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介護保険制度改革の方向(与えられた題)

立岩 真也 2004/11 『生活経済政策』2004-11


1 介護保険は使えない制度である

  2005年度からなされようとしている介護保険の制度変更の全体については既に様々報道もされているから、ここでは述べない。多くの人には何が問題なのかわからないだろうと思う、介護保険制度と障害者施策の「統合」について書く。また両者の関係から何が見えるのかを述べる。こう絞っても、様々な論点があるのだが、一つ一つは詳しく論じられない。事実関係、また現実の動きについてはホームページhttp://www.arsvi.comに関連情報がある。この主題で他に書いた文章もある。その一つが、平岡公一・山井理恵編『介護保険とサービス供給体制――政策科学的分析』(仮題、東信堂、近刊)所収の「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」。それらをご覧いだきたい。
  介護保険がどんな制度かを最も簡単に言えば、使えない制度だということだ。在宅で生活している場合、訪問介護だけに使うなら、最も介護を多く要する等級に判定されたとしても、1日2、3時間しか使えない。月30万円以上といえばそれなりの額にも思えるが、短く用事をすませて次の家庭にという短時間の巡回型の介護で、移動の時間もかかり、それにあわせ時間あたりの単価もそれなりの額に設定されていることもあって、ごく短い時間しか使えない。
  まず、この程度のもので私たちがあきらめてしまっていることに驚くべきだ。そして、いま改革とされるものは、この程度のものでしかないからもっと使えるものへという変革ではないこと、そして様々な細々したことについてはいろいろと論議もあるが、最も基本的な部分についてはほとんど論議もないことに驚いた方がよい。介護制度のことを考えるのに、このことから始めないないなら、それは無意味であるか、有害である。
  それでも公的な介護制度とはこんなものだと思われている。だが障害者たちはここ三十年余の運動の中で、もっとまともな制度を獲得してきた。このこともまたほとんどの人は知らないのだが、1990年代の半ば、いくつかの地域で、いくつかの制度を併用した場合、最大1日24時間の有償介護が得られるようになった。その後も制度の拡充は進み、家族に頼らず施設に入らず暮らせる地域が徐々に拡大してきた。制度の一つは、生活保護の中にある介護加算、その中の他人介護加算特別規準と呼ばれるものの拡大だった。これは生活保護に詳しい人もよく知らない制度だが、家族からの経済的支援を受けずに、独立して暮らし、しかし収入と言えば障害基礎年金だけという人は、生活保護を使い、その中の介護加算に注目しそれを最大限に利用したのである。ただこの加算を利用できる人は生活保護の利用者に限られてはいる。本筋はもちろんホームヘルパーの派遣制度の拡充だった。そしてもう一つは自治体独自の介護人派遣事業の制度だった。これは1970年代の前半、最初は東京都でほそぼそとした制度として始まった。これも各地に広がった。そしてさらに、多くの自治体はこの事業をホームヘルプサービスの一部と位置づけることにより、国から半分の予算を引き出した(都道府県・市町村は各4分の1)。そしてこれらの制度には細かな判定の制度、判定による支給量の設定はなかった。こうした制度の拡大を、障害者運動は主に自治体の担当部署との交渉によって獲得してきたし、厚生省、厚生労働省の担当部署の役人には、その必要を確認させ、制度の拡充の方向で自治体に指示する役割を果たさせてきた。(以上については安積純子らとの共著『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』、藤原書店。)
  他方の介護保険について。この制度の構想段階では、障害者の側にいくらかの期待もあった。なかなかサービスの水準が上がらない地域があり、全国的な制度に期待があったのである。しかし、徐々にそれがどの程度のものかわかった時、障害者たちは失望し、この制度に自らが入れられることに反対した。こうした反対があったからではないが、2004年の介護保険の開始時、いくつかの例外を除き、高齢者でない障害者が介護保険による給付の対象から外れた。仮にあの時、あくまで高齢者でない人たちも含むものとして実施されようとしたなら、こんなものはまるで使えないという障害者の側からの反対が起こっただろう。すると、この程度のものでよいと言ってよいのかと気づく人が少しは出て、事態はあるいは変わったかもしれない。しかし実際は知っての通りである。
  制度は分かれたまま推移し、そして障害者施策は、「措置から契約へ」という標語のもと、2003年度から「支援費制度」というものに移った。これは宣伝されたほどには大きな変革ではなかった。ただ、この制度の改変に合せ、利用者にサービスの存在が周知され、各人の制度利用の必要が確認された地域では制度の利用は高まった。また、民間によるサービス提供がより容易になった。障害者自身が主体になってサービス提供を行なう「自立生活センター」と呼ばれる組織の活動は既に始まり大きな役割を果たしていたのだが(上掲『生の技法』で紹介)、そうした非営利民間組織の参入と運営が以前より容易になった。

