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決められないことを決めることについて

立岩真也 20041024
第23回日本医学哲学・倫理学会大会 於:昭和大学



*抄録集のために送った原稿

  今は(むしろずっと)「死の決定」を巡る事々の方が気になっている。そのことに関係し、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちのことについて書いた本が11月に医学書院から刊行される。今回の主題については、拙著『私的所有論』(1997、勁草書房)の第5章「線引き問題という問題」に書いただけのところに留まっている。(その後に書いたものでは、「確かに言えること と 確かには言えないこと」(齋藤有紀子編『母体保護法とわたしたち――中絶・多胎減数・不妊手術をめぐる制度と社会』、明石書店、pp.241-251。これも、基本的に、上掲拙著第5章・第9章に記した論点の一部を反復した文章。)考えを進められ、報告できればよいのだが、難しいと思う。
  以下、2003年6月7日、東京大学21世紀COE「死生学の構築」シンポジウム「死生観と応用倫理」第1部「いのちの始まりと死生観」のために送った原稿「現われることの倫理」の前半3分の1ほどをそのまま再掲する。全文、および関連情報は私のホームページ(http://www.arsvi.com)でご覧になれる。
  「生命尊重」を主張し、人工妊娠中絶に反対する論があるが、その論には難点がある。生殖、誕生の過程は連続的なものだ。例えば精子にしても卵子にしても、一つの生体ではある。避妊もいけないと言う人たちもいるが、それにしても何億とある――そのままにすれば自然に消滅する――精子がすべて生かされなければならないといったことを冗談でも言う人はまずいない。つまり成長の可能性のあるすべての生体を生きさせなければならないとは言わない。しかし受精したら違うだろうと言われるかもしれない。どう違うのか。意図が入っている点だろうか。しかし性交は意図的だとしても受精はそうでない。受精卵には遺伝的プログラムが備っているからか。しかし、様々なところにプログラムはある。こうして中絶が特に禁じられるべきだとそう簡単には言えない。そして、「生命尊重派」も何でも生かそうとしているのでなく、線を引いている。このことははっきりしている。
  中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。自らの身体に対する権利という根拠はどうか。もちろん起こっている事態はその女性の身体に起こっていることである。また女性の自らの身体に対する権利を認めるとしよう。だとしても、それは身体に関わることすべてに権利を有することを意味するものではない。有するとすれば、自らの身体を使えば人を助けられる場合に助けないこともまたその人の権利であるとされることになる。総じて、自らの自らについての権利という根拠をここで用いることはできない。
  拙著『私的所有論』(勁草書房)で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。子が登場するとは、産む者の身体において、何かが他者になっていく過程ではないか。「人であることはいつ始まるか」という倫理学の抽象的な議論に対して、フェミニズムから一貫して疑義が唱えられてきたことの意味がここにあると考える。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、酷なことでもあるが、あるいは、酷なことであるがゆえに、その人、女性に委ねるしかない。何かの近くにいる人はその何かに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。

◇履歴・業績等
専攻:社会学。1960年佐渡島生。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。千葉大学文学部、信州大学医療技術短期大学部を経て、現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。『私的所有論』(勁草書房,1997)、『弱くある自由へ:自己決定・介護・生死の技術』(青土社,2000)、『自由の平等:簡単で別な姿の世界』(岩波書店,2004)、『生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(共著,藤原書店,増補改訂版1995)。


UP:20040731 REV:0805(誤字訂正)
立岩 真也
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