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アイリス・ヤング集中講義のためのメモ・1

立岩 真也
2004/01
アイリス・ヤング集中講義


cf.ヤング先生の予告

January 26 - What are claims of justice about?


The idea of "basic structure". Social justice concerns more than the distribution of resources or benefits and burdens. It also concerns the organizing of the division of labor, how ruling norms can privilege and disadvantage, the form and structure of decision making power, and other issues. The next three days will discuss some of these issues in more detail.

Readings:

◆Iris Marion Young, "Taking the Basic Structure Seriously," forthcoming in Perspectives
 受講者はHPから入手可
◆Iris Marion Young, Justice and the Politics of Difference, Chapter 1, "Beyond the Distributive Paradigm."
 第1章自体のレジュメはない。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9000yi.htm
 に序章にある第1章の要約の訳がある。
 メモ・1(このファイル)にすこし紹介(20040107)
◆Iris Marion Young, "Equality of Whom? - Social Groups and Judgments of Injustice," Journal of Political Philosophy, 2001
 コピーが学而館1階の部屋にある。
John Rawls, A Theory of Justice (Japanese text)
 邦訳あり。
◆John Rawls, "The Basic Structure as Subject," Lecture VII of Political Liberalism
 本が学而館1階にある。
◆Alex Callinicos, Equality, Polity Press
 cf.Callinicos, Alex http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/callinic.htm
 購入した→学而館1階の部屋にある。

 
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第一章 分配パラダイムを置きかえる

 ■分配パラダイム
 ■分配パラダイムは、制度的な文脈を前提し、かつ覆い隠している
 ■分配、という概念を広げすぎると
 ■分配する力について話すこと、にともなう諸問題
 ■不正義を、支配と抑圧として定義する

 ■分配パラダイム

 「正義の分配的な定義は、しばしば、権利、機会、権力、そして自尊など、非物質的な社会的な財まで含む。」(p.16)
 Rawls,Runcimann,Ackerman,Galston
 支配的なリベラルの枠組に対して批判的な論者たちも David Miller(p.17)
 社会主義者、マルクス主義者も(p.17)
 ウォルツァーは微妙(p.17)  分配パラダイムの問題2つ。以下2節で論じる。  1)物質的な分配を決定している制度的な文脈の無視、同時に前提
 2)非物質的な財や資源に拡張したときにそれらを間違って描いてしまう

 ■分配パラダイムは、制度的な文脈を前提し、かつ覆い隠している
 「正義についての応用的な議論は通常、物質的な財や資源の分配に焦点を当てすぎている。」(p.19)→第3章
 「分業の構造と意味を感じられる仕事につく権利に対する関心」(p.20)

 「例えば、幾人かのフェミニストは現代の正義論が家族構造を前提としており、性や親密性や子育てや家事労働を含む社会関係がどのように組織されるのが最もよいのかを問うていないことを指摘している。(see Okin, 1986; Pateman, 1988, pp.41-43)」(p.21)
 分配理論が無視しがちな3つのカテゴリー
 1)決定の構造と過程/2)分業/3)文化(p.22)
 1)
 2)
 3)「文化は私が焦点をあてる非分配的カテゴリーの中で最も一般的なもの」(p.23)

 ■分配、という概念を広げすぎると

 「分配パラダイムは、暗黙に、社会的な裁定とは個人が何を持つか、どれだけ持つか、他の人たちが持つのに比べてどうかについてのものであると想定している。こうして所有に焦点を当てることは、人々が、どのような制度化されていない規則に従って、何をしているのか、それら行うことや持つことが、それらの位置を規定しているどのような制度化された関係によって構造化されているのか、これらの行ないの結合された効果がその生活に対してどのような反射的な効果を及ぼしているのかを無視しがちである。」(p.25)
 3つの非物質的な財:権利、機会、自尊(p.25)
 権利:「権利は関係であって、事物ではない[…]権利はもつことよりすることに関わる。」(p.25)
 機会:機会についても同様の混乱

 ■力(権力)の分配と語ることの問題 30

 1)力は関係であり、事物ではないことが曖昧になってしまう。(p.31)
 2)(関係として捉えるときにも)統治者と従属者という2者関係として捉えてしまいがちで より大きな構造を無視(p.31)
 3)少数の人の手に力が集中しているように考えがち。(p.32)

