HOME > Tateiwa

社会的

――言葉の誤用について――(1)

立岩 真也 2004/12/31 『社会学評論』55-3(219):331-347


  *この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

立岩真也『希望について』表紙

■■1 大雑把なように思える

 ■1−1 しばらく繰り返されていること
 ■1−2 他から借りてくることもできないこと
 ■1−3 同じかたちになっていること

■■2 少し地道に考えてみる

 ■2−1 場面を分けること
 ■2−2 何が相対化されようとしたのか
 1)「無害化」の限界
 2)因果としての社会性について
 3)評価の相対性について
 ■2−3 相対化しなくても考えられることを考えること

■■3 より難しい部分について

 ■3−1 より難しい部分
 ■3−2 是/非について
 ■3−3 事実と規範との連続/不連続
 ■3−4 事実としての限界に対して


■■1 大雑把なように思える

 ■1−1 しばらく繰り返されていること
 このところよく見かける社会学に、共感と、違っているのではないかと思うところと、両方がある。こころざしはよいのだが、単純すぎて使えない。このことを述べる。
 社会学、いくつかの社会科学は、つまりは疑うという仕事をしてきたのであり、その仕事を繰り返してきた。何かから身を離し、言及の対象にすることで優位に立てるかのように思ってのこともあるかもしれない。だがそんな考えはたんに間違っているのだから無視しよう。それだけでない熱情があるように思える。疑うのは、別の可能性がある、あってほしいからだと思う。
 一つに、「構築されている」とは「作り話である」と実質的には同義である。つまり、事実と嘘という対があり、嘘でないことが存在すると言っている。こうした議論と関係しつつ別の位相にある議論として、事象の実在を巡る議論があるようなのだが、事実と虚偽という区分はあるとしてよいだろうと思うし、それ以上のことをさしあたり言う必要をほとんどの場合に感じない。そして虚偽は指摘した方がよい。これは科学において、いや科学でなくとも、ことの真偽を確かめることが大切だという、当然といえば当然のことを言っているだけのことだ。ただ問題は、「虚像」であることを指摘するという手法が頻用されてきたこと、それでどこまでのことが言えるかである。
 さらに一つ、社会(科)学は相対化という行ないを続けてきた。社会性を見出すことをしてきた。既にあるもの/作られるものという対を置いて、そこにあるものは作られたものであることを述べてきた。その作られたものが社会的なもの、構築されたものなのである。この行ないは、それ自体として正/負を語らないが、そのような効果を生じさせることがある。それが乱暴な所作であることを以下で述べるが、同時に、それには大きな意義があって、だからそれが続けられてきているのだと思う。
 相対化とは「信じるな」という、あるいは「信じなくてもかまわない」と述べる行ないである。そうしなければならないとされている時、こうするのがよいとされているときに、そうとは限らないと言われることには、実際上の効果がある。定まった解はないということ自体において、ときには治療的な効果がある。
 それは代わりのものを提示しないとも言われる。しかし、何かを壊したら代わりに何かを作らなければならないと決まってはいない。ただ壊してしまえば、壊れてしまえばそれでよいものもある。信じないことは、代わりに何かを信じることを要さない。信じなくてもよいこと、他でもありうることを知ること自体が大きな意味をもつ。
 だから、相対化という作業は倫理的な作業でもある。そんな出自のものでも通常科学化され、構築を記述していくことが定まった流儀であるかに思って流儀通りの論文を生産する人もいるだろうが、それだけではない。構築されざるものがある、あってよいという直観があって、そこから発していることがある。本質主義とは、構築を言う人たちが敵と思う立場につけた蔑称なのだが、この種の構築主義は、構築されざるもの、あるいは構築を脱していく運動の存在性格を巡る差異にあるにしても、そしてそれはときに大きな差異であるにしても、もっとましな状態があってよいはずだと思う限りにおいて、そうした思いを含んでいるものである場合の本質主義に近いところがある。
 これはたしかに解放的なものであって、だからこそ今でも飽きもせずに行なわれている。それを放棄する必要はなく、肯定してよい、大切なことを言っていると思う。しかし、素朴にとらえれば不十分ではあり、それを繰り返しているなら怠惰ではないか。
 まず、虚偽の指摘の真偽についての、そして事態の成立に関わる因果関係の如何についての事実問題に巻き込まれる。むろんこれは当然のことで厭うべきことではない。ただ、意識だとか感情だとかとくに人の内的な契機に関わる場合、それがどれほどのものか、何にどれほど効いているか容易に決定できないことは多く、そこに議論の勝敗がかかっている場合、ときに泥仕合の様相を呈する。そして、ここが争うべき主要な場所であるのかである。
 次に、批判的・規範的言明としての効力の問題である。事実によって規範的なことを語らせる、あるいはそれを醸し出す。相対化という作業は意識的に、あるいはその効果として、そのような仕事だった。価値判断をしていないようでしている。しているようでしていない。ここではこうなっているが、別の場所ではそうではない。今はこうだが、今でない時にはそうではなかった。社会的・歴史的形成物として現れたに「すぎない」。こうした言われ方がなされる。そうかもしれない。しかし今ある一つが、様々あるうちの一つであるとして、その一つが否定されるべきものだとはならない。他の可能性があることは、他の方がよいことを示さない。社会的であることは、それを変更すべきであることを示さない。そんな単純な間違いは誰もしていないと思うかもしれないが、そのように解すことのできる例がいくらも見出される。そう解さないと意味をなさない例がある。(これが単なる短絡でなく、私たちの社会にある正当化の図式に乗ったものでもあることは次項に述べる。)相対化という態度、別の地域・別の時代のものを持ってくるという手法――それが蔓延するに至った事情について記したこともあるが、ここでは略す――は、さらにどんなあり方が可能なのかを考える上でも、道具立てとして単純すぎるところがある。

