活保護なら生活保護を、年金なら年金をとれているということがあって成立している。無理して忙しく働かなければならなかったら、状態が悪くなってしまって、仕事をするどころではなくなってしまう。例えばそんな組み合わせがある。
 かつてあった話に、危機が進行していくことによって、暮らしに困る人が多くなり、それが多数派になること、あるいは、数として多数でなくとも十分な強度をもった勢力となること、そのことによって社会の全体が変わって、がらりとよくなるという筋のものがある。このようにはっきりとした筋の話にしてしまうと、今さらそんなことは誰も信じないと言われるのだが、自分たちがあるいは誰かたちがやっていることが、なにか「体制の補完物」になっているという感覚は残っている。それがまったくの間違いだとは思わないが、かといって何をしても無駄ということでもないだろうと思う。そういう部分をはっきりさせた方がよいと思うのだ。
 言われてきたように、危機待望論はあまりうまくいかない。多数派をとり維持したい側は、つねに多数派がそこそこには満足できるぐらいのことは行なおうとするからであり、行なわざるをえないからであり、そしてそれは可能なことで、実際に行なわれるからだ。たしかに一部で困難は深くはなる。取り残される問題は残る。しかし一定の広さに止まる。だから、事態が自然に悪化するままにしておいて、その後で、とはならないということである。ただこのことは、多数派をとって維持するぐらいのこと、延命のための行ないはなされるが、それ以上のことはしないということでもある。だから、まずその部分でなされないことをすればよい。その結果、十分なところに達する――とはあまり考えられないが――ことがある、かもしれない。ならばそれでよい、政府がでる幕はなかった、という答もありうる。他方、その状態は肯定しつつ、自発的な行いとしてなされてきたことを全社会的な義務に転換することを主張することは依然として可能であり、そう主張すべき場合もあるはずだ。
 閉塞感はたしかにあり、何を言ってもしても無駄、と思うのももっともなことではある。けれど、基本的にどのような道筋を行くのがよいのか、どんな道があって、どこがどのように行き止まりになっていって、どこに抜け道があるのか、私たちはそんなにわかりつくしていないように、私は思う。例えば、ここで少しだけふれてみた主題、人や物の移動をどう考えるのかについてである。そして、もう一つ繰り返しになるが、容易に行き着きそうにないところを目的地にすることは無意味なことではない。あるいは、目的地を目指す行路という比喩が間違っている。こうあればよいという状態にはなかなかならないのだが、しかしそこから、今あるものの何を受け入れ、何を受け入れないかを判断し選択することはできる。商売しながら考えることもできるし、商売するために考えることもできる。


UP:20051107 REV:1110,15(誤字訂正), 20150102
労働  ◇立岩 真也 
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