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ALSの本・3

医療と社会ブックガイド・46)

立岩 真也 2005/02/25 『看護教育』46-02(2005-02)
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


  筋萎縮性側索硬化症=ALSについての本を紹介している。前々回は本人が書いた本、前回は本人を支援する側の人が書いた本を紹介した。今回は拙著『ALS――不動の身体と息する機械』
  いくつか書評・紹介が出て、ホームページの方に掲載させていただいている。私も短い紹介を何本か書いた。ホームページで読むことができる。その上さらにこの欄で自分が書いた本をとりあげるというのはいかがなものか、と私も思う。けれど、この本ではALSの人たちが言ったこと書いたことをたくさん引用させてもらった。その恩もある。そして、私の考えを書いた他の本は読むのに苦労する人もいるだろうし、わざわざ苦労してもらうのも気が引けるのだが、この本は難しくはないはずだ。そして、読んで知って考えてみてほしいことがたくさんある。だから臆面もなく宣伝する。
  まずこの本は、社会学者が書いた本だとか「生命倫理」の主題に関係する本であるとかの前に、ALSの人、その人に関わりがある人たち、自分もALSかもしれないと思った人に、読んでほしい。この本では、どうして身体の状態を維持するかといった具体的な方法が解説されてはいない。その方面では別によい本がある――本屋で買える本ではないが、『ALSケアブック 改訂新版』(2000年、日本ALS協会)――から、そこはそちらをどうぞ。ただ、どんな本があるかも含め、できるだけ情報は掲載したから、実用的な情報に近づくために使うこともできる。そして、ALSの人は、ごく狭い意味での実用的な情報だけが必要なのではない。どんな具合に病気のことが知らされたり、知らされなかったりするのか。そんなことを知る意義も、とくに本人や家族の人たちにあるだろう。こうした情報はホームページ等でもかなり集められるようになっているが、まずだいたいのところがわかった上で、より詳しいことを知るというふうにも使える。
  また医療者も、どのように患者をやりすごしてしまっているのか、自らは避けているつもりはなくとも、そう受け止められてしまうのか、知っておいてよいだろう。
  ALSはその人数のわりにはよく取り上げられ、よく知られてもいる。2006年には国際会議が日本で開催される。しかしマスメディアでは多くの場合、悲惨と闘病、家族の献身、交信の技術とが取り上げられる。違う面もあることが知られてよいとも思う。

