HOME > Tateiwa >

信について争えることを信じる

立岩真也 2004/07
『en』2004-7 http://web-en.com/
http://web-en.com/backnumber/0407/main.cfm


 ※以下は、『en』2004-7に掲載された原稿(2004.06.16送付)です。
 ※この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました(pp.247-255)。買っていただけたらうれしいです。


  信と信とが強くぶつかっていて深刻な事態が生じているように言われる。そのことを気にしながら、どんなことが考えられるか。
  複数の信があることに対する近代社会の対し方が「寛容」だということになっている。信じていることの中味に介入せず、その人がそれを信じている限りにおいてそれに干渉しないという。これはキリスト教世界の内部での深刻な対立に対する知恵だったとされ、いわゆる「リベラリズム」の流れに継がれていく。
  しかし第一に、これもまた一つの主義・立場であり、主義・立場でしかない。この立場は個々の信に対してメタの立場に立とうとするが、やはりこれ自体一つの特定の立場であり、それが他よりも優位であることは論証できない。あなたの信は様々ある信の中の一つであると言われて、多くの人はそれを事実としては認めるだろう。だが、例えば信じてよいものは人それぞれではないと考える人には、この立場は通じない。
  第二に、そうであるにもかかわらず、この立場は優位であると自ら称するように見えるし、実際そのように言っていること、言っているとしか受け取れないことがある。そしてそれは、個々の信を並存させよう、調停し調整しようという役回りを演じようとする限り、必然的に起こってしまうことでもある。とすればそれこそが傲慢であるという主張はもっともである。
  第三に、その中味は問わない、信じている内容を認めるのではなく、信じているという限りで認めようというのだが、それはその個々の信の無視、さらに軽蔑に近いもののように思える。この枠組みの中で例えばゲイを認めのは、それが「プライバシー」(個々人の信条・嗜好・趣味…)の範囲内にあるとされるからであって、そこではゲイは結局認められていないのだといった批判がなされる時にはこのことが言われている。
  そして、実際には並存ですまない場合、あるいはすませられないと感じられる場合がでてくる。その場合にはどうなるのか。対応には様々あって、例えば現在の米国国内の諸勢力と政府の主張、相互の関係を見ても複雑であり、ここで検討することは不可能である。ただ、まがりなりにも自由や寛容という立場を維持すると言う人たちが他を非難し否定する時には、思想・信条には言及しないことになっているから、それを人権・人道に反する極悪なものだと非難することになることがある。
  次に、上述したものも、政教分離、公私の分離を前提した上で、問題を公の、政治の場にもってくる方法なのだが、その方法の中のもう一つは、手続きを問題にすること、つまり民主的でないという言い方の非難である。ここで考えるべき問題はさらに大きくなるのだが、ここでは一つだけ。規範の内容を言わず、手続きの正しさとしての正義という基準だけで何か言えるのかである。論証は省くが、たいしたことは言えない。とすると、一つに何も言えずにとどまる。一つには何か別のことを言っているはずである。とするとそのことに気づいているのか、また別のこととは何か、そしてそれを認められるのかといった問いが残される。

II

  以上でざっと見てきた立場、人の具体的な存在に関わらろうとせず、中立・透明を標榜する、あるいは詐称する立場に反発し、もっとそこにあるもの、具体的にあるものを大切に、という立場がある。「共同体主義」と呼ばれものがそうしたことを言っているとされる。
  人は暮らす場所で具体的なものを受け取り、与えて、そうして社会もできるし、人間もいるのだと言う。そしてその事実を指摘するだけでなく、そのことが大切なのだと言い、そうした個々の文化その他が尊重されねばならないと言う。さほど大きくない単位が大切であると言い、同時に、それが人の連帯の限界であるとも言う。人の連帯が必要なら、その個別の集団に共有されているものを尊重し、必要なら強化すべきだと言う。それは区切られているその境界を強くする方向に作用する。紐帯が信によって可能になるなら、それは個々の信の境界の手前で終わり、それ以上には広がらなくても仕方がないと言う。あるいはこの言い分を追認する。
  そしてリベラリズムはこの流れを半ば以上認める。まず集団の中に人が生きることを事実として認めるし、個々人がそれを自ら信じていると表明する限り、その人、その人たちの集まりには基本的に介入すべきでないとされる。また共同体主義の側からも、(より積極的な措置を自らの集団のために求めるといった場合は違ってくるが)ある種の相互不干渉を支持するかぎり、寛容という手法は支持される。この二つの立場は互いに対立する契機を含みながらも、ある種の共存がときに実現する。
  ただこの二つの妥協、あるいは癒着は何をもらたすか。世界の分割の固定、むしろ力の強い集団の内閉と同時に膨張の追認になるのではないか。どんな人であってもよいという解放感が寛容や自由の思想にはあったのだが、それがここでは半ば失われる。

III

  以上がなんらかの「規範的」な立場を明示する流れであったとすると、それと少し異なって、「構築」だとか「脱構築」だとか言ってきた流れがある。私は、基本的に、これは様々に揶揄されながらも、後で短く述べるように「正解」だと考えている。しかしなかなかこれもやっかいではある。それは、手続きの適正さによってであれ規範の内容によってであれ裁定が可能だと認めることをためらい、裁定者を置くことを肯定できない。むしろ中立を称する者たちが中立でないことを指摘する。そして多様性を認める。しかし世に衝突はあり、問題が現存することも認める。この時にここまで略述してきた人たちと同じことを言うか。言いたくはない。では黙るか。しかし、この人たちはじつは最も「実践的」な志向が強いので、それにはかなりの無理がある。そこにある声や、声にならない声をよく聞いて、と言う。聞くことはよいことなだが、聞いてどうするか。むろん聞いたことなどないのだから、まず聞いてから、という態度はいつまでも正しいのではあるが、しかし、というところで行きつ戻りつ、ということになる。多くの場合、自然とされているものが実は構築されていることを暴くという手口が同じで粗筋が同じなので、移り気な人たちから既視感しか感じないと不平を言われることになる。