 ■1−2 他から借りてくることもできないこと
 とすると規範論は規範論としてなされればよいということになりそうだ。そうしたことを行っている学問に、倫理学、法哲学、政治哲学、等があると言われる。それにも様々な立場があるが、その中の大きな流れに自由主義(liberalism)と共同体主義(communitarianism)とがあるとされる。(以下、両者についての記述はいくらか戯画化されたものになる。それでもそう外れた描写ではないと思う。)すると、それらから学べばよいということになるだろうか。しかしそれらは手本にならないと私は考える。それらとの距離、関係を簡単に述べる。社会学はこれらの営みから離れているようで、そうでもないところがある。だから同じ有効性があり、同じくもっともなことを言っていると同時に、限界もある。規範理論の諸流派のいずれもそのまま使えず、むしろ雑なところがあり、そこに社会学の出番もあることを述べる。
 自由主義は、第一に、一人一人がよいと思うものが異なり、それを尊重すると言う。信じていることの中身に介入せず、「寛容」をもって対し、その人が信じている限りにおいてそれに干渉しない。各々に立ち入らずにそれを調整する機能を果たそうとする。
 しかしただ調整する手続きを定めるだけでは社会のあり方は決まらない。にもかかわらずある具体的な社会像を示しているなら、第二に、それは内容的な規定を置いている。それは、自分が選び作り出すものが自分に有意味なものであり自らが取得すべきものだとする範式を採用しており、各人の尊重もそこから正当化される。他人(たちであるところの社会)から押しつけられたものは拒絶できる、すべきであると言う。それは既にあるものに言及し、それを否定しながら前に進むという営みでもある。これは前項で短絡を指摘した構図と同じものであり、それがたんなる短絡でなく、この社会にある思想の図式に乗っていることがわかる。
 そして現在リベラルと呼ばれる語感に近い立場は平等主義的、社会改良主義的な自由主義である。この立場が前提とする範式のもとでは、個人の力に差があれば取得できるものにも差が生じてしまうが、それは好ましくない。そこで「本来」差はないとし、その差が社会的に形成されているとすれば、社会を変更・改良すれば、この図式自体は動かさないまま平等が達成されるので、都合がよいということになる。
 他方、共同体主義と呼ばれるものは、人の具体的な存在に関わろうとせず、中立・透明を標榜する、あるいは詐称する自由主義に反発する。社会に具体的にあるものをもっと大切にしようと言う。人は暮らす場所でそこに暮らす人々から様々に具体的なものを受け取る。そうして自らが形作られていく。その事実を指摘するだけでなく、そのことが大切なのだと言い、そうした個々の文化等が尊重されねばならないと言う。この紐帯が「自然」には見出されないことが指摘されても、それはそれでかまわない、まさに社会の中でそれが育まれるものだと共同体主義者は言うだろう。これは事実に乗る、あるいはその方に戻る方向のものである。これはそのために反動的に映る。しかし同時に、多くの人は、人々が信じたり感じたりしていることに尊重すべきものはやはりあるだろうとも思う。
 さらに自由主義もこの流れを半ば以上認める。まず集団の中に人が生きることを事実として認めるし、個々人がそれを自ら信じていると表明する限り、その人、その人たちの集まりには基本的に介入すべきでないとされる。また共同体主義の側も、(より積極的な措置を自らの集団のために求めるといった場合は違ってくるが)相互不干渉を支持するかぎり、寛容という手法は肯定することになる。この二つの立場は互いに対立する契機を含みながらも、ある種の共存がときに実現する。
 この二つの妥協、あるいは癒着は何をもらたすか。論理的には幾つか可能性があるが、例えば近代の所有の規則と旧来の社会秩序が二つながらに肯定されることもある。その規則も始まってから何百年かは経っているなら伝統と言えもするだろうと、共同体主義者は前者を肯定する。他方、自由主義は一人ひとりがそれを大切にしていることにおいて伝統を肯定する。むろん、少数派の価値もそれとして認めはする。自由主義はそれを信教・思想の自由として言うだろうし、共同体主義者は文化の固有の保持の正当性からそれを言うだろう。しかし、等しく遇するのであれば、結局は大きな方が生き残ることもあるだろう。世界の分割は固定され、力の強い集団は内閉しながら膨張するかもしれない。
 どんな人でもあってもよいという解放感が寛容や自由の思想にはあったのだが、それが失われてしまう。この人たちが言うことをその通りと言えばよいのか。三番目に、構築=脱構築を言う人たち、(脱)構築派は、これらのいずれにもあきたらない人たちでもある。人が何かにつなげられていることを批判する。そして集団の自明性を解体しようとする。
 その人たちは現状に批判的だが、同時に何がよいかを単純に言うことも批判する。手続きの適正さによってであれ規範の内容によってであれ、自らが裁定者として振る舞うことをためらう。そして多様性を認める。しかし世に衝突はあり、問題が現存することも認める。この時にここまで略述してきた人たちと同じことを言うか。言いたくはない。では黙るか。しかしこの人たちは世に憤っている人でもあるので、それにはかなりの無理がある。まず、中立を称する者たちが中立でないことを指摘する。また正しいとされるものの構築の過程を検証し、その検証を繰り返す。ただ多くの場合、自然とされているものが実は構築されていることを暴くという手口が同じで粗筋が同じなので、移り気な人たちから既視感しか感じないと不平を言われることになる。また、世界にある声や、声にならない声をよく聞こう、と言う。聞くことはよいことだが、聞いてどうするか。むろんこれまで聞いたことなどないのだから、まず聞いてから、という態度はいつまでも正しくはある。けれどそれで何を言おうというのかと問われる。あるいは自らの言いたいことを、語りに仮託するという行ないを行なっているのではないかと言われる。
 ただ以上は構築=脱構築派の半面である。その人たちは、自分自身から離れること、自分がいる場から離れることを希望として語る。だから、どんな属性にも束縛されない場所に行こうとしてカント主義とつながるという出来事が起こっても不思議なことではない。解体していく人たちは、自らとともに他者の迎え方にも条件をつけることを潔しとしない。それで「歓待」などと言うのである。
 私はこの威勢のよい言葉を真に受けてよいと思う。それを語ることのできる人は語ればよいと思う。ただ、社会学としては、この辺りから考えることが始まるはずだ。どこにそうした主体を求めるのかという型通りの批判――それはあまり意味のある批判だと私には思えない――の他に、二通りの論難がありうる。
 第一に、既にあるもののように思えるもの、限定され、固定され、その中で生きていたってよいではないか。そのような方向に向かわなければならない、そうするのがよいとなぜ言うのか。「乗り越え」とか「越境」とか、そんなことは疲れるではないか、そのままでよいではないか。まずそういう醒めた声がある。反省し、乗り越えて、別の自分を作っていくという動作は、途中で妥協してしまう類いの自由主義よりさらに徹底して近代主義的であり、破壊的=能産的な主体というあり方に忠実であるとも捉えうる。
 第二に、自分で決めたり社会に属したりという事実と人や社会のあり方についての規範とをすぐにつなげてしまうことを指摘し、それを批判することはできるのだが、しかし例えば歓待の困難といった事実自体は残るかもしれない。醒めた人は、あるいは別種の熱情を有する人は、それは無理だと、無理をしていると言う。事実上の限界があるというこのもの言いは無視できない。相対性、歴史性が明らかになったとしても、それはそのようなものとして信じられている、受け入れているのだと居直られてしまうのである。
 では結局、それ以前の二つ、二つのいずれかに戻ればよいか。やはりそうはならない。第三の立場の人による批判にもつながるが、またそれはその立場の人たち自身に返ってくるものでもあるのだが、基本的な問題が残っている。
 信じられていること、支持されていることにおいて認めようと言われた。そのことの積極的な意義、あるいは現実運営上の意義は認めよう。内容を問題にしないというのはなかなかに賢い智恵ではある。またたんに有効というだけでない意義もあるだろう。しかしそこには限界もある。寛容は有効ではあるが、幾つもありうるだろう対応の方法の一つである。それでうまくいくのかと考えれば、いかない。
 まず信じられていることと信じられていることの間の争いがあるだろう。その時にはどうするか。次に教えることについて何が言えるか。信じることの自由はあるだろう。しかし信じることはいつも自由になされるか。そうは言えない。自由主義者は、その人が選んでいる限りにおいてそれを認めると言う。だが、これはすなおに考えれば虚構である。まず明らかなのは、いつも人は教えられるということである。人々はその後に世界に現れてきた人に教える。教えられる人は受け取る。そうである限りは、常に誰が何を教えてよいのかという問題はある。しかも何も与えないことは――何も与えないことも、それを与えているという意味において――できない。では、それはその土地の人が決めること、だろうか。だが、その土地の境界は自明でなく、さらにその土地の内部が一様であるとも限らない。
 もっと単純に考えればよいのではないかと思う人もいるだろう。人を害することはしてはならない、誰かが抑圧されているならそれはよくない。こう言えばよいのではないか。実際、自由主義者も共同体主義者もそのようにも言う。何でも認めるのではなく、人を害さない限りで自由や伝統を認めるのだと言う。それは正解ではあるだろう。
 しかし何が害することで、何がそうでないのか、それが問われているのだ。その人が害されていると思えばそれは加害だという言い方には採るべきところがあるはずだが、それで十分でないことも明らかである。また、自由主義にしても実は内容を特定しないのでなく、何が加害であって何がそうでないかを語っていたのだが、それが何であるかを取り出して吟味してみると、そこに言われていること、明示的に言われていなくとも含意されていることを、そのままには受け取れない。だから、ここでも議論は決着していない。

