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公共性による公共の剥奪

立岩 真也 2005/02/10 『談』72:39-62(インタビュー)
→2014/11/23 公益財団法人たばこ総合研究センター編『談100号記念選集』,水曜社,pp.108-120


 ●曖昧にさせる語としての公共

……ご著書の『自由の平等 簡単で別な姿の世界』を面白く読ませていただきました。この本では、「公共性」に直接言及しているわけではありませんが、いくつか論点が重なるように思います。そこで、繰り返しになるとは思いますが、この本に則して、「公共性」について立岩さんのお考えをお話いただければと思います。

自由の平等

 たとえば「正義」について、正面から語ることが厭わしいことであるという感覚がここ何十年かずっとあったと思います。先が見えているとか、行き詰まっているとか、そもそもそういうことを語ること自体がかっこ悪いみたいな、そういう風潮がずっとあったと思うんです。その気分はそれとしてわかります。けれども、いまきわめて野蛮に正義を語ってしまう人たちの言うことを吟味し批判するためにも、ただ避けていればよいということにはなりません。そういう中で、正義だとか公共性だとか「規範的な主題」が語られるようになったのは、それ自体は悪いことではないし、必要なことだと思います。  ただ私は、自分が書いたものの中で「公共性」という言葉を、これまで一度も使ったことがないと思う。とくに意識的に使わなかったというわけではないんですが。けれど、「公共性」というのは何か漠然とした言葉ですよね。何について語っているのか、何について議論しているのか、よくわからない。たとえば、世の中にあるものをどういう形で分けるかという主題なら、何の話をしてるかはいちおうわかるでしょう。ところが、それを「公共」と言ってしまうと、わからなくなるんです。
 ちょっと前に東京大学出版会から『公共哲学』というシリーズが出ました。例えばああいうものをながめてみると、たしに今そういうことを議論しようという流れが出てきつつあるなということはわかります。それはよいことだろう。でも、その中身になるとやっぱりよくわからないというのが正直な感想です。
 もう一つ言うと、「私的」なものと「国家的」なものがあるとして、「私的」なのものにも限界がある、だめなんじゃないかみたいな感覚があるでしょう。一方、国家とか政府とかそういうものに対するアレルギー、警戒感というようなものもある。そうすると、「私的」なものと「国家的」なものの真ん中辺りに「公共的」なものを想定する。「公共」という言葉は、曖昧な言葉でありつつ、同時になんとなく両者の真ん中ぐらいという雰囲気を醸し出す言葉でもあるわけです。
 でもやはり、依然としてあいまいではある。たとえば、国家のことを考える時に、どこまでなら国家にさせていいのか、どこまではさせないのか、そういう議論をやはりちゃんとした方がいい。その方がクリアになるし、生産的に議論ができると思うんですよ。けれども議論はそういう当然の方向に行かない。NPOの活動が大切、みたいな話になって、それが繰り返される。私も民間・非営利の活動が大切であることに異論はありません。それは大切です。しかし、それとともに、国家に、また市場に、どこまでのことをさせるか、させないかを考える必要がある。こうした当然のことがいつまでたっても論じられない中に、「公共性」なる言葉が位置づいてしまっている。

 ●先に「分配」から考える

……前著『私的所有論』の主題であり、今回の著書も所有権について触れておられます。一度も「公共性」という言葉を使われなかったにせよ、ある意味では「公共性」という概念をあぶり出そうとしているように思えます。

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 ●生産財の所有について

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 ● 労働の分配

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 ●「搾取」について

……たとえば、七○年代まではマルクス主義なり社会運動なり、そういう言葉を使っていろいろ考えてきたわけですが、今はあまりそういう議論もない。

 さっき言った「働ける人が…」というアイディア、百何十年か前にマルクスが言ったことでもありますよね。ただ、マルクスなりマルクス主義の議論の中にはそれとまた別系統の話があって、むしろそれが主流だったわけです。つまり「搾取」という話です。
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 ●「機会の平等」の出自と限界

……能力には差があるという話ですが、僕もこれはそもそも近代主義的な発想だと思っています。おっしゃるように、能力が劣るのであれば教育なりなんなりで能力を引き上げる、それによって労働力を確保するというのは確かに無理があると思います。第一問題は労働力の過剰ですから。立岩さんは、その差を当り前のものと見做して、むしろ何か別の仕組みを考えた方がいいというご意見ですか。

 現在の政治哲学とか厚生経済学は、社会の基本と関係する規範、正義、分配というような概念をきちっと議論してきて、その蓄積があります。そして、戦後的なリベラリズムは、いわゆる新自由主義、ネオベラリズムと言われるようなもの、いわゆる市場万能主義というものとは違うものです。例えばロールズなどが言っていることには、平等主義的な色彩がかなり強いです。そうした蓄積は立派なものではあるんですが、その蓄積をそのまま持ってこられるかというと、それはもうできないだろうというのが僕の考えです。そのことを『自由の平等』の後半で書いています。
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 ●保険という論理も使わない

