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「少子高齢化は「大変」か」他

立岩 真也 2007

『高等学校 新現代社会改訂版』
清水書院
http://www.shimizushoin.co.jp
http://www.shimizushoin.co.jp/19kaitei/ge022.html

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このコラムの解説/◇人口・少子化・高齢化

       ■少子高齢化は「大変」か
       ■政治は何をやるべきか
       ■何を、どう配分するか
       ■世界は世界を救えるか

       *題は出版社がつけたものです。

 
 
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 ■少子高齢化は「大変」か解説

 出生率が低下して大変だ、高齢化が進んで大変だ、だから出生率を上げなければとよく言われる。第一に、大変だというのは本当か。第二に、このことで騒ぐのはよいことか。
 第二点から。子どもを育てるのは楽しいことだが大変なことでもある。そこを社会が手伝って親の負担を減らすのはよいことだ。けれど、それが人間の数を増やすためということになると、畜産の話でもしているのかと思えてしまう。そして、ここでは要するに働き手を増やすことがめざされているのだが、生まれる人みなが働き手になるわけではない。その人たちは居づらいと思う。また働くのをもう終えた人も居づらいことになる。また、子どもをもちたくない人もいるし、もてない人もいる。そうした人も居心地がわるくなる。こうしたことを考えると、人がいないから人を増やせという言い方は上品ではない。
 しかし第一点がある。つまり実際に大変なら、下品になるのも仕方がないかもしれない。では、実際に大変なのか。まず、地球的な規模ではむしろ人口の増加の方が心配されている。他方、この日本という国には人口の減少を心配する人がいるのだ。まず、この両者はつじつまが合わないのではないか。人口の増加は「途上国」の問題で、日本は別だろうか。だが、もし環境のことが問題であるのなら、「先進国」日本の国民の一人当り消費量・排出量は少ない国の人に比べると何十倍にもなる。また、人口密度の高い日本でも過密な地域に限ったことだとはいえ、土地の価格の高さ、住宅の狭さ、一人当りの公園等の面積の狭さ、交通渋滞、通勤地獄、等々の難しい問題の多くは人間の数に関わる。もちろんわざと人の数を減らす必要はないし、子どもがたくさんほしい人はそうしたらよいだろう。しかし少ないなら少ないなりによいこともある。
 高齢者の割合が高くなっているのは事実で、これからもっと高くなるのも確実ではある。けれども、これから高齢者の割合がずっと高くなっていくというのは誤解だ。第二次世界大戦終戦の1945年以降、1950年代初めまでに生まれたいわゆる「団塊の世代」、「ベビーブーム」の時に生まれた人たちは数が多く、その後は高齢者になる人自体が減っていって、高齢者の割合はほぼ一定の値に落ち着く。今の高齢化は歴史上ただ1回だけ起こることなのだ。だから、これから50年くらいの間をなんとか乗り切って、うまいやり方を見つけてしまえば後はなんとでもなるはずなのである。
 たしかに人々が暮らすためには働かなければならないし、その人手は必要である。それについてはまず、高齢者すなわち働かない人、助けを必要とする人ではない、という反論がある。この反論は正しい。しかしみながみないつまでも働き続けようという社会もすこし窮屈だ。そして年齢が高くなれば、介護などを必要とする人の割合が増えるのも当然だ。だからたしかに、高齢者でない人たちが高齢者を含めた社会を支えなければならない。このことは認めよう。だがそれがそんなに大変なことなのか。それに平然と対処できる社会を作れないほどに私達は愚かなのか。
 生産性が低い時代に人を支える負担とそうでない時代の負担とは同じでない。以前なら何人分もの労働で生産されていたものが、いまは1人ですんでしまい、むしろ人が余ってしまっているのが現実である。失業は景気がよくても生ずる。もちろんその人のやる気の問題でもない。そして専業主婦など、失業者として計算されない人にも、外で働ける人がたくさんいる。働けて働きたい人を十分にこの社会は活用していない。だから、働く人が足りない、これから足りなくなるというなどという話の方を、本当なのかと疑ったらよい。税金が増えることを心配する人もいる。しかし、たとえば介護という今までただでなされていた仕事はそのままで、それに税金を使ってお金を出すことにしても、払う人もいるが受け取る人もいるというだけで、全体としての損失はない。するとなぜ少子高齢化で騒いでいるのかの方が不思議に思えてくる。


 
 