 ■1−3 同じかたちになっていること
 こうして社会(科)学が、自らの短絡を反省して欠落を補おうとしても、既にある規範理論はそのままでは模範にならない。むしろ両者は互いに似ている。社会学もまたこの時代の学であって、今略述したものと共通の困難を有しているのだ。
 社会学の思考の様式は自由主義のそれと同じではない。一方はその成立を問い、一方は不問に付す。しかし共通点もある。一つに、社会学も、その成立の機制というより成立の社会性を明らかにする作業をしている限りでは、中身を問題にしない。とすると両者に同じ問題がある。第一に、解を与えるしかない場面で解を出さない。ただこれは社会学にとっては問題でないとしよう。しかし第二に、時に無自覚に、答を出してしまっている。このことを第1節1項で述べたのだった。自分が作ったものでなく、他人(たち)が作ったものだからそれを受け入れる必要はないと言う。発明した人に権利(ときには義務)が帰属するという理解と、社会的に形成されたものであるからそれは脱ぎ捨てられるという理解との距離は近い。それは検討の対象とするべきことであり、自らが最初から前提してしまうことではないのだが、この図式に乗ってしまう。そこに実践的な有効性が存在しているかに思われているとすれば、それは困ったことである。
 また共同体主義と重なる部分もある。より以前のものが自然で、自然であるものはよいもので、ゆえにそれはよいものだといった態度を留保あるいは忌避するのが社会科学の中でも社会学であったから、社会学はあまり素朴に伝統を肯定することはない。しかし、帰属の価値を言う共同体主義は社会学的な思考のある部分とも親和性を有している。そして思想の業界の人たちはともかく、少なくとも社会(科)学をやっている身の上としては、高踏的には語りたくないと思うだろう。社会学が市井の人々についての学でもあるなら、そうした色合いはさらに強くなる。
 そして、第三の脱構築という立場とともにある社会学の流れがある。それは壊して作っていく、作らないかもしれないが壊していく、反省していくという点において自由主義の範型を引き継いでいるし、それを徹底させる。社会的なもの/そうでないものという図式を採用した上で、なんでも社会の方に還元していくと、当然のことだが、そこからは積極的な立場は出てこない。この意味では、どこかに落とし所を作ってしまう規範理論の流れよりは徹底している。ただそれゆえに、「批判」を意図する場合には、二つあって成り立っている話を、一つに還元していくことによって、すべてが構築されていると言うことによって、なおさら何をしているのかわからなくなる。(例えば「自己決定」を自由主義は素朴に肯定するのだが、社会学は「本当」の自己決定などないとすぐ言う。そしてそう言った後、どう続ければよいのか、立ち止まってしまうことになる。cf.(立岩,2000:chap.1)
 こうして明らかなのは、既にできている理論を借りてくればよいということにならないということだ。ならばどうするか。
 一つに、自らの論、また自らが依拠している論の論理を抽出し、理論を理論として組み直してみることである。それは大切なことではある。(以上あげた三つに関わっては、(立岩,2004a)とくにその第6章ですこし考えてみた――そこで検討したのは、やはり図式化してしまえば、リベラル、本質主義=自然主義、脱構築派という三つ。)ただもう一つ、そうした議論のどこがどのように大切であるかを知るためにも、もう少し具体的なところを見ていった方がよいと思う。