 ■不正義を支配と抑圧として定義する 33

 「正義の範囲(scope)は分配的な事柄よりも広い。他にも非分配的な正義の問題はあるだろうが、この書での私の関心は決定、分業、そして文化である。」(p.33)

 「正義は個人の生活のなかでの諸価値の具体的な実現と同じものではない。正義とはつまり、そうした意味でのよい生活と同じものではない。むしろ、社会正義とは、社会がこれらの諸価値の実現のために必要な制度な条件をどれだけ有する(contains)かまた支え ているかの度合いに関わっている。よい生活に含まれる価値は二つの非常に一般的な価値にまとめられよう。(1)自らの能力を発展させ発揮すること、そして(2)自らの行為と行為の条件の決定に参画することである。」(p.37)

 抑圧:「自己発達に対する制度的束縛」(p.37)
 「抑圧とは、ある人々が社会的に認められた設定の中で、十分で広範なスキルを学び、それを用いることを妨げるシステム的な制度的プロセス、もしくは、他の人々とプレーし、コミュニケーションする、あるいは、社会生活の中で他者が聞き取ることのができる文脈で自らの感情やパースペクティブを表現できる能力(ability)を抑圧する制度的プロセスの内にあるのである。」(p.38 *この部分Fraser[1997=2003:293]に引用)

 
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■まえおき

  まず私はヤングという人のことを、その名前も、この大学院で講師としてお呼びするという話を聞くまではまったく知らなかった。(Sargent ed.[1981=1991]*にきむさんが紹介してているヤングの論文が入っていて、読んだようにも思うのだが、その著者の記憶はなかった。)立命館にいらっしゃる、そしてそれに関連した講義を私が持たなければならないということで、はじめて読んでみたという次第だ。『正義と差異の政治』(1990年)を読んだ。読んだと言えば、この1冊だけで、何かわかっていると言うつもりはまったくない。
*Sargent, Lydia ed. 1981 Women and revolution: A Discussion of the Unhappy Marriage of Marxism and Feminism, South End Press, Boston=199101 田中かず子訳,『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』, 勁草書房,285+4p.(15本中9本を訳出)

  ただ、今回の講義の予定をさっと見ても、その立場は1990年の著作以来一貫しているように思われる。

  比較的「リベラル」な(改良主義的かつ現状維持的な)立場に対して、より根本的な社会改革を主張するという姿勢。
  ヤングは1960年代以降の社会運動の中でものを考え書いてきた世代の一人でもあり、基本的にその姿勢を維持しているということでもある。

■分配的正義として正義を捉えることの批判
 分配モデル批判:結果より(結果だけでなく)過程 という理解

  1990年の『正義と差異の政治』。「分配パラダイム」批判。

  ここで槍玉にあがっているのは、政治哲学の主流派の主張であるとともに、現実の米国的な社会状況、政治状況である。

  ここになされる批判・主張は、そう目新しいものではない。むしろ(私にとっては)なにか懐かしく思われるようなものでもある。しかし、思想はべつに新しいものである必要はない。妥当であればそれでよいのであり、その意味で、私はその主張の多くを支持するだろう。ただ、その多くの部分を共有しつつ、そこから(あるいはもっと戻ったところから)どのように考えるか、それが私にとっての主題であるように思うのだが、そこから考えたときに、しょうじき言えば、聊かのものたらなさがある。つまり、「そこまでだったらわかっている、その次を私たちは考えたいのだ」、と言いたい気持ちになるところがある。

  正義を分配の問題として語ることを批判するというとき、その批判は幾つもの要素からなっているように思われる。(そしてときにその各々があまり自覚的には分けられていないのではないかという印象を受けることがある。)

  1冊の本を最初から紹介していくというやり方もあるだろうが、複数の要素が同時に鳴らんでいるとすると、むしろ、その幾つかを取り出しながら見ていくという方がよいかもしれない。

  「正義の範囲(scope)は分配的な事柄よりも広い。他にも非分配的な正義の問題はあるだろうが、この書での私の関心は決定、分業、そして文化である。」(p.33)

