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アイリス・ヤング集中講義のためのメモ・5

立岩 真也
2004/01
アイリス・ヤング集中講義


cf.ヤング先生の予告

January 30 - Global Justice


Material need and deprivation are certainly paramount issues of justice, and these are stark when we consider people across the globe. Arguments for the claim that the scope of justice extends globally, and that there is a global basic structure. How to envision institutions of global justice.

Readings:

◆Iris Marion Young, Inclusion and Democracy, Chapter 7
 http://www.arsvi.com/b2000/0000yi.htm
◆Iris Marion Young 2003 "Modest Reflections on Hegemony and Global Democracy," in Theoria
 あり。学而館1階にコピー。また受講者はHPから入手できる。
 12月15日に山本さんが報告→簡易訳掲載(2004.01.01)
 http://www.arsvi.com/b2000/0003yi.htm
◆Thomas Pogge, World Poverty and Human Rights, Chapters 4 and 7
 学而館1階にあり。
 http://www.arsvi.com/0ww/pogge.htm

 
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■メモ

◇まず以下のPogge, Thomas W.についてのファイル(の中の引用)を読んでみること。
 http://www.arsvi.com/0ww/pogge.htm

◇以下は上記に引用したより長い引用

cf.「☆14 国家という単位が不十分、という以上に抑圧的であることについては[2000a:(下)][2001b:(2)]で述べた。分配が国家の単位を越えてなされるべきとだいう主張(Beitz[1979]、Pogge[1989][1994]、等)に対しRawls[1999b]が否定的であることを伊藤[2002:233]が紹介しているが、もろちん本書から支持されるのは前者である。関連する議論の紹介としてBrown[1998=2002]。分配の範域を広げることの可能性に人と人の関係の近さ・遠さがどう関わるかという主題がある。第3章3節1で考える。外部者の立ち入りを遮断し他の地域のために税金を払うことを拒絶する米国のゲーティド・コミュニティ、地域の「疑似政府」、共同体主義によるその肯定について酒井[2001:259ff.]、Bickford[2000=2001]。たんに「地方分権」を肯定することはそれを是認することでありうる。そのことに鈍感であるべきでないと[2001c]で述べた。それはまた「干渉(権)」について考えようということでもある――例えばバリバールが「絶滅的な生−政治あるいは生−経済の現実」としての「全面的な非介入」にふれている(Balibar[2002:22])。そんなことを考えていって主張しようとするのはHardt & Negri[2000=2003]の最後に記される、道具立てのわりには平凡なと評される(Zizek[2001=2003])方向とそう違わないかもしれない。ただそれをさらに平凡に、順序通りに考えて言おうと思う。」(立岩『自由の平等』序章・注14)

◇もう一つ引用
 「述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。…例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。」([2000a:下133-134,146])

 地域主義を全面的に否定しようというのではない。しかしすくなくとも、それが常によいことであると考えるのは間違っている。

◇1)普通に考えていけば(例えば分配について)国境内に限る正当な理由が見つからない、限らない主張に至るというのが一つ。(岡野が紹介するポッゲの論もこの方向のもの。)
 2)(分配についていえば)十分な分配を行おうとすれば国境は(たんに貧しいところが放置されるというだけでなく)それを阻害することになる(から世界大の分配が支持される)という帰結主義的な正当化。このことについて「選好・生産・国境」で述べた。

◇反グローバリゼーションの運動にも多様な要素があるのだが、一つの考えどころはこの辺りだと思う。

◇以下はわりあいあっさりした文章だった。
Iris Marion Young, "Modest Reflections on Hegemony and Global Democracy," in Theoria
 山本崇記さん作成の簡易訳を参照のこと。
 http://www.arsvi.com/b2000/0300yi.htm

◇ありがちな質問としては
 「あなたはグローバル・ジャスティスというものを支持しているようだが、同時に、集団の多様性の尊重も支持している。とすると、両者はどのように折り合うのか、両立するのか。」といったもの…。

◆文献

Brown, Chris 1998=2002 押村高訳,「国際的社会正義」,Boucher & Kelly eds.[1998=2002:137-161] <290>*
*Boucher, David & Kelly, Paul eds. 1998 Social Justice: From Hume to Walzer, Routledge=2002 飯島昇蔵・佐藤正志他訳,『社会正義論の系譜――ヒュームからウォルツァーまで』,ナカニシヤ出版
立岩 真也 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下),『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149 <197,288,290,299,312,320,331,338,347>
―――――  2001/05/15 「ふつうの道を行ってみる」,『地域社会学年報』13:77-95(地域社会学会),ハーベスト社
―――――  2001b 「国家と国境について」(1〜3)『環』5:153-164,6:153-161,7:286-295 <290,333>

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