■■2 少し地道に考えてみる

 ■2−1 場面を分けること
 問題は、二分法を否定すると常套的に語る人たちが、自らひどく単純な二分法で語ってしまうことにある。実際には、言うまでもないことながら、社会はもう少し複雑にできていて、考えるべきこともそれに対応してもう少し複雑になる。解体はよいことだとして、解体の容易さ等々は部分部分で様々である。分けて考えてよいことは分けて考えたらよい。社会にいる人々、思いや行為、規範、そうしたものの各々の性格、その関係を、その固定性や可変性を計算しながら、また固定性や可変性について思われていること言われていることの信憑性に留意しながら記述し、他の可能性を考えてみることである。そして、経済だとか政治だとか各々の領域は各々の社会科学によっていちおう対応されているが、むしろ検証が必要なのは、各々の領域の規定の仕方であり、領域の間の関係であるなら、ここは社会学の出る幕である(cf.(立岩,2004c))。
 まず、A:ある人の何かが、B:ある人に受けとめられ、応じられる場面を考えよう。二人は同じ人である場合もある。例えば自身の身体の苦痛を自らが感受することがある。ある人のあり方が、自分自身によって、また他者によって評価され、反応される。
 そのあり方の全てをここで網羅しようと思わない。だがいくつか取り出すことはできる。これらの中の可変的な部分とそうでないもの、そのつながりの間にある様々なもの、それらをつなぐ経路を明らかにし、考えていく必要がある。例えばAについて、その人に帰されるものがどのような成分によって構成されているか。出自など身体に直接にはまったく書き込まれていないものもある。これはB:名付け、区画という行ないにおいて初めて現象する。相手側、評価する側、統制する側に視点を移したことが社会学の功績だと言われる。それはその通りだ。これはまさに社会学的な対象であるとともに(であるがゆえに)、捉えにくい現象である。他方に、物体としての身体(の力能・形状・感覚…)に関わる部分がある。B:人に注目され、取り出されることによってはじめてその人にとって存在するようになるのだということが事実であるとしても、A:その人から離れないものはあり、その差異はある。少なくともそのように思える。これらの要素・成分の性格を、それについて言われていることを疑いながら、確認していくことである。

