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決められないことを決めることについて*

立岩 真也 2005/07
『医療哲学・医学倫理』23(日本医学哲学・倫理学会)


 *第23回日本医学哲学・倫理学会大会のシンポジウムに呼ばれ、報告した。
 2004/10/24「決められないことを決めることについて」於:昭和大学 cf.抄録集のために送った原稿
 報告した者は学会誌に原稿を書かねばならぬという掟があるということで、よく考えず書いたのが以下の文章


 これはどうしても気の重い主題で、どんな位置にいてものを言うのかと思う。もう一つ、学会の大会が新たな知見、考察を披瀝する場所であるなら、私は、「線引き問題という問題」(立岩[1997]第5章)に書いただけのところにいまだ留まっていて、そう新しいことを書けない(1)。だから積極性にも欠け、適格性にも欠けているのだが、以下。

■1 生命倫理学的擁護論とそれへの懐疑

 とくに「米国流」の、「リベラル」な生命倫理学で言われることは、おおむね人工妊娠中絶(以下、中絶)を擁護する議論になっている。トムソン、トゥーリィ、R・ドゥオーキン等々が様々なことを述べ、中絶を擁護してきた。本誌でそれらの人たちの主張を要約して紹介する必要はないだろう。簡単にすると、言われてきたことは大きくは二つである。一つは、胎児は女性の持ち物であると言う。一つは、胎児は人ではないと言う。
 二つの言い方は、一つ一つ単独で用いられることもあるが、関連もしている。親の生産物である(から親に決定権がある)と言えたとしても、その存在が人――存在・生存がそれとして尊重されるべきヒト――になったしまったなら、それはそれとして尊重すべきであって、「親」の所有物ではなくなる。そして人である/ないの線は、自己意識等の在/不在に対応させられる。胎児は「人」「パーソン」としての資格を満たしていない、まだそこに達していないと言うのである。
 こうした論は基本的に中絶を擁護するものだった。そして女性の運動も中絶の自由を主張してきた。けれども、自分たちはそんなことを思っているのか、そのようなことを言いたかったのか。違うのではないか。そのような思いもあって、別の論も立てられてきた。その内容も紹介する要はここではないだろう。それらはそれぞれ説得力のあるものである。
 例えば、バーバラ・ドゥーデン(『女の皮膚の下』)、キャサリン・マッキノン、キャロル・ギリガン(『もう一つの声』)などが歴史的な資料や聞き取り調査から、当の女性たちのことについて別のことを述べた。あるいは、日本であれば、田中美津、そして森崎和江といった人たちが書いたことが再び読まれる。私もそれらの人たちや「リブ新宿センター」といった集まりにあった言葉から考えてきたところがある。森岡正博による紹介・検討もある(森岡[2001])。また、今回の主題そのものに焦点を当て、欧米における相異なった把握・主張を検討・批判し、田中や森崎の言説に注目した山根純佳の本(山根[2004])がある。また、奥田純一郎[2004]ではR・ドゥオーキンらの所説が批判される。
 そうした指摘は、より実際に近いように思える。ただ、このことを言い、現実は学者たちが言うようではないとした場合に、では代わりに、ことの是非についてどのように言うか。
 そうすっきりと割り切れているわけではないということ、その意味で、なんの痛みも感じずに中絶がなされているといった非難に対し、そんなことはないと言うことにはなる。その意味はたしかにある。ただその上で、それ以外に何が言えるのか。となるとやはり難しくはある。その人たちは、胎児を「親」がどうにでもしてよいものとは思っていない。そして中絶の行いが自分の側の都合に発することを正直に言う。ならば、やはり胎児を生きさせることの方が大切ではないか、とも言い得るように思えるからである。どのように言うか。

