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北田暁大『責任と正義――リベラリズムの居場所』について
立岩 真也
(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2004.03.07 現代倫理学研究会 於:専修大学
拙著(『自由の平等』)第3章あたりで考えたこととのかなりの共通性、と違いについて。
第一部の記述、というか姿勢というか、について異論はあまりない。
ここではとくに第二部・第四章あたり。ここで北田は何をしているのか。基本なところで、わかるような、わからないような部分が私には残っている。ただ個々の部分の論理は明示的であるので、吟味・批判は比較的に容易である。
・真性の《制度の他者》 ……除外(説得を断念)
(「なぜ道徳的であるべきか」といった問いが思い浮かばない人)
・仮性の《制度の他者》
(「問いに答えてほしい」というある種空虚な欲求を帰属しうる人(138-)
1) 問いの純粋性を保持するために問いを控える ……除外(説得を断念)
2)問いの純粋性を断念しても答えを求める――第一の妥協
↓
・《規範の他者》(特定の自己利益を持つ)
:特定制度への「私」のコミット義務に対する懐疑
↓
・《リベラル》――第二の妥協 この論のまとめは 172-174
↓
…略…
◆《規範の他者》まで
一つの問題は「問い」→「答」についての了解。
「一般的に、問いを発する人は、何らかの形でそれに対する解答が可能であることを前提していると考えてよい。」(140)?? →疑問(そうだろうか)
「解答を得ることによる問いの必然的変質」(142)
答は2つしかないとされる。(143)
1)一般に人は
2)君は… 〜 自己利益
しかし仮性の《制度の他者》は自己利益を有していないので、このような問いの意味がわからない。
ここで生ずるとされる「誤解」とは何か? これがよくはわからない。
その自己利益を有しない人が「なぜ」と聞くとしよう。そうしたときに、その人に対して2)のように答える。しかし、これは問いについての理解を間違えているのだろうか? 「誤解」とはどういうことか?
「自己利益に動機づけられた合理的選択主体の問いとして誤解することによって成立している。」(144)
その人に問われて、「だってその方が得だよ」と答えるのだが、そういうように答える以上は、その人に、損得の勘定があることが前提になっているという。その意味での誤解ということか。そういうことであるならわかった、としよう。
さてその上で、その人は自己利益を有していない。だから、2)自己利益を根拠に答えられても、それはその人にとって答にはならない。このことはわかる。しかしならばここで終わるのではないか。なぜ続くのだろうか。
北田は2つあると言う。
1)問いの純粋性を保持するために問いを控える(145では選択肢a)
2)問いの純粋性を断念しても答えを求める(145では選択肢b)――第一の妥協
1)については、問いを控えるというか、答えてもらっても、それはその人にとっての答ではないから、それでやめるということであれば了解できる。というか、もしその人に「自己利益」が存在しないのであれば、この方向しかない(皆がここで行き止まりになる)ように思われる。しかし北田はそうではないと言う。2)(選択肢b)があると言う。
「選択肢aは、けっして単純な問いの抑圧ではないし、たとえ少数ではあっても《他者》の賛同を期待しうるものである。しかし当然のことながら、「問わない」という悟りにも似た選択は、大多数の《他者》の同意を得られるようなものではなかろう。少なくない《他者》たちは、自らの問いが誤解される宿命を背負っていようとも、許容可能な誤解のラインを模索し、その妥協線上で問いが問われる人と共有されることを願うのではなかろうか(選択肢b)。この政治的な妥協になぜ当の《他者》が及ぶのか、その動機はよく分からない。しかし、もし《他者》がこうした政治に参与するのなら、彼/女に対してはまだ説得交渉の余地がまだあることになる。」(147)
ここが私にはどうにもわからない。答(のされ方)に納得しない人たちはこの問いを発するのをやめるはずだと思う。たんに答を知りたいから聞くということはあるだろう。しかし、出される答を受け入れるに当たって、自ら納得できないことを受け入ればならないというのでは、聞く気になれない。納得できない答しか出てこないなら、聞こうと思わないはずだ。それだったらいやだということになるはずである。
?? わからない。…☆疑問
続けるとは、その後の部分を読んでいけば、
問いを「A一般に人が他者を尊重する根拠は分かる。しかしなぜコノ私は尊重しなくてはならないのか」(148)に変換、変質させることを許容するのだという。この辺りもまたよくわからない。どういうことだろう。?