◇◇◇

  こうしてこの本は、ALSという固有の病・障害についての本でもあるとともに、ここにもっとも厳しく現われてきてしまっていること、つまり死ぬとか死なないとかについての本でもある。
  この本の後半、考えて書いている部分はある。ただ、以下は、ことの是非そのものでなく事実認識について、この本で明らかにできたと思うことについて。
  私は、頻繁に事実として語られることにずっと疑問を感じてきた。それで今度調べて、疑念の方が当たっていることがわかった。そう苦労せずに調べられることを調べればわかることなのだが、はっきり書かれたことはない。
  よく語られるお話はこうだ。かつて、というより「近代医療」においては「延命至上主義」があった。それに抗して「権利としての死」あるいは「自然な死」が大切にされるべきだと考えられ、主張されるようになった。云々。
  これらをすべて嘘だとしたら、言い過ぎになるだろう。ただ、いくつか間違いはある。
  まず、実際に過去に存在したのは延命至上主義ではなかった。すこし遡って調べてみれば、救命・延命は可能であるのに行なわれてこなかったというのが事実である。生きられる時間を生きさせることがずっとなかった。生きられることを伝えることもなかった。医療は、そして社会は、そんなに熱心に人を生かそうとしてはこなかったということである。
  では動き、変化はなかったのか。あった。逆の方向に働く二つの力が働いている。
  一つの変化は「延命」、具体的には人工呼吸器の使用である。そう以前のことではない。何がその方向に変えてきたのか。
  さきの物語では、延命を促す事情として、まず、経営上の都合と医療側の態度がよく言われる。とくに前者には当たっている部分がある。しかし、お金の心配は、言うまでもなく、治療等を行なわないことに結びつくこともある。むしろ普通はその方向に作用する。医療を多く提供することはその代価を得られる直接の提供者(医療者・医療機関)にとっては利益になりうるが、費用の支払い側は、それを抑制しようとする。
  また、技術の登場と向上が延命をもたらしたともよく言われる。ALSの場合なら、人工呼吸器が開発され、使用されるようになったために生きられるようになったという見方がある。しかし人工呼吸器という機械そのものは、既に、実用的なものとしてあったこと、あったが使われなかったことも確認できた。つまり、技術そのものの登場・発展によって人が生きられるようになったのではない。このことも確認できた。
  では、何が生きることを促したのか。まず、生きる人がいたことそのものによってだと述べた。それが知られ、また機械と制度を使える仕組みができて、生きる人が増えてきた。
  もう一つの流れは、生きることの拡大にも関連して、死を支持する流れである。この考えは最近発明されたのではないとさきに述べた。発想そのものは近代の社会に根強くある。生命倫理、バイオエシックスの議論の多くもそれに乗っている。ただ、それは、いま述べた一方の変化もあって、より表面に出てくるようになった。つまり長く生きられるようになったことによって、長く生き続けることを止めることもまた認められてよいのではないかと言われる。今まで暗黙のうちになされてきたことが、公認されるべきこととして言われるようになったのである。呼吸器を付けることがなされるようになると、それを外すことを認めるべきだと言われるようになる。
  医療に従事する人からもその変化について聞くことがある。当然のこととして行なってきた救命のための行ないが、そうとはされなくなっている、そんなことでよいのだろうかと思う、と言われる。
  だがそれは本人の権利、患者の権利であり、そして自然なことではないか。このように、さきに私が疑わしいとした、変化の物語が使われることにもなる。
  この二つの力がともに強くなり、拮抗しているというのが日本の現状である。医療や医療倫理の関係では、むしろ後者の勢力が強くなりつつあるようにも思える。例えば、昨年10月に発表された「重症疾患の診療倫理指針ワーキング・グループ」(代表:浅井篤)の『重症疾患の診療倫理指針に関する提言書』では呼吸器を外してくれと40歳代のALSの人に言われたらどうするかという問いが示され、言われたとおりに外すのがよいというのが答とされている。
  そして本人たちもそのような筋の物語に感染している。という言い方がよくないなら、同じ筋の話を語っている。いったん死の方に傾こうと決めるなら、決めようとするなら、その行ないは正当な行ないであると思えた方がよいのではあるから、その話は採用されるのでもある。
  しかし、同時に、その人自身が、その考えを裏切るのでもあり、その矛盾を十分に自覚しているのでもある。例えば前々回に紹介した川口武久の本にこのことが書かれている。すくなくとも、そこまで見なければ、聞かなければ、本人の言うことを聞くという行ないは、都合のよいところまで聞き、本人の言うとおりにしたといって周囲が免罪されるという行ないでしかなくなってしまう。
  私なりに考えたことは本の終わりの方に記した。それでも詰め切れていない部分はあるから、これからも考えていく。ただそれはともかく、繰り返すけれど、最低、どのように本人が思い惑い、考えたり、考えなおしたりしていくかを知る必要はある。
  私は何かを言うべきだと思ってこの本を書いたが、別の意見、主張を除去しようとはしなかった。むしろ、反するものを載せないことは、何かを言うべきことを言うためにもよくないと思った。かえって主張を弱めてしまうことになると思った。こうして事態が有する「幅」が記されているこの本は、「教材」としても使える。演習などで使うこともできると思う。
  深刻なことについて、ことの是非を、架空の事態を想定して、教育の場で、「討論させる」ことについて、私には拭い難いためらいがある。しかし結局そうしたことは行われるだろう。ならばきちんと考えてもらうのに役立つ本があった方がよく、それを読んでほしいと思う。この本に引用した多くの文章を読んでほしいと思う。


◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940


UP:20050104 REV:0106(誤字修正)
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