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 ■政治は何をやるべきか →解説

 大人たちから、若者は政治関心がない困ったものだと、いつの時代も、言われてきた。しかしどうだろう。政治が好きな人には攻撃的な人が多いかもしれない。また、自らの利益を増やすために政治に関わる人もたくさんいそうだ。それらはよいことではないかもしれない。また緊急に対応しなけばならない出来事や、「強い指導力」が必要な事態もない方がよいように思える。本来なら政治がすることが少なく、政治に無関心であれた方が望ましいかもしれないのだ。
 しかし、いろいろなことが起こってしまうこの社会では、多くの人が無関心だと、困ったふうに政治に関心をもつ人たちばかりが政治を動かすことになってしまい、結果として望ましい方向に行かない。とすると、そんなに気力もないのに、仕方なく政治に関心をもたないとまずい。そこが難しいところだ。
 ただ、政治好きな人人たちとは別に、さめたところから、政治について考えることは、仕方なく必要というだけでなくおもしろいことでもあると思う。教科書には政府が行なっていること、行なうことになっていることがたくさん書かれているが、それはそれとして、政治は何をし、何をしないのがよいのか、考えてみたらよい。なんでも民間でと言う人たちが刑罰は厳しくするのには賛成だったり、自由貿易に賛成な人たちが人が国境を越えてやって来ることには反対だったりする。わけがわからないから、考えてみるのである。
 経済学では、市場経済がうまくいかないところ、市場にまかせない方がよい場合に政治が登場するというふうに言う。そのような筋で考えてもわるくはないのだが、もっと単純に考えてみてもよい。政治が決めることがそれ以外で決まることと違う一番大きなことは、政治には強制があるということだろう。税金は払いたくなくても払うものだ。払わなければ脱税で罰せられる。だから、私たちは政府に何をさせるかを考えるなら、人を強制してでもすべきことは何かと考えた方がよい。例えば税金で様々な施設を作っている。それはたぶんわるいことではないが、ほかに比べてよいかどうかはわからない。また道路も、かつて本当に道がなかったころはともかく今どきの道路はどうしてもいるというようなものではない。反対というほどではないにしても、賛成でないのに使われるのはよくないというのも、もっともな考えかもしれない。むしろ、ほしい人たちがみなでお金を集めて作ったり維持したらどうだろう。
 しかしそれでは、お金のない人はお金を出せないし、使えないではないか。この指摘は一理ある。これは大切なところだ。一人ひとりが暮らせるための条件を社会は用意するべきだとしよう。それは善意によって用意されるのでなく、義務としてなされるべきことだとしよう。つまり、負担したくない人も負担すべきこと、強制されてよいことだとしよう。するとそれは政治がきちんとやるべきことだということになる。
 そうすることにして、その結果、一人ひとりはだいたい同じだけのお金をもっているとしよう。さらにもっときちんと筋の通った案を考えるなら、身体等の状態のために他の人より余計にかかってしまう部分はそれに合わせて増やし、ほぼ同じ程度の暮らしが可能になるだけもっているとしよう。すると、格差の問題はなくなったので、今度は各自がそのお金を持ち寄って、なにかを作りたい人は作ればよい、ということですむように思える。道路のように一人ひとりから料金を取るのが難しいものは政府でという考え方もあるが、技術も発達しているし、お金の個別の徴収も可能な場合もあるかもしれない。
 このように考えれば、政府はお金を分けることに徹するというやり方もありそうだ。大きな政府は効率がわるいといってよく批判されるが、この案では政府という組織自体はあまり大きくならないから、その批判は効かない。たしかにこれは極端な案だ。しかし案としてはありうる。次にその弱点を考えればよい。むろん他の考え方もあるだろうから、それを考えたらよい。


 
 