■2 受精(以後)を特権化できない

 生命尊重を主張し、人工妊娠中絶に反対する論があるが、その論には難点がある。「生命尊重派」も線を引いている――このことを指摘したのは加藤秀一である(加藤[1996])。どこにも線を引かずにすべてを尊重するという立場はない。
 性殖、誕生の過程は連続的なものだ。例えば精子にしても卵子にしても、一つの生体ではある。避妊もいけないと言う人たちもいるが、それにしても何億とある――そのままにすれば自然に消滅する――精子がすべて生かされなければならないといったことを冗談でも言う人はいない。つまり事実、「人」になる可能性のあるすべての生体を生きさせなければならないとは誰もが言っていないし、言えない。避妊も認めない場合でも、生むことにつながる行いを行わないこと、「禁欲」といった行いは認められる。性交は意図的になされる、あるいは妊娠を予期してなされるから、そこには生命の継続、出産の予期があり、ゆえに性交以降は異なると言えるか。これも言えない。意図がない場合、予期がない場合もある。また意図あるいは予期がある場合に(限っては)継続されねばならない理由も明確でない。
 となると状態そのものが受精の前後でやはり大きく違うのか。受精卵(以降)はやはり特別なのか。だがそれはなぜか。精子・卵子だけでは誕生に至らない、受精がなければ誕生に至らないことが重要なのか。しかし、しかじかのことが生じなければ誕生に至らない、そういう場面・段階は他にも多々ある。受精卵には遺伝的プログラムが備っているからか。しかし様々なところにプログラムはある。受精卵以降が(特別に尊重するに足る)生命であるという主張は、ある人々が思うほど強い主張でない。

■3 全面的に委ねることにもならない

 他方、分娩に至るどんな時期についても中絶を許容できるか。それはためらわれ、ある時期以降は許容できないとは言えるのではないか。とすると、どんな状態になった時にその生存を奪ってはならないと考えるのかという問題は残る。
 それを女性の身体外における生存可能性を基準にして言うか、それとも他の言い方になるのか。前者については、身体でない環境で生きられる技術が進むと境界が前に移動していくことが指摘される。そしてこの移動は技術によるものだから認められないということもできないだろう。ここでは、この基準と別に――本当に別であるのかは、じつは検討を要することなのだが――なぜ人の生存を奪うべきでないとされるかを考えてみる。
 その人に何かの世界があること、内的な感覚といったものも含めて、その人にこそ存在するものがあることはやはり大きな契機であるのではないか。
 そんなものが何もなくとも生命を尊重すべきだと考え、実際そのように対する人もいる。しかしこの場合には、生命維持の行いは、もっぱら私(たち)のその存在への思いによるということになる。これは関係を重視し、他者を尊重しているようではあるが、つまりは私の(その相手に対する)思いを通しているのだとも言える(立岩[1997:191-195])。
 だから、その存在に即するなら、そこにおける世界の感受とでもいえよう契機は、やはり大切な契機としてあるように思う――むろん、その在/不在の推量の原理的・現実的な困難という問題は残るのではあるが。(とすると、第1節のはじめにあげた従来の議論の問題は、当の存在に存在する――ことが推定される――ものを取り出してきたこと自体にあるのではなく、自己意識だとかパーソンだとかいった言葉で指示されるものが、非常に狭く限られたものであること、「高度」な能力・性格に限られていることにあるのだと言える。)

