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明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ

立岩 真也×山田 真 2004/04/20
『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい]子育て未来視点【ルビ:さきのみとおし】BOOK(下巻)――大人になるということ』ジャパンマシニスト社,pp.62-67

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last update: 20181011

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立岩 真也×山田 真 20040420 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」,chio編集委員+読者[延150万人代表]編集委員企画・編[2004:62-67]*
*chio編集委員+読者[延150万人代表]編集委員企画・編 20040420 『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい]子育て未来視点【ルビ:さきのみとおし】BOOK(上巻)――育てるということ』,ジャパンマシニスト社,91p. ISBN-10: 4880491411 ISBN-13: 978-4880491417 1,028円 [amazon][kinokuniya]

『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『ち・お』/Chio)
●ジャパンマシニスト社 http://japama.jp/

*山田真との対談
*山田さんの発言部分は校正のために立岩に送られてきた時点のもので、書籍に掲載された文章との異同はまだ確認していません(2007.12)

 この対談は『人間の条件』に収録されています(増補新版:pp.355-370)。わるくない本です。どうぞよろしく。[2018/10/11 立岩]
立岩真也『人間の条件――そんなものない 増補新版』表紙

山田 既成の価値観とはちがうものを提案したいと『ち・お』を一〇年やってきました。しかし価値観というのはなかなかゆるがない。ゆるがすとしたら、その契機はどのへんにあるのか、考えてみたい。
 立岩さんは、障害者の運動や、かつてのさまざまな運動がきちんと総括してこなかった問題を整理する作業をしてきていますが、これは?

立岩 ぼくの場合、入りは政治的っていうよりは文化っぽいものだったと思います。制服はいやだとか、頭髪検査はあほだとか、ロックはいいとか。そして、大学に入った七九年が養護学校義務化の年で、反対運動がまわりにもあって、反対してる人の方が正しいって思いました。そんなで、障害者運動のことを少しは知って、介助とか、暮らしの上でのつきあいもあった。そして反対し、別のものがいいという主張の出所が、六〇年代末、七〇年代の運動にあることもわかってくる。
 ぼくは六〇年生まれで大学闘争なんかはほぼ終わってましたけど、その気分には気持ちのいいものがありました。それは基本的に正しいと思い、それが出発点になってます。ただ考えていくとやっかいなことがいろいろとあって、どうしたもんだかよくわからない。しかし、基本的には正しくて気持ちのいいことを言ったオジサンたちは、そういうことを考えてくれてないと思ってたんですね。話の続きを考えることを止めたと思うんですよ。だからしょうがいないから、その後を考えようと。

山田 おじさんたちにも当時、価値観の問い直しの萌芽的なものはあったんだ。ところが、「価値観がひっくり返るには体制が変わるしかない、革命だ」となってしまって、文化の問い直しや、平等や正義についての成熟した思想には向かわなかった。

立岩 体制が変わらなければ、というのは正解だったかもしれない。しかしやってみても実現は難しいわけだし、考えても詰まってしまい、困ってしまって終わり。そしてたいがいの人は、頭では困っても職があれば暮らしには困らないんですね。だから、ほんとうは考えるのをやめても困らない。社会を変えようとすることから降りてもそんなに困らない。
 ところが、障害者は社会が変わってくれなければ、暮らしが成り立たない。当事者として降りられないで続けてきた。その人たちの運動自体、七〇年代前後の思想との関わりの中から出てきたもので、従来の障害者運動とは質的に違う部分をもったものだと私は思うんですが、その運動が他と違うのは、続けざるをえないから続けてきたこと、そして現にある社会と具体的につきあいながらやってきたことだと思います。
 そうしてやってきて、かつてはマイナーだった主張が、ともかく筋は通っているから、正しいと言わざるをえないから、少なくとも言論においては、主導権を取るようになってきました。自立生活運動って言われる運動であるとか、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の活動であるとか。そしてそれなりの政治的な影響力も有してきている。

山田 ぼくは脳性まひ者の「青い芝の会」の初期の運動に対して尊敬の気持ちがずっとあって、いまの運動の変化ってつかみにくい。「青い芝」や全障連の運動には「正常ってなんだ」という問い返しがあったよね。
 六〇年代初頭、障害者自身の運動のはじまりのころは、身体の障害を手術でなんとかしよう、「正常」に近づこうという流れがあったけれど、うまくいかなかった。

立岩 結局なおらないものはなおらないってことで、なかばそれをわかりつつ、かなり無理な発想で、あるいはともかくなんかやってみようってことで、いろいろやってみるんだけど、やはりうまくいかない。へたな手術なんかするとかえって後で二次障害がひどく出たりする。