 ■2−2 何が相対化されようとしたのか
 (1)「無害化」の限界
 「社会性」はまずAについて(のBの事実認識について)言われる。人に付与される性格は間違っている、虚像、作られた物語だとされる。例えば、ある人たちが危険な人間だと括り出されてきたと言われる。また、例えば虐待という事態が注目されるようになったことによって、その実数が増えているかに見えることが指摘される。
 その指摘はその通りで、多くの人々がそうは思っていないのだからもっと言えばよい。しかし考えておくべきことは、まず、実際に危険でなく無害であるなら排除されるのはなぜかである。いくつかの感染症は実際には感染力が弱い。にもかかわらず隔離されたのはなぜか。
 もう一つは、間違いではない場合にはどう考えるか、例えば実際に危険だったらどうなのかである。[…]
 (2)因果としての社会性について
 次にやはりA、人に帰せられるものの由来、因果の問題として社会性が言われることがある。ある事態が実在することを認め、その描写・記述についても認めた上で、その起源の構築、因果の社会性を言う。その一つが、第二の社会性の主張であり、それは、人の性質や性能について、その要因として社会的環境があると言う。
 一つに、それは社会(他人)によって与えられたものであってその人のものではない。だから受け入れなくてよいという文脈で言われる。例えば女性に付与される性格は社会的に構築されている。したがってそれを肯定する必要はなく、それに束縛される必要はないと言う。
 もう一つ、それは社会を改善すればよいという実践につながる。社会科学は社会的実践のための学でもあってきたから、社会的要因によって現実が規定されているなら、その社会的要因を変更・修正することによって現実をよくすればよい。他方、そうした営為に効果がないとなれば、社会科学はすることがなくなる。だから、因果としての社会性の指摘と社会科学とは親和性がある(cf.(立岩,1997:chap.7))。
 第一の問題は、事実としてどこまで社会的規定性を言えるかである。その論争の帰結はときに明らかだが、ときに決し難いことがある。また、ときには生まれながらに決まっているとしか言いようのないこともある。どうにも頭が働かない、そんなことはやはりある。
 第二の問題は、ここでの社会性の用法が妥当なものかである。少なくとも多くのものは社会的要因に規定されている、その意味で社会的に構築されていると言えようが、そのこと自体はよいともわるいとも言えない。何がよく何がよくないのかは、これといったん別のこととして考えなければならない。このことも先に述べた。
 さらに、これも考えてみれば当然のことだが、社会的要因によって規定されているがゆえに、社会的環境を変更するべきであるとは言えない。構築の語を用いながら説かれる近年の社会学にはそうした性格は強くないにしても、社会政策に連接する言説においては、ときに無自覚なこの連結がしばしば見出される。私たちはむしろ、ここで自覚的に距離をとり、この連結が、自身の力能による取得という図式を維持したままで平等に近づこうとするリベラルの路線にとって、またこの社会の流れにとって都合のよい(が実際には明らかな限界がある)ものであることを見ておく必要があるはずである。同時に生理的要因に規定されているがゆえに、生理的・物理的介入が正当化されるわけでもない。この水準への介入、例えば優生学の実践を批判しようとして、社会的規定性を強調することがあるのだが、これもずれている。またこの図式に乗って社会性を強調すると、事実によって有効に反撃されてしまい、かえって主張を弱くしてしまうこともある。例えば性的嗜好に対応する遺伝子が発見されたとして、それでかまわないと言い、その上で言うべきことを言うべきなのである。また、社会的介入がなされるか、そして/あるいは個人に帰責されるかという図式の下では、社会的に決定されているのではなく、自分のあり方は先天的に生理的・物理的に決まってしまっているとされる方がまだよいことがあること、実際そのことが語られることがあることも知っておくべきである。((立岩,2005)でいくつかこうした言説を拾った。)
 (3)評価の相対性について
 そして、B:何を評価するか、どんな範疇を取り出すか、その評価、欲望、好悪、必要の社会性、社会的な構築が言われる。これもまた社会科学の主張だった。何が必要とされているか、選好されるかは社会によって異なると言う。しかしこれも、どのようにも可変的であるとは思えない。そしてやはり、さきと同じに、これらが社会的に形成されることは、それが批判されるべきものであること、捨ててよいものであることを意味しない。

 ■2−3 相対化しなくても考えられることを考えること
 こうして三通りの社会性の指摘は、回避しきれないものを回避しているように思える。私が考えようとしてきたのは、第一に差は実際に存在することを認め、第二にそのある部分は社会的介入によって解消されることはないことを認め、また時には介入がなされるべきでないと考え、第三に、人が人の何を欲するか、その選好にも所与の部分があるとした上で、さらに何が言えるかということだった。つまり、まず人とその性質との間の接合はある程度固定されたものとした。次に何が有用で何がそうでないかは人が決めるのではあるが、それを相対化するという行ないにも限界があるとした。しかし、その人の行為によって産出されたものと、その人が自らの暮らしに要するものとの繋がりを――この社会は、生産者による取得という繋がりを、この水準において社会的に、設定しているのだが――、基本的には、切断することができるはずだし、また切断するべきだとも言えることを言おうとしてきた(立岩,1997)(立岩,2004a)。
 このように述べることは、次節で見る領野に比べて容易である。あげてきた幾つかについて可変性を前提せずとも、財の生産と財の取得との関係の設定を変更することは可能であり、そのこと自体は容易だからである。その人が産出される財自体は、その人から切り離すことができ、他の人に渡すことができる。実際、市場はそのようにして作動している。ただ一つ残る困難は、この関係の設定・変更に関わる動機の問題、「インセンティブ」の問題として語られる問題である。つまり、自分に益がなければ人は働かないだろう、人のために何かすることには限界があるはずだというもっともな指摘である。これは次節で考えようとする領域に存在する問題と同型の問題、あるいは同じ問題である。その領域は、こうしたどうしようもなさに全面的に覆われているように見える。