■4 委ねる、とはどのようなことか

 受精の時が特別に扱われねばならない強い理由はない。他方、どこかに許容できなくなりそうな時点はある。その間についてどう考えるのか。
 中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。自らの身体に対する権利という根拠ではどうか。もちろん起こっている事態はその女性の身体に起こっていることである。また女性の自らの身体に対する権利を認めるとしよう。だとしても、それは身体に関わることすべてについて権利を有することを意味することにはならない。有するとすれば、自らの身体を使えば人を助けられる場合に助けないこともまたその人の権利であるとされることになる。総じて、自らの自らについての権利という根拠をここで用いることはできない。
 立岩[1997]で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。子が登場するとは、産む者の身体において、何かが他者になっていく過程ではないか。「人であることはいつ始まるか」という倫理学の抽象的な議論に対して、フェミニズムから一貫して疑義が唱えられてきたことの意味がここにあると考える。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、酷なことでもあるが、あるいは、酷なことであるがゆえに、その人、女性に委ねるしかない。何かの近くにいる人はその何かに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。
 大略このようなことを述べた。どこかにこれ以後は許容しないという線を引くことは認めながら、それ以前の部分については、基準を設定することを放棄し、当の女性に委ねるかたちになっている。なんだかわからない状態から、ある時、どうもこれは自分ではないなにがしかが現われてきて、産もうと思わなかったが、ある時に産まないことを断念することもある。そのような過程があり、その過程にいる人、女性に委ねるとする。
 しかしなぜか。積極的に支持できることではないとしても、やはりそれは女性の決めることだという直観のようなものはある。同時に「是非」を巡る争いに対する不信がある。是非が政治抗争の焦点になっているのだが、いったいそれは何をしているのだろうと思える。そしてそうした感覚はひどく特殊なものでもないようだ。うまく言うことができないのだが、それをどう言うか。
 まず、その女性にとっては、将来の負担という契機が最も大きいということは言える。実際にはこのことを最も重く見なければならないのだろう。とは思いながらも、将来の負担の予想によってことを決めてよいのかという疑念は残る。むろん、実際には負担は除去されていないのだから、負担という契機を無視することはできないし、無視すべきではない。ただ、現実は容易に変わらないから、仮想のこととしてしか言えないのではあるが、この指摘に対する単純な反応は、過重な負担を除去あるいは軽減することであって、苦労する人だからその人に決めてもらおうということにはならないはずだ。
 次に、女性がためらい悩む存在であるということは、産む方に向かう契機をも有しているということではある。とすると、女性に委ねるとは、そのことを当てにしているということだろうか。そのようなところもあるように思う。しかしまず、中絶の数自体を減らすことが目的であるなら、別の方法の方がその目的をよく達成するかもしれない。中絶批判派から、女性たちは産む産まないことについて実際には「安易」である、という指摘がある。そんなこともあるかもしれない。その人はたいして気にしていない、かもしれない。そして先述したように、女性は最も大きな利害を有している人たち、産むことの最大の不利益がある人たちである。たしかにここに中絶することをやめて産んでしまうという契機はあるのだが、その可能性は、他の場合よりも大きくなるわけではない。
 また、その女性にとって、その子が生まれることが意味のあることであったり、そうでなかったりすることがあるから、女性に祝福されるような場合に生まれるように、女性に決めさせるのだというという筋の話もそのまま受け入れられない。受け入れるなら、ある人が誰かにとって意味がある時、その人がそのような係累を有する存在である時に、その人は生きていてよいということにもなる――第1節後半にあげた「関係論的」な論は、そのように解釈され、使われる可能性がある。だが、その人固有の、同時に普遍的な存在の価値ということを思うなら、それは認めがたい。
 女性が、より真面目に考えるとか、深く悩むとか言えるようにも思う。しかし、そう言えるのか。言えたとして、やはり深く生命尊重を信じ中絶を否定する人たちの思いと比べて、なぜ前者を優先するのかという問いは残る。「安易な中絶」を指弾する人の側の方がかえって安易ではないか、と言いたくなることはある。しかし、信仰が大切なものとしてあり、自らにとって大切な信仰が指示する(とされる)規範が侵犯されているのだから、それは大きな苦痛であるかもしれない。
 だからまだ、なぜ、という問いは残る。
 まず、これもまた一つの特定の価値判断であることを認めよう。(そこから離れ、「信教の自由」といった立場から言っていった方がよいのではないかと思われるかもしれない。しかしそうはならない。まず、人それぞれにというのもやはり特定の価値であるには違いない。次に、人それぞれにを認めたとして、だから人を殺すことが認められることにはならず、ここで中絶が殺人だと言う人がいるのだから、それに対して何かを言わねばならない。)
 その上で、この特定の立場は、その身体においてことが起こっている当の人たちの方を優先すべきだという立場である。むろんそれ自体を疑うことはできるし、異論を言い、批判することはできる。ただ、それほど特殊な立場ではないはずである。
 例えばある土地について、二人の者が争ったとしよう。あるいは子の帰属について争ったとしよう(そしてこの場合にはさしあたり子の側の事情は考えないとしよう)。一方が(例えば信ずる宗教がその地を特別の地として指定しているから)自らに属するべきであると強く信じていることがある。また、その対象に強い愛情をもっていると言い、きっと大切にする、大切に育てると言い、言うだけでなく、そのように信じていることは事実であるといった場合がある。けれども、その場所――はしばしばその人の暮らしに脅威であったりもするのだが――に実際に暮らしている人の方、産んだり産んだ後しばらく暮らしたことがある人の方を優先する。
 このようにその者、女性に委ねる。その近さは因果の近さではない。そして、またある特定者への愛情・愛着の有無とか、濃淡というものとも同じではない。そして、時間を経た土地や人とのつながりという場合と異なり、この産む/産まないが関わっている場合には、その女性は、存在に近いというより、生成の境界に近い。
 あらかじめ私の側に、例えば信仰として与えられ、そして深く根付いているものがある時、むろんそれは尊重された方がよいだろうし、その信に基づいて行動することは、多くの場合に妨げられないだろう。しかし、この場面では、それを優先することはしないということである。未定の、決めようのないことに直面してしまうその人の触感のようなものに委ねようということである。
 たしかにそのような態度は、身体性のようなものの美化、神秘化につながらないでもない。「自然主義的」で「本質主義的」な傾きがなくはなく、怪し気なところがないではない。また、先にも述べたように、心的な負担を女性に強いてしまうものである。それでも委ねようというのだ。
 まず先述した境界の引き難さという前提が認められた上で、人の世界が人を迎える時に、完全な歓待の不可能性あるいは困難を思い、同時に拒むことの困難を思う、そのような過程としてあることは、人を迎えることの実際、人が存在するというあり方の実際を偽らないことにおいて、肯定されてよいと、あるいは肯定されはしないとしても、認められてよいとされるということではないか。そのように感じられているのではないか。そして、本稿の最初にあげたリベラリズム――と括ってしまうのはたしかにずいぶん乱暴なことではある――による中絶の肯定に疑義を唱えながら、なお女性の決定を手放すことはなかった人たちの論を、このような方向に解することもまたできるのではないか。