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 ■何を、どう配分するか →解説

 教科書には覚えきれないほどたくさんのことが書いてある。書いてあることをみな知っているのは社会科の先生ぐらいだ。そして、教科書を書く人も、教える人も、試験をする側も、議員の定数だとか法律の正式名称だとか、すべてを記憶する必要がないことはわかっている。(もしかすると知らないのかもしれない。それはさすがにまずいから、わかってもらう必要はある。)
 けれども覚えさせられる。試験に出るからだ。なぜ出るのか、出さなければよいのではないか。その通りだ。だが代わりにどうしたらよいのだろう。これがけっこう難しい。例えば大学入試は人物で選んでほしいと言う人もいる。しかし立派な人物でなければ大学に入れないというのもおかしな話ではないか。もっと論理力などを試すような問題がよい。これは正しい。しかしなかなか難しい。問題を作る側にも論理力がなければならない。こうして選ぶ方もなかなか難しいのである。
 さて次に、なぜ学校に行くかと言えば、勉強がしたいというよりは、仕事に就くのに有利だと思っているからだ。しかし「実社会」では役に立たない知識の有無で人を選ぶというのも不思議なことではないか。今度も選ぶ側に立って考えてみよう。何を基準して選んでよいか、実はその人たちもわからない。しかし無理しても選ばなければならない時、他に手がかりが何もなく、また学力が仕事の能力とまったく無関係でないとすると、他にないからこれを使うことになる。
 これらはみなよい方法ではないが、使ってしまう。すると私たちの社会のようになる。いろいろ細かに改善のしようはあるはずだが、なかなか難しい。むしろ、もっと基本的なところを考え直した方がよいのではないか。もとにあるのは何か。できないと損をする、できると得をする。こういう仕組みが基本にある。できて、その能力で何かをした人が、その結果を取れる。そんなきまりがこの社会にはある。それは当たり前ではないか。しかし、自然なことのように思えるかもしれないが、考えてみると、そうではない。ずっとそんなきまりで社会をやっているから、それで当然だと思われている。それは正しいのか、と考えると、意外にその理由が見つからないがことがわかる。身分による差別はよくない、とみな思う。しかし能力による差別はよいか、と考えるとそれがよい理由も、じつはないのではないか。
 そんなことはない、苦労したら報われるのはよいことではないか。しかし、苦労する・しないとできる・できないとは、無関係ではないが、それほど強い関係もない。同じだけ苦労してもうまくいく人とそうでない人はいる。このことは認めざるをえない。努力や苦労に応じて得られるというきまりと、現に今の社会にあるきまりとは別のものなのだ。苦労には報いてもよいだろう。また、人はより多くもらえないとより多く働かないということもあるかもしれない。とすると、ある程度は働きに応じてたくさんあげることは認めてもよいが、今よりずっと生きていく上での有利不利の差を少なくしてもよいのではないか。
 できるようになれば働き口があると言われる。しかし定員が決まっていて、それより人が多いなら、定員外になる人は必ずいる。当たり前だ。するとどうするか。職がなくとも暮らしていけるようにするというのが一案。これでもよいはずだと述べた。もう一つ、一人当たりの仕事を少なくして、仕事をする人を多くする。この二つは同時に両方使える。
 それでは社会の発展がなくなるという人もいる。しかし新しいものはその社会でも生まれるだろう。また、ただの量としての発展・成長なら、もうかなりのところまでいっている、少なくとも無理してまですることではないと言えるだろう。その方が、もっと落ち着いて考えたり、勉強したり、暮らしたりすることができるようになるだろう。しかし国際競争があると言う。そのとおり、たしかにある。ならば次に、仕方がないと考えるか、それともそこをなんとかする方法はないかと考えるかである。


 
 
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 ■世界は世界を救えるか →解説

 世界に大きな格差があって、広がっている。そのままでよいと言う人はそうはいない。援助などした方がよい。たぶんそうだ。それで募金をしましょうということになったりする。もちろん募金はよいことだ。しかし募金は、したくない人はしなくてよいものだ。
 国の内部では、いちおう、みなが暮らせるような状態にすることは義務だということになっている。そのための負担をしたくない人もしなければならないことになっている。とすると、今度は、なぜそれを国家の内部に限ることができるかが問題になる。こうして考えると、じつはその理由は見つからない。とくに愛国心が大切だと言う人は、その国の人たちを大切にすべきだと熱心に主張しているのだと思う。ただ、大切にする相手を国の内部に限る理由は見つからない。だから、他人を大切にというその人たちほど熱心に世界全体に義務があると言わねばならないことになる。そんなはずはないと思うなら、その人たちはどこかから理由を探してこなければならない。
 すると、「現実」が持ち出されるかもしれない。理想はともかく、現実に国々は既に分かれてしまっている。それを前提に動かざるをえない、甘いことは言っていられないというのだ。これはなかなか否定できない。ある国が人を差別しないで受け入れると、差別されたくない人がどんどん入ってくる一方で、それでは損をするお金持ちや企業は出ていってしまって、その結果、厳しい状態になるかもしれない。また現に競争が集団単位でなされているとき、その競争に参加しないとその集団、集団の成員が不利益を被る。だから外から守り、内部の力を高め、そのために内部の結束を強めるべきだという話はまったくの嘘ではない。ただその結果、世界の多くの人は生きにくくなる。競争で優位な地域の内部でも競争に役に立たない部分が切り捨てられる。優位な集団の中のさらに優位な位置にいる人にさえ、なくてもよい圧力がかかる。たしかに競争は有用なものを早く産み出すことがあるが、ここではその弱点の方が強く現われる。この状態はよくない。けれども問題は、単独で好ましい方向に行こうとすることが難しいことである。自分だけよいことをしようとすると結果として自分が背負いこむことになり、自分がわりをくうはめになる。
 こうした事態の解法は、世界全体で現在の状態を解消しようとするすることだ。つまり世界中が、世界中に対して、義務を負うというかたちである。これはとんでもない夢物語だ。たしかに途方もないことのように思える。しかし簡単にできることもある。そしてそれは絶望的に思われる問題を解決できる。
 たとえばエイズは今は薬があれば生きられる病気だが、世界で年に300万人、毎日7000人以上の数の人が亡くなっている。とくにアフリカの南の方はたいへんな状況になっている。貧しくて高い薬が買えない。しかし、薬の開発・製造者の利益の独占を排して、薬を安くすることはできる。そんなことはできないかと思われたが、できた。それでも薬はただにはならない。ならばその薬代を含めお金を出せばよい。そのためにはいくらかかるか。何年かに分けて全部で15兆円ほどで足りるという計算もある。それを何人でどう割るかによるが、たとえば相対的に豊かな10億人で均等割としよう。すると1人1万5000円ほど。これを数年に分けて払えばよい。これでなんとかなるのである。たいしたことではない。もちろんなにか意図があって援助したがる国もあるが、結局それは見返りを求めてのことだから、このかたちで行うのはよくない。どこの国がというかたちでなく集めるのがよい。そして実際、まがりになりにもそんな方向の国際的な取り決めも存在する。次に、国、政府を経由すると、途中でしばしばお金はなくなってしまうから、できれば一人ひとりに直接わたるかたちがとれると、無駄がなくてなおよい。そんなことができなくはない。こうして、私たちは、社会を知るとともに、社会の像を描くことができる。