山田 そう。無理矢理ふつうの形にしても、その形のなかでバランスをとっていた本人にとっては「異常」な形になるわけ。「正常」に近づくために小さいうちからすごく苦労させられて、施設に入れられて、でもよくならなくて、という恨みみたいなものが、「正常ってなんだ」という問い返しになっていった。
 全障連の第二回大会で、すごい糾弾を受けてね。当時、ぼくは森永砒素ミルク事件の被害者運動にかかわっていて、被害者のひとりといっしょに行った。そしたら「体を元に戻せ」というスローガンに対して、これはなんだ、障害者を排除する思想じゃないか、と。医者の犯罪性を一身にぶつけられたようで戸惑った。

立岩 障害者が「治ったほうがいいでしょう」といわれてカチンとくるのは当然です。治らないんだから。しかし、「もし治るなら」というのが現実性をもってくると、話はむずかしくなってくる。そこをどう考えるか。
 まず、痛いとか苦しいというのは、少ないほうがいい。それはそうだと思います。でも、痛さを軽減するとか、治療をするために「支払う」ものがありますよね。手術の痛みだったり、療育の場に通うとその時間に遊べないとか。だから、得られるものと支払うものとを天秤にかけて考えなきゃいけない。ところが、この社会は、どうしても支払いのほうを軽く見ちゃう。こどもがいろんな努力をさせられたり、時間を費やされたりして支払うものを、小さく見てしまう。これが一つの問題です。そんなことを「なおすことについて」で書きました(野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』、有斐閣、に収録)。
 もう一つは、「不自由」をどう考えるかということ。したいことができないのはたしかに困ったことです。でも、自分ができないことを他人にやってもらったらちょうど同じになる場合もある。もっと言えば、他人にやってもらうほうが自分としては楽かもしれない。だから「障害があっていいんだ」という障害者の言い方は荒唐無稽、苦しまぎれに聞こえるけれども、じつはそうでもないんだと思います。このことは「ないにこしたことはない、か・1」に書きました(石川准・倉本智明『障害学の主張』、明石書店、に収録)。

┃障害や程度のちがい、能力による区別は差別?

山田 親の立場でも、子どもの障害がとても重いと、発想の転換ができて明るくなれるということがあるよね。学校に行きたい、でも教えてもできるようにならないような重度の障害だと、「学校は教育の場じゃない、まずは生活の場だ」とはっきりいえる。「学習」みたいなものをこえて、人間にとって必要なものが見えて、明るくなれる。
 同様に「治らなくてもいい、人に迷惑かけてもいいじゃないか」といいきれるのは、治らないし、世の中でほとんど迷惑をかける存在としか思われないような人たちだから、ということがある。知的障害者は当事者の運動がなかなかできにくいし、とりわけボーダーラインといわれる人たちやその親は、「開き直ればいい」といいきれず、しんどい。

立岩 たしかに、障害は補えばいいという路線で行っても、他人の「頭を補う」のは他よりは難しいところがありますね。手足を補うのは原理的には簡単だし、社会的な支援もそれなりにあるようになってきた。比べると知的障害は視野に入りにくい。
 でもまず知的な部分についても補える部分はたくさんある。計算が面倒な人は計算機を使うように。そして、ぼつぼつと当事者の運動も出てきてて、言いたいことを言うによってなってる。
 むろん、それで全部行けるかって言えば行けない部分はあるでしょう。計算機じゃ補われないって人もいるし、なんにも言わない人もいる。ただ、まず、日本の脳性まひの人たちの運動なんかは、どこまで実際に一緒にやれてきたかはまた別問題だけれども、基本的には、知的障害の人たちも、どれだけ重度の人でも、運動から切り離さないという構えだったと思います。それは日本の運動の偉いところだと思うんですね。そして、ほんとはなんにもできなくてもOKだというのと、補ってくれれば実はそこそこできるんだというのと、二つは矛盾しないはずです。

山田 それでもやっぱり、すごく分断があるよ。身体障害の子が高校受験で落とされても「能力があるのに体が不自由だからと差別されるのはおかしい」という主張は認められる。ところが能力がない子、つまり知的障害の子は入れなくて当然、と。その分断はどんどんひどくなってる。

