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書評:広井良典『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』

立岩 真也 2005/05/31 『福祉社会学研究』2(福祉社会学会



広井 良典 20030724 『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』,岩波書店,277p. ISBN:4-00-023636-9 2940 [amazon][kinokuniya][kinokuniya][bk1] ※ *

  私はこの本に書かれていることの多くにまったく異論がない。その主張の多くは広井の数多い著作の中で示されてきて、既によく知られているものでもある。しかしその当然の主張が、まだ受け入れられないのであれば、幾度でも繰り返して言えばよいのであり、言うべきでもある。そのたびに私は賛同しよう。じつは私はこのこと以外にあまり書くことはない。
  広井は、社会が「経済成長と労働生産性上昇の無限のサイクル」から脱却して「定常型社会」を目指すべきだとする。この定常型社会における「政治哲学」としては「環境主義/エコロジズムと結びついた社会民主主義」が求められる(245頁等)。そしてそのような社会編成を採用しているのはヨーロッパであり、むしろ米国はそれに逆行している。だからヨーロッパの方を取り入れるべきだとする。無限のサイクルはどう停止させるのか。生産性の向上が失業を生み、この問題を軽減するために経済の拡大策がなされてきた。日本の場合であれば公共事業がなされてきた。それをやめて、労働時間を削減し、ワークシェアリングを行なう。以上に異論はない。私もまた同様のことを書いてきた。
  さらに社会保障の具体像について。「「医療・福祉重点型」ともいうべき姿が妥当であり、市場の失敗の起こりやすい医療や福祉分野については公的な保障をしっかり維持するとともに、逆に年金については大幅なスリム化を行い、所得再分配機能を中心とする(厚めの)基礎年金主体のものに縮減すべきである」(252頁)ここもかなり説得的である。
  だからここで終えてしまってもよいのだ。ただ、自らを振り返るに、同じことを言うのにもっと入り組んだ話をしてしまっている。広井は科学史・科学哲学の専攻だが、本には豊富なデータがあってためになる。私は社会学をやっているはずなのに、私の本には具体的な事実がない。彼の文章は平易で、それは確実によいことだ。なぜ私はこのように書けないのだろうと思ってしまう。
  広井は事実としての社会の変化を言う。共同体が解体し、生活が個人単位になって、それを補うためには社会民主主義の構想する社会の方がよいという。他方、近代化が進むところまで進むと、人はまた自然と自らとの結びつきを求めるようになると言う。こうして構想される社会が正当なものとされる。私はこのように言った方がよいと思いながらも、別の言い方で言おうとしたり、回り道をしたりしてきた(『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店)。
  例えばリベラリズムをどう扱うか。リベラルは米国では「左派」だが、社会民主主義の強いヨーロッパでは「右寄り」を意味するという広井の指摘は、その通りの、しかしあまりそうはっきり言ってくれる人もいないから、よい指摘なのだが、そのこととはまたすこし別に、この立場はもうすこし厄介なものである。あるいは重要な立場である。つまり、特定の立場であるというより、これは「人はそれぞれ」という立場だと、リベラリズムは自称する。たしかにこの立場は個人主義的ではあるが、その個人(たち)が「自然との共生」志向であることを否定はしないし、集団志向的であることを否定しない。とするとこの立場は、広井の主張を一つの立場として許容しつつ、部分的なものとして扱う可能性がある。そして、「寛容」とか「多元主義」は、私たちの多くにとって受けのよい言葉でもあり、なかなか捨て難いものがある。
  人それぞれでよいのだろうか。そうだろうと思える部分とそうは考えたくない部分とがある。例えば「成長」というものは、まずは前者において批判されるべきものかもしれない。つまり人々の自由という理由から、成長策を「公共政策」にしてしまうことが批判されるべきなのかもしれない。こうした、人によっては些細と思われるかもしれない論の分岐は、意外に大切だと思う。
  広井の場合、「定常型社会」は、そんな考え方も許容されてよいという性格の主張ではなく、社会全体のあるべき方向である。その主張は、環境の問題、エコロジズムによって根拠づけられる。つまり、社会の変化が駆動要因とされる。資源の制約や消費の限界から社会像を立てていくというかたちになる。そして、過度に自然から乖離してしまった人間の反省という、社会の変化に伴い人々の意識に発生した変化も契機とされる。こうして、私たちの社会が有するべき政治哲学が定まり、そして政治体制、政策が定まる。