IV

  さてどうしようか。
  まず、みなが知っているように、対立や悲惨は別の理由で起こっている、少なくとも強められている。例えば移民・外国人労働者排除の問題は、基本的には、属性や宗教の問題ではまったくない。これを解決するべきであるなら、それは唯物的に解決すべきことである。ときにきわめて困難なことだが「確率」を用いた排除を行わないことである。相対的に危険であるから排除するという論理を、無理してでも可能な限り、拒絶することである。そしてここで国家という単位では問題を解決できないので、どんなに怪しげなものであっても国際主義が要請される。現在の事態を作っている仕掛けとその仕掛けを弱める仕方を、列挙し、組み合わせていく必要がある。こうした作業は、歴史性・社会性を様々な場で見出していく仕事とは少し異なる――見出されるのは当然であって(しかしまだ見出されていないものがたくさんあるなら、いつまでもその仕事を続けていく意味はあるのだが)、その上でどうそれを編成しなおしていくかである。
  以上を当然とした上で、次。私がこれまでやってきた仕事は、まずいわゆるリベラリズムが不偏性を主張したとして、実際にはそうでないことを指摘し、それが支持する規則――私が俎上に乗せたのは所有についての規則だが――を取り出し、それを批判することだ。 ここで間違えてならないのは、私たちがすべきことで、できることは、「偏り」をただすことではない、ということである。偏りのない立場などというものはないし、ないにもかかわらず、あるように言ってきたなら、それは嘘を言っている。ある偏ったものを批判し、代わりに、別の偏ったものを、いちおう理由は付した上で、提示すればよい(今年公刊された著書では『自由の平等』、岩波書店)。
  だから、すべきことは信の「中味」を問題にし、検討することであり、批判することである。ただ私は、近代の社会の規則・価値についての検討しかしたことがない。他に様々あるものについて、どのような基準からその中味を問題にしたらよいのか。よくわからず、それ以前にその各々を知らない。ただ一つ、もちろんその検討は、信じている対象が実在する証拠を求めるといったものではないだろう。そして信じることの肯定的な作用を認め、さらに例えば、イスラム教の方が、政教分離の上でのキリスト教よりしかじかの点ではよいものであると言ったりするものであることになるだろう。こうして、尊重すると言いながら実際には無関心か軽蔑に近い位置にいるのでなく、介入すべきだと思う。その上でその改変を要求したりもすることだと思う。
  それは結局混乱を増加させ、対立を強めるだけだろうか。むろんその可能性はあり、だからこそ寛容という知恵も生き続けてきたのかもしれない。しかしその問題は述べたとおりだ。とくに細々した規則が教典に書き込まれ、その規則の遵守によって信心が試されるといった教義の場合、その規則の変更を求めるのは難しい。ただ、そのどれを強調したり杓子定規にしたり、拡張したり縮小するか。それは現実には、歴史的には、加塑性があってきた。そして、人が信ずることがあるということの基本的な性格ゆえに、ここで私が争うべきだと思う争いは、ただの消耗な争いに終わると言えないと私は考えてもみる。
  そしてこの場合にも、個々に考えてよいことを一つ一つきちんと考えていていくことである。例えば宗教が並立してあることと、複数の言語が認められることとは、関連していながらも、異なる。前者は仕切りをした上での相互不干渉が相対的には容易だが、後者は、より広い場において複数が認められ相互間の翻訳が求められる。ではどうするかといったことを考えていくことである。
  そして、最初から信は遠くに及ぶと考えた方がよいし、相手を選ばないと考えた方がよい。さきほど私は構築や脱構築を言う人たちに否定的と受け取れることを述べた。しかし私は基本的には肯定的であり、同じ話の繰り返しだと揶揄されながらも続いているのには理由があるとも思う。それは、リベラルな立場からの許容からでもなく、あるいは共同体主義者の粘着質の連帯でもなく、やさしい肯定の仕方とは別の仕方で、「なんでもよい」というメッセージがそこにあるからだと思う(上掲拙著第6章)。
  たしかに私は地球の裏側で起こっていることを悲しまない。しかし同時に人はなぜそうであるのかを知っている。立ち合わないですむことになっているからである。そして、相手が誰であるかに関わる肯定、自らの嗜好と趣味の範囲にある肯定は、結局、自分もそして他者も肯定することがない(同上第3章)。非現実的と見える対象の種別に関わらない信の方がむしろ基本的で現実的だと言えるはずだ――このことは、さきに、信を巡る争いが消耗な争いになると限らないと述べたことに関わる。むろん他方で、選択があること、好みがあること、それは否定されないし否定されえないのだが、それは二つが同時にあるということである。基本的な信は特定の対象を選ばない運動としてある。そしてそれがうまく作動しない時、なにか特定の対象に向かうあるいは特定の相手から得られる肯定が求められてしまい、内容に関わる信が場所を広くとり始めてしまうと考えることもできると思う。
  だから、第一に、私は中立の裁定者を装う立場を批判し、同位における争論を支持する。第二に、関係の近さ遠さを持ち出してきて社会の可能性の限界を言う立場を批判し、遠くに及ぶことの現実性を言う。第三に、以上の気分を私と共有しながらも意外に実証主義的で禁欲的な流れに対して、もっと先まで進んで考えたらよいと、そして言いたいことを言えばよいと言う。


UP:20040616
自由主義 リベラリズム  ◇共同体主義  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)