立岩 ぼくらの社会では、能力による区別を差別だと言いませんからね。たとえば労働の場では、「仕事のできない人は雇えません」ということになる。このことをどう考えるか。これはこれとして考える必要があるとぼくは思って、それでこれまでそのことをずっと考えて書いてきたんですけど。で、ぼくは、能力によって格差が生じるのは差別だと、つまり悪いことだと言えると思っています。ただ、このことは職場で二人のうち一人採用するとき、仕事ができる方を採用するのはいけないことだと言うことと同じでない。この辺から話がややこしくなり、また二人のうち一人じゃなく二人とも採用するという方向で基本は行くべきだというのももっともな話で、このことは後で言いますが、それでもともかく、職場で能力主義が残るは仕方ないところがある。
 ただ、教育はそれともちょっと違うところがあります。仮に学校は「知力を獲得する場」だとしても、その知力や学力によって人を選ぶのが唯一正しい選抜手段か、という問いがあります。この二つは一見つながるけれど、じつは別。「勉強ができないから学校に来てはいけない」というのには、労働の問題より違和感があるでしょ。ここが一つ考える場合のねらい目です。
 もう一つは、「学校は生活の場だ」と言ってしまうこと。これはもっと突飛に聞こえるけれど、よく考えるとごく常識的な発想かもしれない。一日二四時間のうち、起きている時間の半分以上をこどもは学校で過ごすわけですから、生活の場だというのは、主義主張じゃなくて事実なんですね。となると、いわゆる勉強のことだけで言っていくのはおかしいうということになる。暮らしを大切にするというところから普通学校へ行くというのはもっともな話になります。

山田 障害者運動のなかで、「学校なんかいらない」という議論もかつてあった。知的障害で意思表示がうまくできない子もいるけれど、うちの娘の場合は、三人きょうだいでいちばん学校が好きで、できれば一生学校に行っていたいというくらいです。もちろんつらいこともある。でも、同世代の人たちといっしょに生活する場はそこしかないわけです。まわりの子からみると、同じクラスになればいやでも目に入る、隣に座ればつきあわざるを得ない。最初は違和感があっても、それなりの情がわいてきたり、仲間意識がでたりするんです。
 学校のもつ強制力みたいなもので成り立つことってあって、そこにはこだわりたい。不登校の子には「学校なんか行かなくてもいい」といいながらも、来るなといわれるほうとしてはこだわる。矛盾という人もいるけどね。

立岩 じつはつじつまはあっていると思うんですね。ここは慎重に言わなければいけないけれど、たとえば地域や暮らしの場を「選べない」というところはかなり大切なことだと思う。
 ぼくらは自由が好きだし、自分で選べるのはよいことだと思う。でもこのことと、人を選んでいけないこととは矛盾しないと思います。まずどんな社会に育つか自体を子どもは選べない。どのようにか社会を用意するのは既にそこにいる大人たちであって、それを受け入れることを子どもたちは強制される。このことからは逃れられない。すると、どのような社会を与えるか、言い方を強めれば押しつけるかを考えるしかない。
 そのとき、人が様々いて、それぞれにいる場を与え、様々いてそれぞれにいることを教えるべきだと言えると思うんです。そのことを知り体験することが、人が様々にそれぞれに存在する自由を認めることになる。だから、学校でいろんな人が混ざっているというあり方を保ち続けることは大切だし、「地域」が自分がいやだと思う人も含めている場であることとも大切だし、これは自由が大切であることと矛盾しない、むしろ自由のための条件だとぼくは思う。

山田 同じところに住んでいるから、同じ学校に行くわけで、学校には地域性が必要です。学校が選択性になったりすると、それも失われる。
 障害の問題に限らないけれど、差異は差異として確立したうえで、不平等に扱われないことを求める。これはごちゃごちゃする問題だけど、考えつづけるしかないよね。

┃「障害児の親らしく」をはみでてもいい

山田 障害児を普通学校へというと、「自分の子を障害児だと認めたくなくて見栄で行かせてる」という人もいますけど、見栄で、あんな苦労はできません。風あたりがなく、やることが決まっているという意味では、養護学校に行かせるほうが楽なくらい。
 でもね、養護学校って整然としていて、まわりは全部障害者で、世間とはちがう世界です。たとえば授業をさぼってふらふらするなんてことは、ありえない。親だって、普通はある程度、保護者の権利を主張できるけれど、養護学校では学校に反論なんてできない。「障害児の親」らしい生き方みたいなものがあって、障害児の母親が仕事をもつなんてダメということになる。