2 使えない制度なので、障害者たちは「統合」に反対している

  こうして制度が変わって間もないのに、今起こっていることは、こうしてこれまで別建てできた制度を、少なくともその一部を、介護保険の中に入れようという動きである。
  これを国がどの程度まじめに考えていているのか私にはわからないところがある。一つの要因は、介護保険運営に関わる行政側の意向だろう。介護保険からの給付が予想外に――と言われるが、それはただ予想が間違っていたのだと言うしかない――増え、保険料がほしい。それで40歳以上の人からとなっているのを20歳にしたい。そのためには、サービス利用も20歳以上からとした方が受け入れられやすいだろうと言う。そして介護保険見直しの時期は開始後5年後の2005年度からと決まっていて、この後はまたしばらくない。だからこのたびの制度改定にともかく乗せてしまおうと言う。
  他方の障害者福祉の側はどうか。支援費の支出は予想より――これも予想が間違っていると言うしかないのだが――多くなった。それをやりくりできないと、また次の年の予算を確保するのが難しいと言う。そして三位一体改革で、地方分権の流れで、やがてこの予算は一般財源化されるだろう、それより介護保険を財源にした方がよいだろうと言う。
  この説明を受け入れた部分もある。また知的障害や精神障害者の団体、というよりその親たちの団体にも受け入れを表明したところがある。まずこのままでは予算が頭打ちになり、減らされ、出なくなることを前提として受け入れる。また、知的障害、精神障害についてはほとんど何の制度もない現状がいくらかでもよくなるかもと考えたのかもしれない。高齢者と同様、知的障害の子が家にい続けることは前提とした上で、すこし世話が楽になれば、それだけでもたしかによいだろう。また作業所の活動がデイケアといった位置づけを得られれば、親たちの多くも運営に関わっているそうした施設の運営がいくらかは楽になるかもしれないといった思いもあったかもしれない。
  しかし知的障害や精神障害の人への介護サービスとは何か、国の行政もその説明に乗った側の誰もまともに考えているとは思えない。作業所に通うといった部分は算定の対象にされやすいかもしれない。しかし、そんな生活ではない生活を送ろうとした場合、いったい誰がやってきて、どんな規準で、どれだけの必要を査定されることになるのか。様々に干渉はされようが受け取れるものは少ないだろうという予測は容易につく。だから、基本的には賛成できないとする立場の方が、現実的である。実際、審議会などには代表を送れていない知的障害、精神障害の本人たちの組織では、私の知る限り、反対論の方がずっと強い。
  また賛成する人には、介護保険に基本的に肯定的な人たちもいる。もちろん、あれだけの規模の制度を創設するにあたっての努力、尽力は認めよう。しかし、その功を認め、賞賛することと、今の制度がどの程度使えるものかという評価とはまた別である。ようやく整ってきた制度によって、施設外で親に頼らずとも暮らせることになった人への介護が2時間とか3時間とかに切り下げられる。しかも今の判定規準なら、要介護度3程度にしか判定されない場合が多いから、その2〜3時間も得られない。介護保険の時に脅威として感じていたことが現実化するのだろうかと危惧される。また2003年、支援費制度が始まる時にも、サービス供給時間に上限が設定されようとした。それは結局は障害者側の反対運動があってひとまず取り下げられたのではあるが、今回のこともそれと同じ抑制の流れと捉えられて当然だ。(この出来事について岡部耕典「支援費支給制度における「給付」をめぐる一考察――ヘルパー規準額(上限枠)設定問題」を手がかりに」。「障害者と社会政策」を特集した『社会政策研究』第4号(東信堂)に掲載されている。この号には他にも有益な論文がある。)
  もちろん、推進側も全部を介護保険でという言い方はしていない。最近は「統合」という表現も「誤解を招く」と言う。「介護保険で対応できない部分は別建ての制度で」、とは言っている。しかし、それがいったいどの程度のものであるかは明らかになっていない。障害者と直接の交渉をしてきて実情を知る担当者たちを別にすれば、厚生行政の人たちも、これまで獲得され、それで可能になった生活の実態と、介護保険程度のものとの間の決定的な違いを知らないまま今回のことを言い出してしまったところがある。また、制度の具体像はまだ、と言いつつ、介護保険が対応しているような「基礎的」な必要以外の部分については自治体独自で、とか、ボランティア等に参加してもらえばよいと思わず言ってしまいもする。いったんは現在の水準が保障されたとしても将来どうなるのか。介護を使う側の危惧は現実的でもっともなものである。

