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今年書評した本

医療と社会ブックガイド・55)

立岩 真也 2005/12/25 『看護教育』46-11(2005-12):
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  もう1回だけ「エイズとアフリカ」関係の本の紹介をしたいのだが、次回にまわす。今年はわりあい書評を多く書いた。そこでとりあげた本のことをすこし。
  書評についての愚痴のようなことは教科書を取り上げた7月号にも少し書いたが、すくなくともこの国には書評と言えるものはそう多くは存在しない。書評とは言い難い短いものならある。まず新聞の書評欄。幅広い層を意識しているはずなのだが、読書愛好家向けというか趣味人向けといった本が多いようにも思う。他に『週刊読書人』『図書新聞』といった専門紙。情報源として貴重だ(にもかかわらず不勉強な私は講読していないのだが)。これらに掲載されるものの多くも短い。
  むろん短い分量の書評にもそれなりの意義はある。本が出ていることを知り、そしてだいたいこんなことが書かれているのだろうかというあたりをつけ、では買おうとか、借りにいこうとか思う。私もそんな、400字詰2枚とか3枚半といった原稿の依頼を受け、書くことがある。そこそこに複雑な議論について、その分量で何を書けばよいのかと途方に暮れることが多い。たいしたことは書けない。ただそうおもしろくない本だと、短いのに助けられる。さっと紹介すると終わってくれる。
  ただ、今年はわりあい長い書評をいくつも書くことになった。指定されたのはみなよい本で、それはよかった。だが同時に書きにくかった。かなり苦労し疲労した。
  間違いが書いてある本、考えちがいをしている本は批判したり非難したりできる。そんな本がそうたくさんあるかと思われるかもしれないが、けっこうたくさんある。しかし依頼されたのはいずれもよい本、正しい本で、その論に基本的に賛成というものだった――良書、ではない本があったとすれば、前々々回、紹介を途中まで書いて放置してある三島亜紀子『児童虐待と動物虐待』(青弓社、2005、214p.1680)。「賛成」と書くだけなら2字で終わってしまう。その後に何を言うのかである。
  どう苦労したか。書いた文章はみなホームページに掲載してあるからご覧になれる。多めの紙数を与えられたのは以下の3冊。広井良典『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』」(岩波書店、2003、277p.、2940)。三井さよ『ケアの社会学――臨床現場との対話』(勁草書房、2004、270p.、2730)、佐藤 幹夫『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(洋泉社、2005)。

◇◇◇

  私が本を読む時は、ほとんど、資料、素材として読む。論理というより事実を知るために読む。このように世間や「学界」では言われるのだという言説の傾向を知るために読む。そんなのではない楽しい読書、ためになる読書もしたいと思うが、その暇がない。しかし、すこし長い書評を書くとなると、すこしまじめに考えて、書くことになる。正しい本について、またわかりやすい本について。結局、書かれていることの手前に、あるいは先に何があるのか、と書くことになる。うまくいっている話だが、本当にうまくいききっているのか、と書くことになる。
  ある分量の文章を依頼されたから、というだけでもない。本を読む多くの場合、なにかもう一つ、という感じは残るのだが、たいていはそれがなにかを突き止めることまでしない。それを書いてみることになる。なぜいつでも、変なわかりにくいところに話をもっていくのだろうと、われながら思わないでもないが、仕方がない。
  例えば、『季刊社会保障研究』(国立社会保障・人口問題研究戸所)に書評を依頼された『ケアの社会学』。この本では二つのことが書かれる。一つは「戦略的限定化」。「まずは、自らのなすべきことやできること、自らと相手との関係性、こういったものを、そのつど生じた問題的状況に即して限定することであり、また同時にそれによって、限定された範囲内においては無限にありとあらゆることを試みようとすることである。」(p.109)。もう一つは「相補的自律性」。「相補的自律性とは、各医療専門職が互いの職務が重なるときに、発言し合い問題提起し合うことの意義を互いに認め合った関係である。」(p.226)。
  これらが大切であること、それはそうだろうと思う。実際、多くの人は、多かれ少なかれ、そのように仕事をしている、あるいはしたいと思っている。
 しかし、そのことを認めた上で、この二つの技がうまく効かなくくなる場面があるだろう。この二つのやり方で行ってはよくない場面もあるかもしれない。それらが、なぜ、どのように現実に生起しているか。そして、その時に何を考え、またなしたらよいのか。それらが調べられ、考えられ、書かれるべきこととしてあるのではないか。そんなことを書いた。
  もう1冊、自閉症――と呼びうるのかも争点になったのだが――の人が人を刺して死なせた事件を取材した『自閉症裁判』。私の書評は『精神看護』11月号に掲載。 その本では、一つに、取り調べや裁判が、障害というものをもっとわかってなされるべきことが言われる。もう一つ、犯罪が起こったり裁判になったりする前にできたこと、なすべきことがいくらでもあることが言われる。この本に書かれていることも、いずれもまったくそのとおりである。そのことが説得的に書かれたから、評判もよい。それも当然である。
  ただ私は、書かれているそのことについて、もっとわかりたいと思った、と書いた。つまり、一つに、その人自身が何を思ったか、思っているか、あるタイプの知的障害がある人を罰するとか責任を問うというのはどんなことか、やはりわからないところが残った。一つに、とくに厳しい場面・状況で、犯罪になったり刑罰で対応したりというのでないどんな対し方が実際にあるのか、ありうるか。
  その手前まできちんと書いてくれたから、その後なのか前なのかが知りたくなるということなのだろう。調べて書いたらわかるはずだと思っているのではない。わからないのかもしれないとも思う。しかし、ああ、こんなふうにわからないのだ、というところまでわかりたいと思う。そう書いた。