■■3 より難しい部分について

 ■3−1 より難しい部分
 欲望、愛着、敵意、悪意、その濃淡、距離、2に記した中ではとくに、B:人に対する関わり、人のあり方の受け取り、第2節2項では(3)として簡単に述べた部分である。これらにどのように対してよいか。それなりの言説の堆積があるにもかかわらず、何か言うことができているか。何を言えば何か言ったことになるか、見当がつかない。
 例えば差別について。好悪はどこに発するのか。ここでもその構築を、相対性を言うことはできる。人の好悪のあり方、型が社会によって異なることは言えるだろう。また煽動し増長させる言説の数々も見出される。しかしそうした言説がそれを作り出したと断じられるわけではない。その煽動はなぜなされているのか。それは相互行為において、関係において生成するものだと言っても、何か新たに言えたわけではない。意識と言っても行為と言っても関係と言っても実際にはそう異ならない。差別したい本性はあるかもしれないが、あると言って、あるいはないと言ってどうなるだろう。そこでそこに起こっていることをまず記述する。しかしそれは、多くの場合には、既に知られていることでもある。それ以上何を言ったらよいのかよくわからなくなる。

 ■3−2 是/非について
 このよくわからないというところから出発するしかないように思う。第一に、何がいけないことで、何がよいことで、何が仕方がないことなのか。これについては議論がないわけではない。さきにみたのと同じ図式の議論がここで行なわれる。
 共同体主義は肯定に結びつく関係を限定し、そこに開きなおる。大切にされている、また信じられているという事実においてそれは尊重されるべきだと言う。固有の文化が大切にされているという事実があり、それがその人(たち)のアイデンティティを構成しているとすれば、それは認められなくてはならないとする。そして自由主義も、信じているのはその人の選択であるという理屈で、そのことを認める。そしてただ好き/嫌いの二値があるのではない。濃淡があると言う。適度な大きさの単位が大切であると言い、同時に、それが人の連帯の限界だとも言う。「地域」や「ケア」を言う人にもそれは受け入れられやすい。連帯が大切なら、個別の集団に共有されているものを尊重し、強化すべきだと言う。それは境界を強化する方に作用する。
 そこで第三の立場である(脱)構築派は範疇の解体を志向する。範疇を盾に自らを主張する、あるいはその主張に応ずるといったことは構築を強化することになり、基本的には好ましくないと考える。解体を主張する人たち、範疇を実体化させることを是認しない人たちは、その集団に属しているがゆえに、とか、その集団に対するといった理由づけを求めない傾向がある。さらに個人の同一性として構築されたものをも解体していく。
 しかし、それはよくないのではないかとさらに批判され、その批判ももっともに思える。たしかに帰属に関わる価値があるように思われ、その侵害はよくないことではないか。こう反問される側も、正面からそれを否定できない。
 こうして、社会学の外側でも、やはりこの議論はまったく終わっていない。むしろ、同じ図式のもとで膠着している。どう考えるか。
 まず、どうしようもなく抜けられない膠着があるのではないはずだ。人は常に内容をもった存在であり、その人が肯定される時には、基本的には、その内容も認められるだろう。人が「同一性」「帰属」にこだわることを認めながら、無規定な存在、脱構築派が想定するものを肯定することは可能なはずである。そして、そのことは、理論的には解体の方向を進むことを言いながら、生きている現実としては範疇への帰属意識はあるから、そこは分けて考えようといった中途半端で不十分な答としてではなく、言えるはずだ。
 相手が誰であるかに関わる肯定、自らの嗜好と趣味の範囲にある肯定は、結局、自分も他者も肯定することがなく、非現実的と見える対象の種別に関わらない肯定の方がむしろ基本的で現実的だと述べたことがある(立岩,2004a:chap.3)。たしかに至近にしか及ばない愛着はあるが、そのような欲望だけがあるのではない。同じ人に同時に複数の欲望があると考える方が当然で、むしろ欲望の縮約の方に、そこに仕向ける仕掛けがないかと疑い、作為を嗅ぎ取ってよいのかもしれない。
 ただ、そうしたことをきちんと言うためにも、様々にある具体的な主題について、考えるべきことを考えることである。人を害することがいけないことだと言えばよい、は正解だが、十分でないと第1節2項に述べた。好きな人たちを取り立てることは結果としてそれ以外の人を排除することにもなる。さらに、こうした依怙贔屓を常にまったく認めるべきでないとも言えないだろう。この問題に自由主義は領域を分けることによって対応する。つまり、個々の恣意が通されてよい私的な領域と等しい人は等しく遇するという規則――私はこれは空虚な規則でもあると思うのだが――を適用させる公的な領域とを分ける。だがこれで片が付くとは考えないなら、問いは終わらない。一般化すれば、害するとは何かを定めないと、害してならない、害さない限りよいという内容が決まらないのである。
 例えば責任について。既に加害がなされた後でその責任をとる、とらせるとはいったいどういうことなのか。これは大きな問題だが、どう考えてよいのか私たちはよくわかっていないと思う。
 さらに個人に帰属させられないものがある。その人が直接に関わらないこと、例えば自分が生まれる前の過去になされたことについて、自分は責任を負うのか。また例えば過去に侵入してきた人たちの暴力によって土地やその土地での暮らしを奪われた人たちがいる。それはいけないことだと思う。とすると、過去について、どれだけの償いが、どうして認められるのか。集団が関わったことについて、集団の一員である自らは責を負うのか。責任があるとして、なぜ、どのような責任を有しているのか。危害を被った人が既に亡くなっている時、その償いを誰がなぜ請求することができるのか、誰がそれを引き継ぐことができるのか。
 こうした主題について、なにかしらの立場を定め、その理由を示す必要はある。社会学者はこうした問いに直接答える必要はないかもしれない。というか、どんな領域で仕事をしているにせよ、したい仕事をすればよい。ただ、社会学は、たしかに社会がこのように構築されていて、そこに人が住まっており、様々なものを人々が大切にしたりしなかったりしているという現実を知っている。同時に、そのままではその社会を受け取れない、居心地がよくないというところから考えることを始める人もいるのだから、その間でどう考えたらよいのか、迷うことになる。それは困難ではあるがよい位置にいるということでもある。
 そして、実際にこうしたことはそれ自体が社会的な争点であり、争いの現実に関わっている。理論で問題になっていることは現実に起こっている。学問の場所とはまた別の所でも様々に語られている。というか、学問上の争いが社会での争いの一部なのである。だからこれ自体が社会学的な分析の対象でもある。そしてそれを十分に記述し分析するということと、争っている複数のいずれにどんな基準からどれだけの理があるのかを判断するということとは、実際にはほとんど同じ仕事のはずである。
 この仕事は、人が何かを信じていることにおいて認めるという位相を認めながら、同時に、その内容を検討するという仕事である。それは「思想」を対象とする学問が行なってきたはずだと思われようが、必ずしもそうではないと述べてきた。共同体主義はそれが共有されているという事実によって、それを支持するとした。そしてまた自由主義は、その人が信じていることを、信じている限りで尊重するという態度において、やはり中身を問題にしない。しかしそれはその人(たち)を尊重していると言えるのだろうか。中身を問わないこと、内実を批判しないことはかえって失礼なことではないだろうか。かつて、社会学の先祖にも様々な宗教において信じられていることの内実を含めた仕組みを明らかにしようとした人がいたことを想起しよう。その後の成り行きはその人の行ないから後退していないだろうか。そして実は、以上に例示した諸主題は、あまり紹介されていないが、英語圏の政治哲学等でそれなりに論じられてきてもいる。以上で示してきたおおまかな概括からはこぼれてしまう部分におもしろい議論がある。それらの使えるところも使うことはできる。

