HOME > Tateiwa >

福祉国家の規範と公共性に関するシンポジュム*のためのメモ

立岩 真也 2004.2.15
*2004年2月14日(土)/2月15日(日) 於:立命館大学衣笠キャンパス



◇私の基本的な論点は、述べた通り。ただまったくの概要でしかないため、その中味については拙著『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(2004/01/14,岩波書店,349+41p.,\3100)を参照のこと。以下、今回の東京大学出版会の本*に関わりいくつか。

*塩野谷 祐一・鈴村 興太郎・後藤 玲子 編 20040116 『福祉の公共哲学』,東京大学出版会,公共哲学叢書5,336p. ISBN 4-13-051119-X 4200 ※ [kinokuniya]

◇分配の存在性格について

 第3章(塩野谷)の論について。またそれと補論2(後藤)pp.310-311の議論との差異。

 「実際しばしば喧伝されるこの種の論法はかなりのところまで行く。しかし行き止まるところがある。第一に、人は自分と他人のことをいくらかは知っている。いつも無知・未知だとするのは無理な想定である。第二に、すべての人がそのような合理性を有しているとは限らない。全員の支持をとりつけることを条件とするなら、それを満たすのは無理である。第三に、ここから強制を支持することは難しい。自らのための蓄えと保険は、強制力を介した分配の機構がなくても成立する。不確定の将来を考え自ら保険に加入するのは合理的な行いだが、他方に希望しない人もいるだろう。その人にも加入を強制することは正当化されない。じつにしばしば間違えられるのだが、民間保険の合理性とそれを公的保険とすることの正当性とは同じではない◇04。」(拙著 p.127)

 「◇04 社会福祉・社会保障を贈与でなく保険と捉える考えの限界について[1995a:230-231][2000a:(上)70-71](「自分のためにという説明の効力とその限界」)で述べた。公的年金保険・医療保険を正当化する経済学の論では、非加入者の医療や生活を結局税金で賄わなくてはならなくなること、そして非加入者はただ乗りの利益を得てしまうことが言われるが(島田・清家[1992:173]、橘[2000:84][2002:147]、等)、それは公的扶助等の社会的分配の存在を既に前提して言えることであり――むろんその限りでは当たっている――社会的分配そのものを正当化する理由にはならないこと等を述べた。
 […]
 原初状態における社会契約について言われていることを現実を持ち出して批判すべきでないという主張は塩野谷[1984:446]にも見られる。しかし、この主張と同時に当人のリスクを基底に置いて社会保障・福祉を正当化しようとするなら、つまり本文で二番目にあげた主張を行うなら、論理の整合性が問題になる。そしてこの正当化は成功しない。菊池[2000:252-253]に関連する記述と、保険として社会保障を基礎づけようとする塩野谷[1997]等の文献の紹介がある。齊藤[2001:32,42]でもこの主題が取り上げられ、井上[2003b:204]にはドゥオーキンの「仮想的保険市場」(第4章注2)について私の主張と同じ指摘がある。もちろん「セーフティネット」はけっこうなものではあるのだが、その位置づけが大切であり、それを支持する論理を間違えてはならない。貧困の状態に置かれる人に対する制度から所得の多寡に関係なく誰もがサービスを受ける制度に社会福祉が変化していると言われることがある。そう捉えられる変化があることを否定しない。例えば生活保護が政策全体に占める割合は減少している。しかしこのことをもって贈与の要素を軽視してよいと考えるなら、それはちがう。義務を本質的な規定としないものを中核に置くことは義務としての贈与という契機を弱めることになり、実際に保険の原理で制度を運営するなら義務という性格は壊れてしまうだろう。保険の機能を拡充し、ここに述べている分配をその中に含みこむようにした方が人々の支持を得られるという考え方には一理あるとしても、また「互酬」という言葉の口あたりがよいとしても、社会が義務を負うことの意味がどこにあるのかははっきりさせるべきである。」(pp.320-322,第3章注4)