3 介護保険は既存の巨大な制度だが、それでも基本から考えるべきだ

  事態は以上のようであり、「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」他の障害者組織は、制度の全体像・具体像が示されないままで介護保険制度に入ることに反対しており、それは当然のことと言うしかない。
  以上を伝えること自体に意義があると考えたから、以上を述べた。その上で、介護保険(改革)について、あるいはそれについて何か言うことについて、少し加える。
  「筋論」を今さら言ってどうなる、というのが、介護保険に乗るしかない、という人たちの言い分である。しかしそうか。筋論さえきちんと言えないところに私たちがいる、それがまずよくないと思うべきではないか。様々問題があることを承知しつつ、と言いながら、基本的に介護保険程度のものを受け入れ、障害者についての制度をなにか整備されていないものと見、その人たちの主張の方をなにか非現実的なものと思ってしまう、研究者その他の見方が問われる。行政の側も「社会の理解」をすぐ持ち出す。それに寄り掛かっていると批判することは簡単だが、では代わりにどう言うべきか。批判的に政策に対していると思っている側さえもが、「常識」の水準に身を置いてしまっていないか。
  もちろん、介護保険は、最初から若い人も保険料を払う仕組みにすべきだった。今からでも、払う年齢の引き下げは、それはそれとしてすればよい。払うだけでは国民は納得しないと官僚は言う。わからないではない。しかしまず、年金も払う年齢と受け取る年齢が違う。介護保険も将来受け取れる可能性がある、払える時に払える人は払え、でよいではないか。
  そしてもっと基本的には、「保険」という言い方の問題である。介護保険は相互扶助の機構であり、将来のリスクに備えたまさに「保険」であるという言い方がされてきた。これはもちろんかなりの程度もっともな考え方であり、制度を始めようという時に、人々を説得するに際しても使える理屈ではある。しかし、生まれてからずっと障害がある人と、もう既に何十年も障害なしで生きてきた人との間の差異は明白であり、前者の人の介護を保険の論理は正当化するだろうか。入れてもらったとしても、自分たちは保険の中の「お荷物」扱いされないだろうか。介護保険に対する懸念はこんなところからも来ている。この危惧もまたもっともなものである。むろん、擁護する人たちは、これは「公的」保険であって、税金も半分入っている、任意加入の制度ではないと、問われれば、一方では、言う。しかし、他方で保険会社の広告と同じ文言を繰り返し、かえってそういう社会的意識を強めてしまっている。税金では予算が確保できないから障害者も入れようという動き、自分のリスクに備えてという意識を介して若い人にも保険料を払わせようという発想自体、障害者たちの懸念がもっともであることを示している。
  むしろはっきりさせるべきだと考える。加齢に関わるものであれ関わらないものであれ、障害による生活上の不便を少なくし、普通の暮らしができるために必要なだけのものを提供するのは社会的義務であるとはっきり言った方がよい。よって、介護についての費用を払うのも義務なのだと、きちんと言うべきだと思う。でないとますます、私的保険のようなものと錯認させ、その制度でできることが狭まってしまう。保険料を払わないのは合理的な選択で、責められるいわれはないといったことになり、かえって制度の運営が困難になってしまう。
  次に、「地方分権」ならなんでも肯定してしまう人がいるのだが、そうは言えない。どこで生まれ暮らしていようと、必要な水準の介助・介護は受けられてよい。さらに、ある地域で制度をよくすると、その制度が必要な人たちがその地域に入ってくる、そのために予算が増え、それを恐れて予算が押さえられるといったことが、たんに理論的にありうるだけでなく、現実に既に起こってしまっている。基本的に介助は全国的な制度であるべきだ。
  規準を設定し状態を判定し供給量を定めること、専門家によるアセスメント、マネジメントが肯定的に語られる。それらが評価なしで言及される時にも、もう既に決まったもの、よいものとして扱われてしまっている。たしかに完全な出来払いは難しいだろう。「過剰な利用」を抑えるための自己負担と言う理屈も、まったくの間違いではないだろう。しかし、判定し供給量を決めること、また自己負担を求めることは、本来は望ましいことでないという地点から、工夫できるところは工夫し、ない方がよいものはできる限りなくすることである。医療保険は基本的に出来高払いである。むろん、だから医療費が膨張したのだとも言われるし、次に、医療と介護とは異なるとも言われる。しかし、過剰医療の問題は、むしろ直接の供給側が多く供給して利益を得ようとするところにある。それをうまく制御できればよい。介護にしても医療にしても、利用者の側は、いくらでも欲しいとは思わない。そして医療には単価の高いものもあり、それらを同時に複数使うこともできるが、介護の場合、行なうことは基本的には1人、ときには2人の人が就いて世話することであり、そしてどんなに長くても1日は24時間である。医療に比べれば、自然な限界はむしろ介護の方に存在する。
  しかしやはり資源は有限だとか、高齢者の増加だとか、と同じ話は繰り返される。それに対して資源はある、余っているというのが私の答だ。そのことは、1つの数字も出てこないが、「選好・生産・国境――分配の制約について」(『思想』2000年2月号・3月号)で述べた。さらに基本的なことは今年刊行された『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店)に記した。またより具体的に介護については、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社)の中に書いた。そして、長い時間介護する人がいるかいないかがまったく文字通りの意味での生死に直結し、実際に死がもたらされている人たちに、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちがいる。その人たちのことを書いた『ALS=不動の身体と息する機械との生』(医学書院)をこの11月に出してもらう。一読していただければと思う。


UP:2004
介助・介護  ◇立岩 真也
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