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 ●無理に合意があることにしない

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 ●根拠について

……しかし、どうなんでしょうか、あなたは本当のところ何が言いたいのか、などと問い詰められていくと、じつのところよくわからないということはないですか。その根拠は何? とどんどん問われていくと、結局わからなくなってしまうとか……。

 根拠を問われてわからないなんてことはいっぱいあると思うんですよ。それはしかたがないんじゃないかな。たとえば、人間はどう生きていくべきか、なんていう話になったら、私にはまるでわからないし、答えを出しようがない。それはそれでしかたがないと思う。私は社会とか人生とか生きていくこととか、そういうことをすべてわかりたいとか、わかるべきだとかという気は全然ないし、そういうことをしようとも思っていない。
 その意味では、ある種の社会学のように、ありとあらゆる社会現象を解説・解釈してみせましょうといった態度を取ろうというのではない。「べき」を考えるという営みは、実は、人の心理を解剖し解説してしまおうとする流れに比べたら、ずっとお節介でない営みだし、説教がましくない営みだと思います。
 さて、この程度でも、少なくとも「分配的正義」については、自らの立場を定め、主張することは十分可能だというのが私の考えです。つまり自分がなんであるか、人生とはなんであるか、そんなことがわからなくとも社会にある財の分配のあり方について意味のある主張は十分可能だと思います。むろん話はそれで完結はせず、それで仕方なく考えていくと、自然にややこしいところや難しいところにいくことにはなります。ですから厄介なことはあって、考えるしか仕方のないことはある。しかし、それでも、わからないことはたくさん残るだろうし、ほとんどの場合、それはそれでかまわないはずだと思っています。

 ●他者がいると「気持ちがいい」

……その時に、他者というのはどう措定されているんですか。本来他者というのは、こちらの意向にまったく左右されることなく、関わってくる存在ですよね。

 『私的所有論』で、自分と違う他人がいるというのが自分にとっては気持ちがいい、そんなことがあると書いてみたわけです。この感覚というのは、何も特殊なことではなくて、普遍的なものだと思っています。と同時に、他者が自分の思いどおりになってくれればいいとも思っている。そもそも矛盾があるんです。どちらも普遍的なことだと思うし、どっちもありなんです。その上で、どちらがより基本的なものなのかという問いはあります。
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 ●自由について

……そうすると「自由」の問題が浮上してきます。私たちが「自由」という場合、それはどちらに帰属するものなのか。

 自由が肯定されるべきものであるとして、どんな状態のことを自由と呼ぶか、呼ぶことにしようかということです。
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 ●「承認」の流行について

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 ●欲望の複数性と楽観主義

……あまりそれを強調しすぎると、単なる楽観主義と思われてしまう。そのへんのさじ加減はちょっと難しいですよね。

 まあ、基本的には楽観主義でいいとは思っているんですけどね。それと、人間は単一の欲望で動いているわけではないということをもう一つ確認しておく必要があると思う。そもそも、あれかこれか、一かゼロか、ときっちり分けて考えられるものじゃないですよね。六:四とか七:三とかでどっちももっている。あるいはもっといろいろ、複数あるかもしれない。欲望が複数あること、それが当り前だと思うんです。
 ただ正義とか肯定的に語る人、またとくに懐疑的に語る人、いずれも、人間って結局こう、みたいな語り方をしてしまうところがあるように思うんです。そして社会のあり様を変えたいと思うんだったら、人間もまたとことん変わらなければならないみたいな話になって、しかしそんなことは無理だという話になって、無理だからこのままで行こう、行くしかないみたいな話になってそれで終わってしまう。それはつまらないです。
 欲望には複数あって、その中のどれが表に出されるか、強いものだというふうにされるかは、いろいろな事情によって変わってくる。あるのにないことにされる場合もあれば、それほど強くないものなのに強いものだとされてしまうこともある。とすれば、その配合みたいなものをすこし変えればよい。例えば当然でないとされていることを、いろいろ考えてものを言って、じつはかなりもっともなことだと主張する。そのことによって、それを支持する力がすこし強くなる。そんなことです。私と他者との存在を支持する力とそれに拮抗する力とが、四:六であれば死んでしまうんだけれども、六:四ならば生きていられるといったことがある。
 こんな意味で、私は悲観的ではない。むろん未来について悲観的であるべきもっとも理由は多々あります。けれども、最低、安直で怠惰な思考のために悲観的であることは避けた方がよいし、避けることかできると思います。

……今日は、長い間ありがとうございました。(2004.10.08)

■cf.

◆立岩 真也 2005/03/20「<公共>から零れるもの」,第59回公共哲学京都フォーラム「ジェンダーと公共世界」→立岩・村上[2011:]*
*立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04


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『自由の平等――簡単で別な姿の世界』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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