  「正義は個人の生活のなかでの諸価値の具体的な実現と同じものではない。正義とはつまり、そうした意味でのよい生活と同じものではない。むしろ、社会正義とは、社会がこれらの諸価値の実現のために必要な制度な条件をどれだけ有する(contains)かまた支えているかの度合いに関わっている。よい生活に含まれる価値は二つの非常に一般的な価値にまとめられよう。(1)自らの能力を発展させ発揮すること、そして(2)自らの行為と行為の条件の決定に参画することである。」(p.37)

  上で言われていることを乱暴に分ければ、「決定」(「分業」)と言われるとき、それに対応するのは「結果」であり、結果でなく(結果だけでなく)それに関わる決定が問題だという主張になる。(それ自体は分配可能な)「もの」の(最終的な)分配の場面だけを見るのではよくない、という主張である。
  もう一つ「文化」という場合には、そもそも分配できない(とされる)ものが問題になっている。
  力点は、基本的に、また26日の講義では、前者の方にあるようだ。

■[補]「直接性」に対する批判・都市の暮し(city life)の肯定

  ただヤングは直接性、無媒介性のようなものを積極的に支持しているというわけではない。

  「顔と顔をつき合わせた二人の人間の関係でさえ、声や身振り、間合や時間性によって媒介されている。……[したがって]顔と顔をつき合わせた関係の方が、時間や距離を超えて媒介された関係よりも純粋で正統的な社会関係であると考える根拠は何もない。なぜなら、顔と顔をつき合わせた関係も、そうでない関係も、媒介された関係であることに変わりはなく、どちらの場合にも、コミュニケーションや合意の可能性と同じくらい、決裂や暴力の可能性が存在しているからである。(Young 1990:314)」(Tomlinson[1999=2000:274]に引用、より長い引用・紹介はヤングのファイルにあり)

*Young 1990 The Ideal of Community and the Politics of Difference, L.J.Nicholson ed.Feminism/Postmodernism, Routledge, 300-323
*Tomlinson, John 1999Globalization and Culture, Polity Press=20000331 片岡信訳,『グローバライゼーション――文化帝国主義を超えて』,青土社,371+25p. 2800 ※

 『正義と』では第8章「都市生活と差異」

■理由:なぜ決定、過程…の方が大切なのか?

  基本的な問いは、なぜ分配よりも(その)決定のあり方なのかである。
  これは言うまでもないことのようにも思える。(が、ヤングは、このことについていろいろと書いている。)
  そのだいたいはわかった上で、いかにもあまのじゃくだが、結果だけよければいいじゃない、と言いたいところが、私にはある。このことを■2で書く――いわゆる「経済」については28日の講義についてのメモに書くとして、そこではそれとすこし異なることについて。

■1・

 まず、分配のモデルでは事態を(適切に)捉えることができないという認識がある。
 制度的な文脈・背景を見なければならない。それはその通りで誰も異論がないはずだ。
 次にそこを変えなければ事態は動かないだろうということがある。
 AがBを規定しているとして、Aを変えずにBを変えることはできないということ、これもまたその通りである。Aを認識し、関与し、そして変えていく必要がある。

■2・決定に参加する主体の位置

  「利益集団(interest group)」の政治が批判される。(『正義と差異の政治』)
  「利益集団多元主義の諸過程は公的な対立をもっぱら分配に限定している。生産をどう組織するか、公的そして私的な決定作成の諸構造、地位を付与したり不利益を固定化する社会的意味付け(social meanings)などの論点は等閑に付される。」(第3章冒頭)
  「福祉資本主義社会は市民を消費主権者(client-consumers)として定立し、公的生活における彼らの能動的参加を萎えさせる。私は、正義の分配パラダイムはこの脱政治化をイデオロギー的に強化する機能を果たしていると主張する。」(同)

  「正義の希求には一定の分配的アウトカムが必要であることは疑いないが、それは更に進んで、公的討論と民主的決定作成プロセスへの参加をも要求する。デモクラシーは道具主義的にも本質的にも価値がある。参加プロセスが市民たちに自身のニーズと利益に就いて語らせることを保証するという道具主義的価値と、市民の徳はシチズンシップの行使を通じてこそ陶冶され、それがまた社会への能動的な関与を生むという本質的な価値と、である。」(第3章・「社会正義の条件としてのデモクラシー」)