  私は、こうした言い方が最も自らの実感にも近く、しっくりくることがわかる。まったくこれらの要素が大切だと思っている。しかし私たちが直面してしまっている「生命の政治学」の領野は、一方で資源の制約を気にかけることによって、また、自然に立ち返ることの称揚によって、そして他方、また同時に、リベラリズム、個人の自由によって、つまりすべてによって生命の停止が容易にさせられている領野なのである(拙著『ALS――不動の身体と機械との生』、医学書院)。自然との関係の立て直しはきっと望まれていることではあろうが、それは生死についての思いにどこまで響くのだろうかと思うとともに、響く時には死の方に向かわせることになってしまうのが現在の現実であることを思うのだ。例えば米国のオレゴン州だけでなく、オランダで多くの人が安楽死を選ぶ。もちろん、社会民主主義における平等の肯定は、一部の人たちだけが死に追いやられることを防ぐだろう。ならばそれでよい、十分なのかもしれない。が、そうでもないのかもしれない。こんなことを考えたいとも思う。考えたくはないのだが、考えざるをえない。
  そしてこんな明るくはないことを考えていく時、例えば、一人ひとりのその場その場で介護が十分に得られないといったことと世界という単位で起こっていることとの関係について言い直す、言い足す必要もまたあろうと思う。生産性の上昇に伴う失業問題の回収程度のことなら、容易になんとかなりそうにも思えるのだが、現実はなかなか望む方向に行かないとすれば、別の要因があって、それが現実を作動させていると考えた方がよいはずだ。そしてここでも私は、広井が以下に述べるのとほぼ同じ方向を――主題的な言及は少なく、本書ではさほど強調されていないとしても――向いていることを知っている。
  米国から脱してヨーロッパに付くべきだという彼の主張は理に適っている。米国からもっと距離をとり、代わりにどことの距離を縮めるのか。こういう問題設定はここ数年、様々な人たちが言ってきたことでもある。ある人たちにとっては、それは、経済の相手としての、また政治的な同盟とは言わないまでも協力の相手としてのアジア、東アジアである。近頃の趨勢としては、こちらの方が流行りなのかもしれないが、そしてそれにはもっともな理由があるとしても、ヨーロッパという言い方はなんだか新奇な感じがしないとしても――実際にはアジアとの「連帯」の方がずっと歴史上頻繁に反復されてきた話だ――依然として妥当ではあるだろうと私は思う。ここでも私は広井に同意する。
  ただ、ならば米国の覇権と言われる事態がどのようにして成立してしまっているのか。またどのようにそこから逃れるのか。今のあの国のようなあり方はどのように解体されるのか。ただ追随するのをやめてしまえばよいのだろうか。じつはそうかもしれない、とも思う。すくなくとも今よりも距離をとることは現在でも十分に可能であり、であるにもかかわらず過去からの惰性として関係が維持されているというだけのことかもしれない。しかし、それほど簡単ではないのかもしれない。このあたりも考えどころではないか。一つに軍事的な優位と、そのことへの対抗については広井も本書で述べているのだが、これともむろん無関係ではない経済についてはどうか。
  冷静に見れば、既に米国の経済は強くない。だからここでもただ距離を取ればよいのだとも言える。しかしあの不思議な一つの国がどんな国であるかに還元されない構造の中に私たちはいる。本書でも論及されている技術の優位を巡る競争があり、競争にほぼ負けることがわかっている地域・国家も含めて、それに乗らざるをえない仕掛けになっており、それに国家が関与せざるをえないようになっている。煎じ詰めて言えば、そうした競争が背景にあって、「定常型社会」への着地が困難になっていると考えるべきだろう。
  国境があり、そのあり様に規定された国際競争があり、開放と閉鎖の動きが同時にある。他が同調しない中で社会民主主義をきちんと行なおうとすれば、資本が流出するし、他方で人が流入する。つまり社会民主主義の一国的な展開には困難がある。それで、ヨーロッパにも、日本と比べればよいにしても、様々に閉鎖的な動きがある。この問題を解決、とは言わないまでも軽減するために必要なのは、また定常型社会が可能になるために要されるのは、ただ個々の国家がヨーロッパ的な体制を選択するということではない。国際競争の圧力を弱め、排除と格差の拡大を抑止する協調的な仕掛けが作られることである。それが対抗軸になるだろうし、そして結局、そのことが「生命の政治学」について存在する問題を、なくしはしないまでも、相当に軽減することができるはずなのだ。むろんその道筋は困難である。本書を一読すると、いかにも私たちが愚かなだけで、その愚かさに気づけばもっとまっとうな世界にすぐになりそうだと思えるのだが、実際はもう少し難しい。だが困難をわかっておいた方が、希望を維持するためにもよいはずなのだ。(2940円、岩波書店、2003年)


UP:20050111
広井 良典  ◇立岩 真也
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