 ■3−3 事実と規範との連続/不連続
 第二に――これは第一の仕事の一部でもあるのだが――事実とされるものと規範とのつながれ方を検討することができる。
 考えてみても、その人のものとして、その人から動かしがたいものとして残るものはあるだろう。このことは認めよう。しかし、ある人たちは、そうしたものの存在から、ある規範を正当化したり、その範囲を限定すべきことを言うのだが、その前者と後者がつながっているのか、正当化がうまくいっているのかを考えることができる。またある場ではつなげられ、また別の場では切り離されているとしたら、その使い分けを問題にすることができる。つまり、人の意識や感情のあり方やその起源、因果を問うのと別に、それが使用される用法の問題として捉え検討することができる。
 例えば、感情によって関係が形成され、そのあるものが家族と呼ばれるものとしてある。その関係があることは否定しないとしよう。しかし、現実の家族は、たんに感情が交換される場所ではなく、行為・財が流通する場であり、それに関わる権利と義務が法的・政治的に規定されている。このように考えるなら、関係の形成原理とされるものとそこに権利・義務を付与することとの関係を問いうるし、権利・義務の付与の正当性を問いうる(立岩,1992)。
 また例えば愛国心を言う人たちは、ある人がその国を、あるいは国の人々を実際に愛していることをその人がその国民・国家のための何かを義務として引き受けることの要件とするだろうか。しないだろう。愛国的でない人には愛国的であるように指示し、そうでない人も規則には従うように言うだろう。とするとやはりこのつながりはどのようにつながっているのか。とすれば一つに、その正当性を問題にすることができるだろう。一つに、もし実際の愛着の存在と別に人に権利・義務を付与するべきであると考えるのであれば、それを国境で区切ることの正当性が問われ、その境界の拡大が支持されうるだろう。後者の場合には、相手の前提を使って別のことが言えるということである。