  上で「道具主義的価値」と呼ばれるものについてはそのとおりだ。自分(たち)に何がいるのか、いらないのか、それは本人たちが言った方がよい。本人たちから聞いた方がよい。
  ただ「本質的価値」についてはすこし留保したい部分が残る。労働について述べることと同様のことが言える。つまり、政治的決定に参画することはそれ自体として価値のあることなのかという問題である。

  2つのことがあると思う。
  1)1つは決定(に参画)する人のあり方についての評価、そのあり方の位置づけである。
  2)1つは民主制の評価である。

  1)について。
  「グットマン(Amy Gutman)のように、分配における公平を民主的参加の諸制度にとっての必要条件と見なす向きは、参加プロセスの制度化を分配的正義の実現を待って達成しようとする態度に傾くが、これは民主化を未来に先延ばしするだけでなく、分配的正義の達成さえも覚束なくさせる。分配ではなく、デモクラシーを優先すべきなのである。特に今日の福祉資本主義社会においては、分配可能性の条件はかなり固定的であり、現行の決定プロセスを変えることこそが(分配的正義にとっても)最も効果的なのである。」(第3章・「社会正義の条件としてのデモクラシー」)
  これは、経済が先か政治が先かといった問題として、「開発独裁」の是非といった論議とも関わる。この論はこの論としてわかる。ただ…。

  「☆10 例えばMarx & Engels[1845-1846](の所有観について青木[1992:45-68])に描かれる「朝に狩猟をし、昼には魚を捕り」という未来社会において政治活動はどうなるのだろうとWalzer[1970=1993]は考える。私たちとしては、労働も政治活動も特別に価値のあることでなく、しかし双方とも参画するのはときに楽しいこともありまた必要でもあるという、そしてこの意味でもこの二つの間に優劣はないという、だから丸山真男の言うことはわかるがその立ち位置はわからない、アレントは立派なのだろうけれどやはりわからないところがあると言ってしまいたいという、単純な所から発してはいけないのかと考えてもよいと思う。「停滞する資本主義」「冷たい福祉国家」といった語(第2章注11)もそんなところから来ている。その「退屈な国家」は「政治的なるもの」(Mouffe[1993=1998])の位相を見落しているのだろうか。そうではない。本書に示すのはまったく特定の立場・態度であり、それが争いの場に置かれることになる(cf.Mouffe[2001=2001:31]、Laclau & Mouffe[1991=1992])。」(『自由の平等』序章・注10)

  人により立場は様々ながらも、決定に参加し参画しするまじめな人をまじめに支持するという点では共通しており、そのことに私は少し違和感を感じる。むろん日本でもこの種の議論をする人はたくさんいて、(ある種の)政治学をしている人たちもそんな人たちだと思う。
  私は吉本隆明という人が言っていることの多くはわからないのだが、ただ、「「市民」にならねば」という強迫のないところ、基本的に政治は仕方がないからするものだという感じで捉えているところは、それでよいのではないかと思い、共感する。ここから見ると、そうでない立場もまた特定の立場のように、はっきりと見えてくる。(年明けに頼まれ原稿で吉本について短い文章を書くのだが、そこではそんなことを書くと思う。)

  *だから質問としては、「職場のことであれ、国の政治のことであれ、私はその決定に参加するのが(面倒なので、人間が嫌いなので、……なので)嫌だから参加したくない」、と言う人がいたとして――私もそういう人かもしれません――、その人に対して先生は何を言われますか」というものもあるかも。
  加えて、「欧米?の政治哲学者はこのことについては基本的に一致しているように思われます。しかしそうでない考え方もありうるし、実際にあります。もちろん参加することはたいしたことではないという言い方に大きな危険はあります。結果として、ある人々の利害や主張が抑圧されてしまうことになることがしばしばだからです。しかしこれは、やはりその機能、道具的な価値に即してのことであって、参加が本来重要であるという主張にはならないと思うのです。それでもこの主張はあくまで維持されるべきなのでしょうか。その根拠は何なのでしょうか。」

  私の書きものを読んだことのある方は、以上の話が、基本的に「自己決定」について以下で論じたことと同型のものであることに気がついておられるだろう。というか、両者は基本的には同じ主題なのである。