なぜだか問いを出してしまった。それはよしとしよう。なぜAの問いに妥協するのか。
なぜ「一般に人が他者を尊重する根拠は分かる」とするのか。そしてその根拠は何なのか。それは「その方があなたの利益になる」という答だ(151)。
「我々の《他者》は、自己利益や自己定位的な欲求を持つ行為者とならねばならない。」(150 「ねばならない」に傍点)
この答を受け入れるなら、その人は自己利益をもつ行為者であるとは言える。
しかし、ここでは、本来は自己利益を有しないのに、その問・答を認めるために、自己利益を有する主体であることを認めるという話になっている。答を出してもらい、それを受け入れたいので、自分にとってはぴんとこない話を受け入れてしまうということになる。これはいかにも変ではないか。…☆(さきと同じ)疑問
というわけで幾つも疑問を残すのだが、北田は次に議論を進める。
「慧眼な読者であれば、お気づきのように、ここまでの議論では、彼/女は、「一般に人は従うべきだが……」という部分を承認したにすぎず、Aの誤解された問いに対しては、「コノ私は従わなくてよい」と考えることも許されている。何も彼/女が制度にコミットする必要はない。本人だけが制度を利用できればよい。いままでのところ、そのことを禁じる理由は説得者は提示してはいない。」(152)
こうして議論を先に進める。ここ以降が最も気になる部分なのだが、まず、その手前。ここにいる人たちはどんな人なのか。
ここまで見てことろでは、自己利益を有さないのだが、「なぜ制度に…」という問いに答が欲しいと思っている人で、そう思うがゆえに、自分が有さないものが自分にあることを認める人ということになる。述べたように、私はそんな人はあまりいないと思う。少なくともは北田は、妥協するはずだという見込みについて、それを裏付ける材料を提示していない。このことを述べてきた。
ただこのことは、こういう人たち以外に、自己利益を有する人たちがたくさんいるだろうことを否定するものではない。とすれば、仮にここまでの議論がうまくつながっていないとしても、ここから先の議論を独立して検討してみてもよいということである。
◆「自己利益」を置くことについて
原則、規則への支持をとりつける。
支持の得られ方について。人が支持する、受け入れるべきなのはなぜか? 答えは2通りしかない。というか2つに分けられるだろう。一つに人間的なものである場合(その人の気持ち、価値、利害から受け入れようとする場合)。一つにそれに依存しない(関わりのない)根拠。(拙著第3章のはじめの方ですこしふれた。)
北田があげているのは以上と関連していて、次の2つ。一つは、人は(みな)〇〇である、という論。(+あなたは人である。だからあなたは〇〇である。)北田はこれを、普遍的な原理を最初から言ってしまうものとして、採用しない。むろん、それと別に、すべての人は事実として〇〇であるというところから言っていける場合もありうる。しかしここでは「あなた」について問いが答えられればよいのだから、わざわざ人々は(私たちは)と言う必要はないということは言える。つまり、事実としてすべての人々が〇〇であると言いうる場合はあるが、しかしここでそのことは考えなくてよいということだ。
また事実としてそう言えない場合があるのであれば、この言明は成立しないから、正当化の言説として機能しない。
とすると、ここに残るのは、すべての人々は△△に従うべきだという筋の論になり、これをここでは取らないということである。それはわかる。
天から降りてきたような「原理」に訴えかけるのでなく、別のあり方でということになる。そして問いは、人が(そして最終的には、私が)従うのはなぜかという問いである。となると、その人に(私に)何かがあるから、という答にならざるを得ない。
そういうふうに答えてもらいたいのではないと、その問いを出す人は言うかもしれない。しかし、他にどのような答え方があるだろうか。つまり、私の言い方だと答は「人間主義的」なものにならざるをえないということである。
さて、北田が行うのは「自己利益」に訴えることである。
この辺りからわりあい普通の話になる、とも言えるし、同時にかなり変わった論の立て方をしているとも言える。
普通の話であるとは、この種の議論では、「自己利益」から出発するのが常道と言えるということである。同時に変わっているというのは、(ここでパーフィットの論が引かれるのだが)話の展開の仕方である。
普通の話の方から。北田はかなり標準的に「利己性」を置く。これはどうしてなのだろう。つまり、人間の現実について、もっと様々あるかもしれないのだが、それを除外するのはなぜか。