 ■3−4 事実としての限界に対して
 本節2項は規範的な正当性の議論に、本節3項は事実と規範命題とのつなぎ目に関わるものだった。もう一つはもっぱら事実問題に関わる。人々がしようとすることあるいは控えようとすることには限界があるだろうと言われる。よいことではないかもしれないが好きになれないものは好きになれないと言われるのである。そして、このことについては、好悪の出自の社会性を述べ相対化を図ろうとしても限界のあることも述べた。とすると、この場合にもどのように言っていくか、それなりの工夫が必要になる。
 人々の好悪は動かしがたい、それはそれとして受け入れるしかないと言い、その上で、正当/不当の問題とは別に、好かれていない人々が受け入れられないのは仕方がないと言われる。そんな場面もあるにはあるだろう。しかし常にそうか。問題になっている事態がどのような事態であるのかを確認してみることができる。何が何とつながるかを考えてみると、起こっている事態が、言われるようにはたしてその人にとって動かすことのできないものによって生じているのかが疑問に付される。
 一つ、ある人や人々の範疇と直接に関わらない利害が関わっているのではないかと考えてみることができる。動かせないものであるから、尊重されるべきものに発しているから仕方がないのだと言うのだが、実際に起こっている事態はそれでは説明できない、少なくとも他に可能性があると言える場合、むしろ利害が主導しているのではないかと疑える場面がある。
 例えば雇用において、ある人たちの参入を阻止すること、また格差がつけられることがある。一つには、仕事ができないからだとされる。それが明白な場合があり、ある範疇をとった場合に確率的にそう言える場合がある。しかしここではその差はないとしよう。
 ここでの排除や格差の設定を、好み(嗜好)によって説明する議論はある。しかし、この説明はとくに労働力が求められている場面については疑わしい。一つに利害によって説明することができるはずだ。むろん、例えば外国人や移民の労働やまた女性の労働について、なぜ制限と格差があるのかの説明として利害・利益がもってこられることは今までもよくあった。しかしそれは説明はうまくいっているか。いないと思う。例えばこうした差異を設定することが「資本制」にとって有利だと言われるのだが、まず単純に考えるとそのように言えないように思える。商品が同じなら買い手は同じだけ払うことになるのではないか。単純に買い手の側の利益を考えると辻褄が合わない。他方、ある範疇が別の範疇に比して有利に扱われるなら、前者はそのこと自体によって益を得る。その区分の仕方はなんでもかまわない。その人自身の身体には何も書き込まれていない場合でもそれが利用されることがある。こうして単純に考えれば、雇用の場でまず益を得るのは相対的に有利な立場に置かれる側の労働者たちではないか。だがただそのように考えるのは、とくに家族という契機が含まれる性別分業を考えるなら単純に過ぎないか。そこでさらにいくつかのことを付加して考え、そして資本制といった曖昧な言葉を捉えなおしてみると、さらに別のことが言える。そのことを(立岩,2003)で述べた。そしてこのように考えていくことによって、少なくともいくつか、可能な道筋、そのための条件を示すことができる。
 困難がなくなるとは思えない。そこに社会的なという形容詞を付せばそれがなくなるとは思えない。しかし、述べたのは、その困難を縁取るようにして考えていくという方向があるということだった。幾つかの道筋で考えることができるし、考えるべきである。このように考えていくと、わからない部分は残りながら、可能性が現実にはあることが見えてくる。そのことによって、付加され想定されている現実の重さを軽くすることができる。
 同じ話の繰り返しだと揶揄されながらも構築=脱構築という枠組の話が続いているのは、尖ったところがあって、それが大切だからだと述べた。そこには、リベラルな許容でもなく、あるいは共同体主義者の粘着質の連帯でもない人や社会のあり方についての希望がある。ただ問題はそう思った後で何をするかだ。歴史性・社会性を様々な場で見出していく仕事は、まだ見出されていないものがたくさんあるから、いつまでも続けていく意義はある。ただ、そのことを言えばすむというものではない。また一度わかればまずはよいとも言える。様々言いにくいことがあって、こうしたものの社会性を指摘するという戦略によってだけでは、その記述・解析は十分でないということである。私は、さしあたり方法論も何もかもが不要で、素朴に調べられ書かれることがいくらもあると考える者だが、それとともに、手練手管を尽くし、つながっているとされるものを切断し、切断されているとものがつながることを言ってみることもしたらよいと思う。そのようにして、居直りに抗するとともに、難しいとされるものの難しさを少なくしていくことができる。

■注
(1) 文献表にあげるのは、本稿で述べることに関連して筆者が書いたものだけである。そうした無礼な文章ばかり書いていて大変恐縮だが、紙数の制約もあり、あげるべき文献への言及と参考文献の表示を一切略す。(社会科学の言説も含む)言説の収集・解読の作業として、病や障害といった領域に限っては(立岩,2004b)(立岩,2005)、他に(立岩,1997)(立岩,2000)がある。規範理論の解読と評価については(立岩,2004a)。これらに付した文献表を含め、関連文献の紹介、関連事項についての情報が、http://www.arsvi.com→「立岩」→この文章と同じ題のファイルからリンクしたファイルにある。

■文献
立岩 真也  1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44
―――――  1997 『私的所有論』,勁草書房
―――――  2000 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
―――――  2003 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215
―――――  2004a 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
―――――  2004b 『ALS――不動の身体と息する機械)』,医学書院→文献表
―――――  2004c 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,盛山和夫・土場学・織田輝哉・野宮大志郎編『〈社会〉への知――現代社会学の理論と方法 第1巻・理論編』,勁草書房(『理論と方法』27号(日本数理社会学会,特集:変貌する社会学理論,2000年)掲載の同じ題の文章をすこし改稿)
―――――  2005 『(題名未定)』,筑摩書房,ちくま新書→とりあげた本


■キーワード
自由主義,共同体主義、(脱)構築
liberalism, communitarianism, (de)construction

■英文題
On Misusage of "Social"

■和文要約
 社会学は「社会的であること」を様々な場に見出すことを行なってきた。しかしそれには幾つかの誤解と幾つかの限界がある。とくに規範的な含意がそこに見込まれるのだが、それは実際には存在しない。だがその弱点を補おうとして政治哲学等の規範理論を輸入しようとしても、それらにも同様の限界があって、そのまま借りてきても役に立たない。そこで、別様の問いの立て方、別様に考えていく道筋を示す。

■英文要約
 Sociology has been discovering "social construction" everywhere. But there are some misunderstandings and some limits in this pracitce. Especially normative implications are anticipated incorrectly. And normative theories (eg. poliical philosophy) can not make up for this fault. I propose some alternative ways of thinking sociologically.


■関連事項

 ◆共同体主義 communitarianism
 ◆自由・自由主義 リベラリズム liberalism
 ◆感情/感情の社会学
 ◆愛/帰属/承認
 ◆差別
 ◆社会学

 *以下はこれから増やしていきます。

◇Derrida, Jacques 1997 De l'hospitalite, Calmann-Levy=19991220 広瀬 浩司 訳,『歓待について――パリのゼミナールの記録』,産業図書, 178p. ISBN:4-7828-0127-0 2100 [kinokuniya][bk1] ※
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/derrida.htm


UP:20040821 REV:0822,23,1018,1201(本文掲載),08(誤字訂正) 20060614
社会学  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)