  立岩 真也 1999/03/31 「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」
  石川准・長瀬修編『障害学への招待』,明石書店,pp.79-107 60枚
  「第一点、「自己決定すること」は常によいことではないし、第一義的に大切なことでもない。[…]
  しかし、「自己決定」は肯定される。そしてそれはこれまで述べたことと矛盾しない。[…]
  なぜ自立は支持されなければならないのか。また、自己決定は尊重されなければならないのか。その理由は単純である。二つあって、その二つ目をさらに二つの契機に分けることができる。
  A:第一に、一番基本的な答えは、ある人がある人の生きようを決めてやっていくということ自体が、その人が在ることのその一部を構成するものだというものである。その人が、私(達)ではない存在として在ることを認めるのなら、またその人の自己決定していく生き方を――「よきにはからえ」という決定をして生きていく生き方も含めて――認めなければならない。
  B:第二に、それが自分にとってよいからである。
  B−1:一つに、自分にとってよい状態を自分が知っているという単純な事実がある。[…]そして[…]予測できることとできないこと、実現するかもしれないことと実際に起こること、その間で私達はかなりわくわくする。
  B−2:第二に、自分の生活を防衛するためにやむをえず自分で決めていくことが必要だということがある。一人の生活は人々との関係の中で行なわれ、そこには当然周囲の人達の利害が絡む。決定を、そして生活を他人に委ねてしまうと、多くの場合、その他人(達)は自分に都合のよいように振舞うから、その当人は損をする。」


■2・民主制について(ここはまだ書き足します:20031229)

  1)について
立岩 真也 2003/06/02 「(セン先生に)」
  立命館大学大学院先端総合学術研究科開設記念国際シンポジウム
  「21世紀の公共性に向けて――セン理論の理論的・実践的展開

  私にしても対話・合意は大切であると思うし、自説・規範をただ押しつけるのはよろしくないとは思う。
 しかし、合意によって成立した規範がよい規範であるというのはそれ自体が規範であるという(よく言われる)点はそれとして――つまり、そのことをあげつらって、そのことによって責めることはしないが(なぜなら、このことはあらゆる立場について言えることではあるから)――、なぜこの立場・規範が正当化されるのかと思う。私はこの立場はとれないと考えている。
  「まず私たちは、確かな根拠、誰もが合意し支持する根拠がなければならないとは考えず、むしろそんなものがなければならないと考えることに錯誤があると考える。」(『自由の平等』p.3)
  これを、合意するものが根拠となると考えない、と言い換えてもかまわない。
  (にもかかわらず、同時に、人々の支持が必要であり重要であることについては同書第3章。そこではそこそこの人がそれなりにその規範をもっともだと思わなければ、その規範でやっていくことは難しいということを述べ、次に、では私(たち)が支持する規範は人にもっともだと思ってもらえないようなものなのかを考え、そうでもないのではないかと述べた。)
  だから、規範ないし規範の不在に、討議→合意というモデルを対置させるのでなく、では私(たち)はどのような規範をなぜ支持するのかを対置すべきなのだ。(対置し、それが討議の場に投げられることを望むのだから、結局同じことを言っているのだろうか。そうではないと私は考えている。)

  むろんヤング(や他の多くの人たち)が民主制が大切だと主張するのにはもっともなわけがある。つまり、これまで(実質的には)発言の機会を与えられず、その主張が聞かれることなく、そしてそうした中で決定がなされてきたという現実があり、それではいけないだろうと思い、(実質的に)聞かれること、主張すること、決定に参画することを求める。そしてそこで主張されるのは、むろん、たんに決定方式としての多数決であったりはしない。ただ(続く)

  そして私は、具体的に「信」の中味を問うべきだと考えている。
  「一つもっとなされてよいのは、様々の教えや信仰や趣味の内容に立ち入ることだろう。様々のものがあることを認めることは、その内容に介入し、批評し批判してならないことを意味しない。それがそれとしてありその人にとって大切であることを認めることと、それを批判することは、むろん両立する。むしろ、相手に立ち入らないというリベラルの教義自体が吟味され批判されてよいのであり、行儀のよい相対主義の方が相手に対して侮蔑的ではないのかと考えてよいのだ。そして寛容を掲げるこの主義は、相手を否定するとき、それをまったく途方もない悪とすることによってしか否定できなくなってしまうことにもなる。」(『自由の平等』


UP:UP:20031118 REV:1229(ファイル名変更等々),31 20040107,14
アイリス・ヤング集中講義  ◇立岩 真也
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