(それは行きつくべき目標に規定されているだろうか。ここにいわゆる「利他性」を入れてしまうと、より多くを他人にということになってしまうからもしれないから、「等しいものを等しく」にならないかもしれない、とか。
しかしこの契機をそれほど重く見る必要がないのであれば、違うだろう。また、目標をそこに置かなければならないと決まっているのであれば、違うだろう。また、別のものを置いても「等しいものを等しく」に行くかもしれない。)
私がこのことについて本(のやはり第3章)で述べたのは:1)それは人間の現実に近いと思われる。2)目的地に行き着くのが難しいので、やってみようとする。この2つ。
2)は(難しい問題に挑戦してうまくいくと受ける、という)業界的な理由だから、ここでは考えてなくてよい。とすると1)が残る。(他にあるだろうか。あるとすれば、現実はともかく、人は自己利益を追求すべきだということ。後述の私の論にはこのような契機も含まれている。ただここでは、この契機は多分考えてなくてよい。)とすると、人間の現実として、自己利益(を追及する人間のあり方)(だけ)を置くのがよいのかという疑問があるだろう。
次のように解釈もできる。リベラリズムならリベラリズムという原則をまず提出してしまう。次にそれに対する賛同者を募ることにする。(賛同しない人もいるのだが、それはそれとして仕方ないとし、その上でどうするか考えることにする。)――とすると、これは私の議論の線に近い。
そこでいわゆる「利他」的な人はすぐに賛同してくれそうだから考えてなくてよい――ただ私は、ここでも(とくに「強制」をめぐって)考えることがあると思ったので、第3章ですこし考えた。他方、利己的な(と自分のことを思っている)人は数多く、そしてなかなか賛同してくれなさそうでもある。すると、説得すべき相手はその人たちとなる。このような位置づけの話であればわかる。
ただ、必ずしもそのように読めない。規範の「生成」が示されているとも考えられる。「因果関係」が示されているとも読める(ところがある)。
「おそらく、我々人類は、生物学的な進化の偶然的帰結として、たまたま、長期的利益を考慮する能力、自らの欲求のあり方に対して価値づけすることのできる能力を獲得し、その結果、自他の自由権を認めあう道徳的態度を身につける社会なるものを形成してきたのだろう。我々の多くは、自然によってたまたま《規範の他者》のように振舞わない生物として条件づけられたにすぎないのだ。」(171)
「[…](ニーチェのいう「原因と結果の取り違えの誤謬」の内面化)。《規範の他者》の度重なる妥協の結果得られたこの《リベラル》的な感性のことを、我々は、共感能力とか実践理性と呼んできたにすぎないのだ。」(171-172)
「我々はただ、自己利益の増大を目指す《規範の他者》に、長期的な利益の考慮を薦めたにすぎない。自らの「強さ」への不信ゆえに我々の申し出に食いついてきた《規範の他者》は、あくまで主体的・能動的に第二の妥協に応じ、そして堕落したのである。」(172)
説得という書き方とそうでもない部分とが混じっているのだが。上に引用した幾つかはより強い主張になっている。となると、そうした「自己利益の増大を目指す」部分がたしかに私たちにはあるという以上のことを言っているということであり、とすると、その根拠とその妥当性が問われる。そして次に、この論の筋がうまく通っているかが問題になる。
私は、まず(さきに、変わったの進め方だとした)「筋」の方が気になるのだが、それは次の◇で述べるとして、まずは、この論の位置づけについて。
(自己利益を追求する人に対して説得しよう――この場合には、たしかにそういう人はいるはずだから、その事実を前提としてその後を考えようという筋の話は成り立つ――というのではなく、「道徳の誕生」を説明しようというのであれば)最初に自己利益を置くことの妥当性は説明されていない。
◆「自己利益」から行けるかという問題
もちろんここからが困難であることは多くの人たちがわかっていて、だからこそ、様々に論じられてきたところでもある。その意味でこの「飛躍」をどのように達成するのかは、そういう論を立てる人たちにとって、大切な部分になる。
さてそれがうまくいったのか? 私の見るところ、それはうまくいっていないのではないかと思う。
まず、人の長期的利益に訴える。そして、長期的な利益を顧慮するほどの人であれば、他者の利益も顧慮するであろう。そういう議論になっていると思う。しかし、これはうまくいっていないと私は思う。