■5 産むことと育てることの分離

 それにしても中絶は望ましいことではない。その上で、禁止より別の手段が実際には有効なのだということも言われてはきたし、その指摘は依然として有効である。最後に、その一部と捉えることのできること、すぐに考えつきそうなのに、あまり言われてないことを加える。
 生まれた後のことがあるから――だけではないにせよ――中絶が行われる。そしてそれは経済的な問題というだけでないこともある。だから一つに、産むことと育てることとの分離という途がある。
 「ベビーM」の事件では、産んだ人(でその後に引き渡す契約を結んだ人)が育てたいと思い、引き渡しを拒んだ。私はその思いは守られるべきだと考える。同時に、産んだ人が育てなくてよいというあり方があってよい。両者は並存できるし、また並存させるべきだと考える。
 レイプによって妊娠してしまった人がいる。それはいまわしい経験だ。だが、多くの人が思うのと異なり、そうした人々のすべてが中絶を望み、実行するわけではない。とくに宗教的な理由からというだけでなく、中絶せず妊娠を継続する人も、どれほどの割合であるかはわからないが、いるという。そしてその際、生まれた子が養子としてもらわれることが可能であることが、産むことに大きく作用するという(小宅[2005])。
 だから、中絶することより産むことの方が好ましいことだと思うなら、それがより容易になることである。むろんこのように言えば「無責任」であるとか、あるいは「子どもがかわいそう」であるとかいった非難がなされるにきまっている。しかし何が無責任なのか、無責任であってわるいのか。かわいそうとは、何がなぜかわいそうなのか。あるいは何がかわいそうにさせているのか。これらのことを先に考える必要がある。

■註

(1) この主題についてその後に書いたものでは立岩[2002]があるが、これも、基本的には立岩[1997]第5章・第9章に記した論点の一部を反復した文章である。他に、やはり同じ本に書いたことを引き継ぎ、「生殖医療」に関わる論点を概観し私の考えを述べた文章として立岩[2005]があるが、ここでは中絶それ自体の是非には言及していない。なお本稿は、2003年6月7日、東京大学21世紀COE「死生学の構築」シンポジウム「死生観と応用倫理」第1部「いのちの始まりと死生観」のために送った「現われることの倫理」(後に立岩[2003]として『死生学研究』に収録)の一部と重なっている。
 私自身はむしろ「死の決定」を巡る事々の方が気になっている。そのことにも関係し、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちについて立岩[2004]。

■文献

加藤 秀一 1996 「女性の自己決定権の擁護」,江原由美子編『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』,勁草書房
小宅 理沙 2005 「中絶・出産の社会的決定要因――レイプ被害者サポーターへのインタビュー調査から」,立命館大学大学院応用人間科学研究科修士論文
森岡 正博 2001 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』,勁草書房
奥田 純一郎 2004 「ヒト胚・生命倫理・リベラリズム――自己決定権は生命科学技術研究に何を・どこまで言えるか?」,『思想』965:195-211
立岩 真也 1997 『私的所有論』,勁草書房
――――― 2002 「確かに言えること と 確かには言えないこと」,齋藤有紀子編 『母体保護法とわたしたち――中絶・多胎減数・不妊手術をめぐる制度と社会』 ,明石書店,pp.241-251
――――― 2003 「現われることの倫理」,『死生学研究』2(東京大学21世紀COE「死生学の構築」シンポジウム「死生観と応用倫理」での報告)
――――― 2004 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
――――― 2005 「そこに起こること」,上杉富之編『現代生殖医療――社会科学からのアプローチ』,世界思想社
山根 純佳 2004 『産む産まないは女の権利か――フェミニズムとリベラリズム』,勁草書房


UP:20050509 REV:20130118
人工妊娠中絶  ◇立岩 真也
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