◇「責任」について

 第7章(長谷川)と第10章(盛山)
 そしてこの論点は第11章(新川)にも関わっている。
 cf.拙著第4〜5章

 「一つに悪、責任という主題がある。[…]/このことについて私はこの本で何も書くことができない。ただ、たんに分配の問題として語れるものをそれ以上のものにする必要はない、少なくともいったんは分けられるべき二つを一緒にすれば、それはかえって分配の問題として語るべきでない正義の意義を薄めさせると考える。これは、分配されるものとされないもののどちらを見るかは異なるものの、分配の問題として正義が語られることに対する批判と共通する部分がある。私は分配を自己の行為の結果を自らが負うという自己責任の枠で考えること自体に問題があると考える。労働の成果の供出は責任を負い義務を果たすことの一部だが、それはすべきでないことをしてしまったことを責められることと同じではない。」(pp.291-292,序章注15)

 「生産物の取得という図式があまり不思議に見えないのは、一つに、私たちにしても努力・働きと報酬との対応を(ただ、後の述べる別の理由で)認めることにもよるのだが、それだけでなく、悪をなした者に責任を帰すという帰責の構図を財の帰属・所有の問題にも当てはめてしまって考えている、あるいはそのような構図で説明されるとそうかと思ってしまうことによるかもしれない。つまり、自分でなした悪事については自身が責を負うのが当然であり、財の帰属もそれと同じではないかというのである。自分が意図的になした行い――ただ犯罪を一様に扱うこともできず、ここでは人の存在の棄損・加害を想定している――の責任を追及し罰することから逃れることはおそらくできないし、逃れるべきでもない。このことは認めよう。ただ、リベラリズムは労働と取得についても同じような図式で考えているように思われるのだが、これはそれでよいのだろうか。これは正義について考えるときに大切なことのはずだ(序章3節8)。ここでは以下をまず記しておこう◇08。
 ある人が他の人に害を加えたとき、その出来事はその人がそれを決めて行わなければ生じなかったことである。対して、生産について起こることはそのようなことではない。誰かに必要なものの多くは、もちろん自分でなくても誰かがと皆が思って誰も働かなかったらそれは困るのではあるが、その人でなければ作れないものではない。その人のあり方を棄損する行いと、人々に役に立つものを作る行いとを同じ水準で考えること自体、考えてみれば当然のことではない。一方はその人の存在の水準に関わり、他方はそのための手段の水準にある。もちろん手段が十分でなければそれは生存の可能性にそのまま関わるが、そうでなければそうでない。だから二つをいっしょのものと考えることの方が不思議なことだと言ってよいはずだ。」(pp.218-219)

 私は機会の平等を否定してはいない。しかしそれに限界があること、このことをふまえずにこれを言うのであれば問題があることを第4章、第5章で述べた。特に第5章1節3「支払い失うものがある」、4「格差はなくならない」(pp.219-227)を参照のこと。

◇リバタリアニズムについて

 こんどの本の第8章(森村)は、基本的に帰結主義的な視点からのリバタリアニズムによる福祉国家批判が紹介されており、これらについては一つ一つ検討し、ある部分については受け入れつつ、検証・批判していけばよい。そして「最も基本的なレベルの福祉国家批判」を著者自身が受け入れていないのでその意味では私の論との対立は生じていない。
 「最も基本的なレベルの福祉国家批判」に対する批判については拙著第1章。

◇議論の位置について〜「距離」の問題について

 リベラリズム、コミュニタリアニズムの立場(あるいはいずれでもない立場)をとるという言い方で何が実際に言われているのか。あるいは民主主義、合意の位置づけ。これらの点についての自覚はどの程度のものか、という疑問。
 ある規範・制度の成立の事実的な成立(また維持・安定)の可能性の問題が一つにある。これはたしかに規範・制度の実現可能性を考えた場合、考慮せずにすませることはできない。また人々が(それなりに)承認できるものであること自体が制度の正当性に関わるという立場もあるだろう。これらのことについて、私は拙著第3章で考えてみた。
 2つの立場の相違は一つに「距離」に関わる。