むろんこれは人の感覚に依存するところがあるのではあろう。北田は、わりあい現在の自分と過去あるいは未来の自分とが違うという意識が強いようだ。しかしまず、そうでない人はたくさんいると思う。そして、違う(別人である)にもかかわらず同じとするなら、他人も(別人であるにもかかわらず)同じように扱うだろうとするのだがこれにも無理があるだろう。
「[4−7]長期的視点を採用しても、自他の絶対的差異にもとづく、自他の非対称性は堅持される。」(164)
この[4−7]が否定されると北田は言う。
その論理は:
1)時間中立的な態度をとる人(現在の私と未来の私を比較し、後者を優先させたりする人)は、過去の私・現在の私・未来の私を別人と捉えている。
2)ならば、他人をも顧慮するはずである。
「遠い過去・未来の自分を他人としてみなすことは、べつだん不条理でもなんでもない、きわめて当然の感覚であるといえよう。」(166-167)
「未来の自分の痛みも、目前でもがき苦しむ他人の痛みも、ともに現在の私の痛みではないという点において、まったく違いはない。」(167)
「ここでの議論のポイントは、自己の未来の利益への配慮と他者の利益への配慮とが、何か絶対に異質なものではなく、いうなれば、相対的な好みの問題にすぎないということを認めさせることにある。」(167)
北田は1)のように思っているようだ。しかし私はあまりそう思えないし、多くの人もそうは思わないだろうと思う。このことをもって説得的でない論であるとされるなら、ここで論は止まることになる。
北田は、痛みの秘私性テーゼに反駁するかたちでこの主張を維持しようとする(168-)が、それは妥当だろうか。「秘私性テーゼは、痛みを感覚する今現在の自己知の特異性(体験と知の不即不離性)をいうだけであって、過去−現在−未来へと貫徹する「同一の人格性」の存在論的特権を何ら意味するものではないのである。」(169)この言明は受け入れよう。しかし、その上でも、上記したことは言える。
*私は、拙著第3章ですこし似た設定のことを論じている(pp.124-、また齋藤編[2004]所収の「社会的分配の理由」でも同じことを書いているが、その執筆終了は2002年6月、拙著第3章はそれをふまえて整理したり足したりしている部分がある。)論は3段になっていて、3つ目(pp.127-)が主要なもの。そこで述べていることは
・私は私が大切である。
・その大切な私の存在のための手段が、私の属性(能力…)によって規定されていることは(実際には十分な生産能力をもっていて、近代的私的所有の体制のもとでも十分生きていくことができるとしても)、私(の生存の如何、その幅)が私の属性によって規定されているということであり、私が大切な私にとってうれしいことではない。私がどんな私であっても、私は生きていけるのがよいと思う。
・ゆえに、私が大切な私は分配を支持する。少なくとも支持する契機を(契機も)有している。
・a:私がどんな私であってもその生存は認められるべきであると主張することは、b:他者がどんな他者であってもその生存を認めることにつながる。(誰かが、あるいは私が、ある人を、これこれの性質・を有している(有していない)がゆえに認める(認めない)としたら、それは、人の生存を条件なしで容認していることでなく、そのときには、私もまた容認されていないということだ。)このようなの論の進め方と、北田が紹介し批判している(154等)Nagelの論との異同を確かめることもおもしろいことだと思うが、ここでは略。)
・これは、自分がどのようなことになるかわからないから、それに備えて…という(読もうと思えばロールズの論をそのように読める)論とは異なる――これは私の場合、3段の2つめの段の論になる。
◇どこが到着点か
むろんここにはどんな規範、規則に応じてもらうかという問題がある。
北田にとっては、それは「リベラリズム」である。
ただ私は、「同じものを同じに扱う」ということがどれほど大切なことであるのか、よくはわかっていない。この原則?については様々なことが考えられるべきであると思っている。どれほど規範の内容を特定できるのかという問いもある。例えばある二人について、私たちはとても多くの同じものと同時にとても多くの違うものを見出すことができるだろう。
私にとって支持されてよいと考えるのは分配である。
◇「全員一致」の断念について
この断念自体は、私にとっては、当然のことであり、全員一致――むろんそれは普通の意味では不可能であって、にもかかわらずそうなったとすれば、そこでは何かが起こっている――をめざすことを価値、目標としない方がよい、と捉えた方がよいと考える。
