*この文章は、注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。
社会科の教科書でその名前をかすかに覚えている人もいるかもしれない。『市民政府二論』(岩波文庫版では『市民政府論』)という本を書いた人が亡くなって三百年なのだそうだ。そう言われて、たしかにその人は、英国で「名誉革命」があった時代、江戸時代が始まって百年たったあたりに活躍した人だったと思い出したら、もうたいしたものだ。
彼はその革命を支持し、正当化した論客だった。自身は清教徒だが、宗教的寛容を主張した人でもある。寛容というアイディアが今どれだけ使えるかも気になる。また米国の独立宣言はこの人の言ったことと多く重なるのだが、あの不思議な国のことを考えてみる上で、彼の思想を検証するのも必要なことかもしれない。だがこれらはなかなか難しいテーマだ。私自身の関心にとって、ジョン・ロックは、社会の大きな変わり目で、何を誰のものとするかのきまり、つまり所有権の規則を変えようと言った人である。人が生産したその産物はその人のものだ、それをこれからのきまりにしようと言ったのである。
それまでの社会では、一方で、働いているように思えない身分の上の人たちが代々財産を継いで富を増やしている。他方で、働いているのに何も自分のものにならない人たちがいる。その社会で、彼の主張はとくに後者の人たちに支持されただろう。それは私たちの社会の基本的な規則、価値となっていく。
けれど、身分ですべてが決まってしまう社会がよくないのはたしかだとして、その代わりに彼が主張したことが、また近代の社会がよしとしたものが、よいとは限らないではないか。そう私は思ってしまう。
ただここではすこし別のことから言おう。彼にはなんだかかわいいところがある。さきの本の中で、生産者による所有が制限されてよい条件を彼はあげているのだ。一つは、ある人が取っても、他の人にも必要なだけが残っていること。一つは、腐らないだけは持っていてよいが、腐って使えなくなってしまうほど持ってはいけないこと。
それでも、彼はこの条件によって所有についての自説を後退させることはしない。一つめについては、土地はたくさんあるから、どんどん開墾しても、かえって社会の富が増えるだろうと言う。二つめについては、産物を人に売って貨幣にすれば腐ることはないから、そうして財を増やしていくのはかまわないと言う。こうして、結局、彼の主張は私たちの時代に近づいていくのではある。ただ、おもしろいと思うのは、またかわいいところがあると言ったのは、まずは慎ましい制約条件を立てて、まじめにそれを論じていることである。それは、今から見ると、なにかまだ牧歌的な、穏当な感覚であるように思える。
さて、現在である。今進んでいるのは、所有権の拡張、膨張である。たとえばある企業の研究所が人の遺伝子を解読したら、発見したその企業に特許権が与えられ、その情報を利用した生産物からあがる利益もそこに帰属するのだという。またたとえばコンピュータのソフトなど、いくらでも複製の可能なもの、多くの客に提供できる商品について、開発者が権利を独占できるなら、大きな利益が得られ、実際そうした部分に富は集積されていっている。その傾向を私たちの社会は受け入れ、それに乗り遅れないようにと、たとえば知的所有権の法制をもっと強化しようとしている。
彼は社会がこうなってきたことをどう思うだろう。かまわない、と言うかもしれない。あるいは、彼が本のなかで持ち出した、今ではかわいく思える制約条件に立ち返るかもしれない。また彼自身はともかく、もっと分散された所有形態、人々の身のほどにあったところがよいと考える人もいるだろう。実際、ロックの思想は富が一箇所に集中していく状況を肯定する方にも解されたが、労働者が上前をはねられているからもっと労働者に、という主張にもつながってきた。ただ私は、とりわけこの期に及んだらやっておいてよいのは、彼が言った方向でこれからも行くかどうか、基本から、考えることだと思う。それで考えてみると、彼のように言う必要はない。そのことを本を書いてきた。私は彼の論に正面から反論しようとしてみたのだ。人は、最も基本的な水準では、働きに応じて財を得られるのでなく、人の存在とその存在の自由のために財を得て使える方がよいと述べた。それは彼にまったく理解されないだろうか、あるいは理解された上でとんでもないと言われるのだろうか。わからない。それはどうでもよい。ともかく、彼もそうであったように、その時代に考えるべきことを考えることが考えることだと思う。
*大阪文化面に掲載
■教材・模試入試問題での使用
◆2009年度 椙山女学園大学 入学試験・国語
全文 http://nyushi.sugiyama-u.ac.jp/guide/keikou/kokugo.html
◇Locke, John[ジョン・ロック]
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/locke.htm