[訂正版]
 世界に大きな格差があって、広がっている。そのままでよいと言う人はそうはいない。援助などした方がよい。たぶんそうだ。それで募金をしましょうということになったりする。もちろん募金はよいことだ。しかし募金は、したくない人はしなくてよいものである。それでよいのだろうか。
 国の内部では、いちおう、みなが暮らせるような状態にすることは義務だということになっている。そのための負担をしたくない人もしなければならないことになっている。とすると、今度は、なぜそれを国家の内部に限ることができるかが問題になる。こうして考えると、なかなかもっとな理由は見つからない。たとえば、愛国心が大切だと言う人は、その国の人たちを大切にすべきだと熱心に主張しているのだと思う。しかし、大切にする相手を国の内部に限る理由はあるだろうか。理由がないなら、他人を大切にというその人たちほど熱心に世界全体に義務があると言わねばならないことになる。
 すると、「現実」が持ち出されるかもしれない。理想はともかく、現実に国々は既に分かれてしまっている。それを前提に動かざるをえない、甘いことは言っていられないというのだ。これはなかなか否定できない。ある国が人を差別しないで受け入れると、差別されたくない人、生活に困った人たちがどんどん入ってくるかもしれない。他方で、それでは損をするお金持ちや企業は出ていってしまい、その結果、厳しい状態になるかもしれない。また現に競争が国家単位でなされているとき、その競争に参加しないとその国家、国家の成員が不利益を被る。だから外から守り、内部の力を高め、そのために内部の結束を強めるべきだという話はまったくの嘘ではない。ただその結果、世界の多くの人は不利を挽回できず生きにくくなる。競争で優位な国家の内部でも、役に立たない部分が切り捨てられることがある。優位な位置にいる人も競争に追い立てられる。たしかに競争は有用なものを早く産み出すことがあるが、ここでは、格差やせわしさなどその弱点の方が強く現われる。この状態はよくない。けれども問題は、単独で好ましい方向に行こうとすることが難しいことである。自分だけよいことをしようとすると結果として自分が背負いこむことになり、自分がわりをくうはめになる。
 こうした事態の解法は、世界全体で現在の状態を解消しようとするすることだ。つまり世界中が、世界中に対して、義務を負うことである。これはとんでもない夢物語だ。たしかに途方もないことのように思える。しかし簡単にできることもある。絶望的に思われる問題でも解決できることがある。
 たとえばエイズは今は薬があれば生きられる病気だが、世界で年に300万人、毎日7000人以上の数の人が亡くなっている。とくにアフリカの南の方はたいへんな状況になっている。貧しくて高い薬が買えない。しかし、薬の開発・製造者の利益の独占を排して、薬を安くすることはできる。そんなことはできないかと思われたが、できた。それでも薬はただにはならない。ならばその薬代を含めお金を出せばよい。そのためにはいくらかかるか。何年かに分けて全部で15兆円ほどで足りるという計算もある。それを何人でどう割るかによるが、たとえば相対的に豊かな10億人で均等割としよう。すると1人1万5000円ほど。これを数年に分けて払えばよい。この病に限れば、これでなんとかなる。たいしたことではない。そして、特定の国が自らの利益を得るための取り引き材料として援助するのはよくないから、国家を越えてお金を集め、渡す仕組みを作る必要もあるだろう。実際、まがりになりにもそんな方向の国際的な取り決めも存在する。次に、国、政府を経由すると、途中でしばしばお金はなくなってしまうから、できれば一人ひとりに直接わたるかたちがとれると、無駄がなくてなおよい。そんなことができなくはない。こうして、私たちは、社会を知るとともに、社会の像を描くことができる。