(どんな人が入らないのか。これは、どのような規準を立てるかによる。例えば、自分にも、あるいはそれ意外にも無関心な人はいる。そういう人は除外されていく。)
その上で、どのくらいの人を、どのような人を陣営に引き込めるという問題、問題設定はある。私にとっては、この設定は、少なくとも一つに、どれだけ私が示す主張に人が応じてくれるかということ。規則、規範の成立・維持に一定の支持が必要なら、支持してもらうことは必要である。また、少なくとも一定の(多くの)人たちがそれがよいものであると思うことがよいことであるから、その規則、規範を主張するのであるから。
北田にとってはどうなのだろう? わりあい深刻なものとされているようだ。普遍性を言えないのに普遍性を潜称するなら、それはよろしくないことであるかもしれない。それを偽るのは不吉なことではあるかもしれない。しかし、私が思うには、そのことをわきまわればそれはそれでよいのではないか。
一つに、北田も述べているように、また私の本では第1章に書いたように、普遍性を言ってしまうことは、つまりは人のあり方について乱暴な仮定、決めつけを最初に置いてしまっていることであって、そうしたあり方と別のあり方をしている人をあらかじめ否定したり、理由を示さず除外したりといった乱暴な行いに通ずることになる。これはよくない。
もう一つは、これも拙著でふれているが、全員の了解をという決定の方式では、ごねる人間が得をしてしまうということだ。
◇他に(あるいは繰り返し)
他に、よく飲み込めないのは、第四章一「ギュゲスの指輪は存在しない?」(127-137)での論。いくつかの要素が混ざっているように感ずる。
道徳に根拠はないことを認めつつ、しかし、それに従うとうまくいくこともあるといって説得するという方法が検討され、それに限界があると言われる。
だが、まず、うまくいくとかいかないとかそんなことに関心のない人にこの種の議論が説得力をもたないのは自明である。だから当然うまくいかない。そして問いが根拠を求めるという問いであった場合に、「根拠はない」という答が答として受け入れてもらえないのも当然である。
あと、私が書いたことも引いてもらっている部分、の辺り。
「《制度の他者》の「堕落」――他者を尊重してしまう傾向性 disposition を持つこと――にはかれらがいうように、本当に何の理由 reason もないのだろうか。[…]《制度の他者》は、理に適った根拠(reasonable-ground)もなく、外的な原因(「快」)にただただ促されるまま自らの理に適った根源の問いを引っ込めてしまうのだろうか。[…]《制度の他者》が理解可能な問いを発するだけの知性と理性とを持ち合せた人間であることを認めるなら、そんなかれらが「堕落」せざるをえない、つまりかれらを何らかの形で他者の尊重へと動機づける内的な理由[…]があると考える方が自然ではなかろうか。要するに、私としては、「《制度の他者》は、なぜか勝手に制度内へと堕落してしまっている」という経験的事実が持つ哲学的・倫理学的意味について、もう少しだけこだわってみたいのである。」(117)
北田自身の論の展開については、これまでに見てきた。ここでわからないのは、上で言われる「根拠」「理に適った根拠」「理由」「内的な理由」(対「外的な原因」…)というものの意味、位置である。見てきたのは、つまりは、その人に想定されるある種の欲求である。それは問いに答を求めようとする欲求であったり、自己利益の欲求であったりした。そのような欲求を持っている(ということにする)ならば、… という具合に論は進んでいった。ここでは後者、「自己利益」だけ取り出して考えるなら、これと例えば「他者利益」と、どのように異なるのだろう。その中味が異なることはわかる。しかし、それ以外の違いが、例えば一方が「内的」でもう一方が「外的」といった違いが、あるのだろうか。
北田 暁大
20031025 『責任と正義――リベラリズムの居場所』,勁草書房,398+36p. 4900
齋藤 純一
編 2004 『社会的連帯の理由』,ミネルヴァ書房(近刊)
立岩 真也 20040114
『自由の平等――簡単で別な姿の世界』
,岩波書店,349+41p.,3100
――――― 2004 「社会的分配の理由」,齋藤編[2004]
UP:20040306 REV:0306
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北田 暁大
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