◇◇◇

  そしてもう1冊、広井の本の書評は『福祉社会学研究』(福祉社会学会)の依頼だった。なにがよいかについて、私と広井には多くの共通点がある。その本には「定常型社会」に移行するとよいと書いてある。私は「停滞する資本主義」とか「冷たい福祉国家」といったもっと受けの悪い言葉を使ってきただが、広井はもっとよい言葉を使って、より説得力のある話をする。すると私は、なぜ、広井のようなわかりやすい話ができないのだろう、と思い、そのことを書くことになる。
  おおむね正しいことを言うのはそんなに難しいことではない。それで世の中の事々がすんでくれれば問題はない。ただそうはいかない。それは理論と現実は別だとか、理想と現実は別だとか、そんな単純なことではない。困難について考えることは、なにやら暗い仕事でうれしくはない。しかし仕方がなくせざるをえない。
  そしてこのことと別に、また関連もして、何をしたら「研究」になるのかという問題がある。大学院生と話したりする時によく言のだが、社会科学が対象にすることは、既にかなりの部分、私たちがみな、とは言わないまでも多くの人が知っていることである。例えば病院で起こっていることをそこで働いている人たちはよく知っている。あるいは、既に学問の内部で言われてきたこともある。「生命倫理」にしても既に多くのことは言われている。概論のような本もある。としてその次に何をするか。そんなことは知っている、わかっているというところをどう抜けるか、越えるか。これがなかなかにやっかいなのである。
  こうしたらよいという決まった答はない。ただ一つ、単純な答ははあって、知っていてよいのに知らないことがじつは意外にある、それを調べて書けばよいということ。これが私の一番のお勧め。
  そしてもう一つ、知っていることの「もと」のところや「さき」のところがまだよくわからない、だからそれを調べたり考えてみるしかないだろう、ということ。
  この社会には、そこで話を丸めていいんだろうか、ということがけっこうある。丸めることがわるいわけではない。なんとなくそれでよいことにするというのは、よい人生の過ごし方であり、よい社会の運営のし方ではあるだろう。しかし、やはりいつもそれですませられてはまずいということもある。丸めこまれて困ってしまう人がいるなら、やはりそれはそれとして考えなければならないのではないか。だからそうしたことを書くことは、実際必要とされているのだが、同時に、書きもの・読みものとしても、おもしろいものになることがあるはずだ。


[表紙写真を載せる本]
佐藤 幹夫 20050317 『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』,洋泉社,318p. ISBN: 4896918983 2310 [amazon][kinokuniya] ※ i01,


UP:20051031 REV:
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