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 世界に大きな格差があって、広がっている。このままではよくない、援助などした方がよい。たぶんそうだ。それで募金をしましょうということになったりする。もちろん募金はよいことだ。しかし募金は、したくない人はしなくてよいものである。それでよいのだろうか。
 国の内部では、いちおう、みなが暮らせるような状態を保障することは義務とされる。みなの生活のために負担をしたくない人もしなければならないことになっている。とすると次に、なぜその義務を国の中の人への義務に限ることができるかが問題になる。考えるみると、なかなかもっとな理由は見つからない。たとえば、愛国心が大切だと言う人は、その国の人たちを大切にすべきだと熱心に主張しているのだと思う。しかし、大切にする相手を国の内部に限る理由はあるだろうか。理由がないなら、他人を大切にというその人たちほど熱心に世界全体に義務があると言わねばならないことになる。
 すると、「現実」が持ち出されるかもしれない。理想はともかく、現実に国々は既に分かれてしまっている。それを前提に動かざるをえない、甘いことは言っていられないというのだ。これはなかなか否定できない。ある国が人を差別しないで受け入れ生活を保障しようとすると、生活に困った人たちがどんどん入ってくるかもしれない。他方で、税金が高いのを嫌がる金持ちや企業は出ていってしまいかもしれない。その結果、財政が厳しくなるかもしれない。また経済競争は国家単位でなされていて、その競争に参加しないとその国家、国民が不利益を被る。だから外から守り、内部の力を高め、そのために内部の結束を強めるべきだという話はまったくの嘘ではない。ただその結果、競争力の弱い貧しい国にいる多くの人は、不利を挽回できずますます生きにくくなる。国際競争で優位な国の中でも、生産に役に立たない人やその人のための活動が切り捨てられることがある。優位な位置にいる人も競争に追い立てられる。たしかに競争は有用なものを早く産み出すことがあるが、ここでは、格差やせわしさなどその弱点の方が強く現われる。この状態はよくない。
 けれども問題は、単独で問題を解決することが難しいことである。自分だけよいことをしようとしても、結果として自分が背負いこむことになり、わりをくうはめになる。だから解決法は、世界全体で現在の状態を解消しようとするすることだ。つまり世界中が、世界中に対して、義務を負うことである。これはとんでもない夢物語だ。途方もないことのように思える。しかし簡単にできることもなくはない。絶望的に思われる問題でも解決できることがある。
 たとえばエイズは今は薬があれば生きられる病気だが、世界で年に300万人、毎日7000人以上の数の人が亡くなっている。とくにアフリカの南の方はたいへんな状況になっている。貧しくて高い薬が買えない。しかし、薬の開発・製造者による利益の独占を排して、薬を安くすることはできる。そんなことはできないかと思われたが、できた。それでも薬はただにはならない。ならばその薬代を含めお金を出せばよい。そのためにはいくらかかるか。何年かに分けて全部で15兆円ほどで足りるという計算もある。それを何人でどう割るかによるが、たとえば相対的に豊かな10億人で均等割としよう。すると1人1万5000円ほど。これを数年に分けて払えばよい。この病に限ればだが、これでなんとかなる。たいしたことではない。
 そして、特定の国が自らの利益を得るための取り引き材料として別の国に援助するのはよくないから、国家を越えてお金を集め、渡す仕組みを作る必要もあるだろう。実際、まがりになりにもそんな方向の国際的な取り決めも存在する。次に、国、政府を経由すると、途中でしばしばお金やものはなくなってしまうから、できれば一人ひとりに直接わたるかたちがとれると、無駄がなくてなおよいだろう。そんなことができなくはない。こうして、私たちは、社会を知るとともに、社会の像を描くことができる。


UP:2006 REV:20070106, 20190113
人口・少子化・高齢化  ◇立岩 真也 
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