立岩 ごくごく原則的なことになるけど、こどもに対する責任はこどもの親が負うべきなのかと、それはそうでないと、まずは言い張ろうよ、と。こどもに対する大人の責任はある。けれども、その責任は親と親でない人と、基本的には、同じであると。もちろん、実際には特定の大人が関わることになるし、それは多くの場合親なのだろうけれども、その他の多くの人も経済的には支援できるし、それだけでなく、いろんな関わり方ができる。そしてそれはただできるだけでなくて、もし親に義務があると言うなら、それと同じだけは、親でない人にとっても義務だということです。
 こういう負担とか義務とかいう部分については、少なくとも「建て前」としては、はっきりしたことを、だんだんと、しゃあしゃあと言えるようになってきたかな、とも思うんです。ただ、親の期待ってそれにプラスしてあって、障害児に限らず、こどもの将来のために一生懸命いろいろするというのをどう考えるかは、ちょっとむずかしい。でも、確率的には、こどもにがんばってコストをかけてもそんなには返ってこない。

山田 宝くじを買いつづける人がいるのと同じだね。

立岩 宝くじよりは確率高かったりするから、そこんとこがやっかいなんですけどね。ただ、みんながんばると、結局みんなもっとがんばらなければいけなくなる。で、二人いて比べてできる人一人だけしかだめってなると、結局、一人は、よけいにがんばっただけさらに損してしまうことになります。会社帰りに学校なんか行って「スキル・アップ」したりしても、結局、会社やめさせられるみたいなね。そんな社会に、すでにいま、なってます。これは自分の考え方変えるとか、価値観転換するとか、そういうことだけでどうこうなるという問題じゃない。だから、大風呂敷と言われようが、非現実的と言われようが、社会の仕組みを変える方向で動く、動く方向を探してみるってことをしなければと思います。
 だいたいいまの日本はこれ以上がんばらないと飯が食えないという社会ではない。人も余っている。「少子高齢化でたいへん」と言われるけど、ぼくは、説明は省きますが、たいへんではないと考えます。危機を言う言葉は、人を多くして競争を激しくさせてそれでよいことがある人にはよいかもしれない。けれど人は既にたくさんいます。外で働けるし働きたいけど働いてない女性の多くは失業者にカウントされないけれど、そういう人も含めれば働き手はいすぎるほどいます。この場合には、仕事のあり方も変えればいいんです。ごく簡単に言えば、一〇〇人のうち八〇人しか働けない社会ではなく、一〇〇人が八〇パーセント働けるようにすればいいってことです。

山田 ところが、みんな貧乏になるのはやっぱり不安(笑)。

立岩 まあね。でも、お金もらいすぎてる人、で忙しいってぼやいている人たくさんいると思うんですね。で、仕事も収入も八〇にする。仕事を得られない人にただお金出すのがもったいないって言うなら、お金といっしょに仕事も渡した方がいいんじゃないでしょうか。それから、忙しい夫がいて外で働けなかった人が働けるようになるでしょ。それ考えると、損な話ではないと思います。

山田 でも「国民性」っていうのかな、三時間昼寝するとか、できないんだよね。

立岩 けっこう大丈夫ですよ。ぼくは勤勉って悪いことじゃないと思うし、この国の人たちが以前から勤勉だという説に反対はしません。だけど、この国の人たちが昔からいまみたいにあわただしかったかというとそんなことはない。もっと落ち着いて、そういう意味じゃ合理的に暮らしてきたはずなんですよ。それが変わってきて、そしてその変化を忘れて、もともと日本人はそうなんだみたいな話になってるってことじゃないでしょうか。
 そういうふうに明治以降、そして戦後以降が動いてきたことに対して、「力抜こう」って言ったことが、六〇年代末以降の社会運動・思想のほんんど唯一偉いところだと思います。そしてそういうものを受けて、障害者運動も変化し、そして元気になり、現実をいくぶんか変えてきたんだと思います。

山田 そうかな。でも、課題もいっぱいあるとは思うよ。「教育基本法はどうであれ、特別支援教育はいい」なんて、大きな文脈でみたらいえないけど、障害者の問題だけを見てしまうとか。どの運動も世代交代がなかなかできないし。

立岩 たしかに難しいことはいっぱいあって、学校の現場とか気が滅入るようなことがたくさん起こっていて、そして世界では…、と考えるとまあ明るくはなれないですよね。でも、多くの人が明るくはないってことは別のものの方がいいと思っているってことでもあって、ではその別のものにしていくのは、たとえば人手が足りないから原理的に不可能かって考えると、不可能じゃないはずなんです。そういうことを私は言っていきたいと思って本書いたりしてるんです。書いたからどうってもんでもないのはわかってるけど、でもいいアイディアだったら、とりあえず考えるだけでも行けるとこまで行ったらよいと思ってます。それが最初に言った、ぼくらの上の世代が言いっぱなしにしてほっといてある話の続きをしようってことです。

(まとめ:高橋姿子[たかはし・しなこ])

■言及

◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》(担当:村上潔)
 「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」


*修正:村上 潔
UP: 20071222 REV: 20181010, 11
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