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書評:ジャン=ピエール・ボー『盗まれた手の事件――肉体の法制史』

立岩 真也 2004/10/08 『週刊読書人』2557:4



◇Baud, Jean-Piere 1993 L'affaire de la main volee: Une histoire juridique du corps, Editions du Seuil=2000407 野上 博義 訳,『盗まれた手の事件――肉体の法制史』,法政大学出版局,りぶらりあ選書,298+54p. ISBN:4-588-02223-7 3780 [kinokuniya] ※

 ある種のフランス的な知性の働きによってというのだろうか、長い歴史の中で、社会と法において、肉体がどのように扱われてきたのかが辿られる。ただ、歴史を記述するだけが著者の狙いではない。著者は、フランスの法、法思想における肉体の扱いが間違っていることを指摘し、自説を対置させようとする。その間違いを言おうとして、また掬い取られるべきものが過去にあることを言おうとして、歴史が辿られるのである。
 興味深い記述はいくつもあるが、その歴史記述がどれだけ妥当なのか、どれほどの価値をもつのか。このことについては評者はまったく不案内で、判断する資格がない。そして、その歴史記述と規範的な主張のつながりがうまくいっているのかという問題もある。近代に至る法体系、法思想が人の肉体を無視するようなものとして構成されてきたというのはありそうな話だが、その話にいくつかの要素が混在しているように思えるなど、疑問は残る。だが、それもここでは置こう。それよりさらに素朴に、著者が言おうとしていることに腑に落ちないところがある。
 おおむね著者は次のように言う。フランスの法理論は肉体を人格とする。すると、肉体のある部分、例えば手がその人から切り離されるなら、それは無主物になり、その手に対する権利をその人は主張することができなくなる。最初にそれに触れた人のものになってしまう。これはよくない。代わりに、肉体はものであり、そのものをその肉体とともにある人は所有するとした方がよい。ただそれは売買されてならないものとしよう。
 だが、身体と人格とを切り離せないものとするとしても、そのことは、身体のある部分が、その人の身体に接続していることにおいて、その人格と結びついていると考えなければならないことを意味しないはずだ。例えばその手がその人から離れたとしても、依然としてその人の人格を構成すると考えることは可能である。したがって、手が盗まれた時、その盗まれた手に対して、その人がなんらの権利ももたないということにはならず、拾った手を持ち去ってしまうのは人格に対する毀損であり不当だとも言えるはずではないだろうか。また著者は、所有権は認めるが売買は認めないとも言う。とすると、米国流の生命倫理学の流れとはたしかに少し異なるフランス流の身体の尊重とどれほど異なった話になるだろうか。またそれは彼の論の流れと整合するだろうか。
 体内にあるものにしても、その人から離して流通させてよいだろうものとそうでないものと両方があり、その境がどうなっているのか、あるいはどうつけるのか。またそれから得られる利益をどうするか。こうした問題がある。この本でも、一九八〇年代末カリフォルニアで細胞を巡ってその保有者と研究・開発者とが争ったムーア事件に言及がある。科学者・企業に属するという州最高裁の判決を著者は批判し、それを言うのに、この点では同じ判断をするはずのフランスの法・法理論より、自らの論の方がよいと言う。しかし、科学者や企業のものでないなら、その保有者のものと決まるだろうか。そうとも限らないはずだ。このことを評者は言ってきた。また最近では、『GYROS』(勉誠出版)という雑誌が「ゲノム革命」という特集を組むというので、依頼されて原稿を書いた。そこでこの事件にも触れ、保有者と研究・開発者のいずれのものでもないと言える場合があるはずだと述べた。比較して考えていただけたらと思う。


UP:20041004 REV:20050201(誤字訂正)
書評・本の紹介 by 立岩立岩 真也
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