 「人が近くにいればその人のためにという気にもなるだろうが、そうでなければそんなことは思わないではないか。それなのに普遍性を持ち出すのは空疎であるか欺瞞的ではないか。こうした疑念がある。それは先に述べた実感主義の一つでもあるのだろうが、単なる流行と片付けられない。これは、リベラリズムが人間一般のようなものを持ってくることの虚構性を突き、人間をその具体性において捉えるべきことを言う共同体主義の主張をどう考えたらよいかにも関わる。
 これは分配を行う単位、範囲として、国家は適切なのかという問題にも関わる。この単位に居直り、地球大の社会には現実性がなく、にもかかわらずそれを言うのは空虚であり、依拠できるのはせいぜい国家ぐらいなのだと、だから国家でやっていくしかないのだと言ってしまう人もいる。他方の、なにかと乱暴に国家を持ち出すのに賛成できない人はそうは言いたくない。最も遠い、距離を測ることもできないような他者との遭遇の可能性を考えたりもする。だが、そんなこともあったらよいし、実際あるにしても、いつもはそうとはいかないだろうと思ってしまう。動機の希薄化を懸念し、国家が介在することがかえって贈与に対する動機を薄くし、分配を妨げるのではないかと言われることもある。贈与の意義を実感させ、現実の支持を得るためには、やはり関係の直接性が必要ではないか。国家という単位では既に大きすぎ、国家が分配を担うようになったことで連帯の力が弱くなってしまっていると、さらに小さい単位を支持する方向に行こうとする人もいる。
 しかしそれは単純すぎるのではないか。もう少しは複雑になっている。近づくことと距離をとることは運動としてある、連続したものだ。また同じことと違うことも単純に対立するものではない◇10。その人がいて経験されるのはたいていの場合、格別に近いという感覚でも、かといって隔絶した存在の現われでもない。その他者は、ときに本当にとんでもない人であることもあるのだが、たいていは予想の範囲内にある。他者とはあなたにとっての私のことで、そう大仰に語るほどのこともない。そして、あの人はたいした人物ではないとかどうしても気にくわない人物だとか私は思う。そしてそのように好きだったり嫌いだったりするあり方は消えてなくなることはないのだが、そのように現われているときに、それだけでない存在として他者がいることを知る。
 一つの間違いは、差異によって他者を規定しようとすることだ。[…]
 ここで起こっていることは、私の経験ではあるのだが、その私が経験するのは、私の外側に存在するものがあることだ。そしてこのことを知るのは、一人と一人の間の関係においてのこともあるが、それだけでなく、複数の人々が複数の関係を結び、いる場所によって見る場所によって様々に異なることから、また個別の人に対する個別のあり方が、既に小さな集まりの中でも様々に波及し振動していることを知ることからでもある。
 そのようなあり方はどこまで届くか。その人との距離が遠いなら無理なのだろうか。そんなこともないはずだ。もちろんその一つは、距離は物理的な距離と等しくはないということ、知ったり交信したりする媒体の変容も関わりながら、一方で私たちはとても遠いものに現実感を感じることが実際あるということだ。[…]
 その人をその人として認めるとき、むしろその人から遠ざかろうとする。距離を置くこと、人を一様に扱うことは、その私性を控えようとする意志に支えられている★12。具体的な関わりが求められている場合もあるが、いつもそうではない。近いがゆえに抽象的に承認しなければならないということもまたある。だから分配として行われることは、基本的に自動的な過程としてなされる方がその本義に適っており、望ましい。受け取る側でも、人の姿が希薄であることはよいことである。一人一人の自発性がただの生を支持する無色のものであればよいが、なかなかそうはいきにくい。公式的で形式的で安定的であった方がよい。国家をもってくる理由がここにもう一つある。国家による徴収・分配にはそういう性格がある◇13。つまり国家は冷たい。だからそれは選ばれる。距離をとることは、その人がその具体性において承認されるべきことと矛盾しない。」(pp.140-144)


UP:2004  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
TOP HOME (http://www.arsvi.com)