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市民は当然越境する

立岩 真也 2004/07/01
『volo』39-6(2004-7・8):20-21(大阪ボランティア協会

 *この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

 ■市民は国民ではない

 たぶん私はこれまで書いた文章で「市民」という言葉を一度も使ったことがない。たいてい「人々」と書く。ただ、それはほぼ語感のゆえのことで、おおむね市民でもかまわない。ここでは、もしこの言葉を肯定的に捉えようとするなら、市民は「国民」でないことについて、ごくごく当たり前のことを、確認しよう。
 このごろ、むろん以前からいるのだが、「愛国心」を言う人たちがいる(Aとする)。憲法の文言に入れたらよいなどとも言う。その人たちはとても真面目でよい人たちでもある。その人たちに対してどのように言うか(このことを考える人をBとする)。
 Bは、一つに、思想・信条の自由という場所から反論しようとするかもしれない。「何かを愛しなさい」などと押しつけてはならないと言うのである。しかし私はこれはうまい反論ではないと思う。実際に人がどうであるか、どうあることができるかは別として、そして「愛する」という言葉にも抵抗があるとして、人を尊重すべきだと言うことは、人の社会のきまりとしては正当なことであり必要なことだろう。こうした基本的なことについて、人は自分自身の自発性、欲望や思いにのみ従うべき、従ってよいとはならないはずである。
 この言い方ではなくBが主張できるし主張すべき多分ただ一つのことは、肯定し尊重すべき相手の範囲をもっと広げる方がよい、少なくともそれを狭めるべき理由はない、と言うことである。
 まず、自分以外の人に対して義務を負うことを、愛国心を言う人Aは、真面目な人であるから、認めている。(「自分より他人を大切にすべきだ」という主張はこれとは別の主張であり、これをどう考えたらよいかはわりあい難しい問題だと思う。私は、自己犠牲はよいことではあっても強いてはならないことだと考えるのだが、その説明は略す。)その意味で、愛国者Aは私(たち)Bと前提を共有している。
 このことを確認した上で、Bは、その尊重すべき範囲を国を境に区切る根拠はない、と言う。ただそう言いさえすれば、基本的には証明終わり、である。

 ■反論(1)〜(3)への反論

 (1)それでも終わりたくない人Aは、これは日本国の法・憲法であるから、その対象が日本人であるのは当然だと言うかもしれない。しかしこれはもちろん理屈にもなにもなっていない。たしかにその法・憲法は日本の人の法だが、その人たちが何を尊重すべきであるかは別のことである。「誰が何を」のうち、「誰が」が日本人であっても、「何を」は日本人でなければなならないことはない。Bはこう言えばよい。
 とすると、それでもやはり終わりたくない人Aは、あなた方Bの案はそれ自体はわるくないが、集団の固有性を無視している、否定しようとしていると言う。あるいはあなたの言うことは夢想である、現実的でないと言う。これらもさらにいくつかに分かれるから、分けて考えてみる。
 (2)Aは、日本には固有の文化があって、それを愛せと言う。しかしBは、まず、私たちは人間を相手にした場合を考えているから、ここは別にした方がよく、人を相手にした場合には、人を限定すべきでないというBの主張は依然として有効だと言えるはずだと言う。また、文化となると、その特定の形態を法によって支持すべきとするのは越権ではないか、とも言えるだろう。さらに、法により人を強制しないと守れないような文化はたいした文化でなく、その文化がよいものであればこうした規定は不要なはすだとも言う人もいるだろう。
 次に現実的でないという主張は二つに分けることができる。一つずつ見ていこう。
 (3)Aは、人はそんな遠く広い範囲の人のことを考えることはできないことを指摘する。こういう傾向は私たちにたしかにあるように思われ、その指摘はある程度説得力がある。だが、まずもしあなたAが私たちBと同じ立場を共有してくれるのであれば、この傾向は共通の立場の実現を困難にする現実の要因なのだから、むしろその困難を除去するような方向を考えるべきだという主張に同調してくれるだろう。とすると、ここで愛国心を言うのは、より広い範囲に広げようとするのを抑止し、むしろ困難を増加させる、ゆえに望ましくないと言える。(さきの(2)の主張が、固有のものの共有があるから内部の紐帯が強化される、ゆえに固有性の尊重が必要だという主張であるとすると、それに対しても同様のことが言える。つまり目指すべき状態が違うはずだと言える。)
 次に、たしかに人は具体的な人から、例えば死の悲しみであるとか、具体的な感情を受け取るのではあるが、しかし、遠いところに行けばそこにも具体的な関係があることを知ってもいる。また、既にかなり遠いところにいる人のことを私たちは感じることが実際にできている。そして国家というものも十分に大きなものだ。その範囲で連帯が可能なら、それをもうすこし広げることも難しくはないと言えるはずだ。

 ■「現実」(4)という条件

 (4)もう一つのAの指摘は、現実に国々は既に分かれてしまっているから、それを前提に動かざるをえないではないかという指摘である。これはその通りといえばその通りで、Bもその現実を認めざるをえない。これが最も強力な論点である。
 ある場で人を差別しないで受け入れると、差別されたくない人が入ってくる一方で、それでは損をする人は出ていってしまって、その結果、その場の維持・存続が厳しくなることがある。また現に競争が集団単位でなされている時に、その競争に参入しないとその集団、集団の成員が不利益を被る。だから外から守り、内部の力を高め、そのために内部の紐帯を強めるべきだ、という話はまったくの嘘とは言えない。
 ただその結果起こることは、多くの人の生存の困難である。それは競争で優位な地域の内部にも生ずる。そして優位な集団の中のさらに優位な位置にいる人にさえ、常に、なくてもよいはずの圧力がかかることになる。たしかに競争は有用なものを早く産み出すことがあるが、ここではその弱点の方が強く現われる。きちんと説明すると長くなるが、基本的には、この状態は好ましくない、正しくないと言える。
 けれども問題は、単独で好ましい方向に行こうとすることが難しいことである。自分だけよいこと(正しいこと)をしようとすると結果として自分が背負いこむことになり、自分がわりをくうはめになる。小さいな場所、大きな場所、様々な場所に見られるこのことがここでも起こる。
 こうした事態に対する解法は、原理的には、世界全体で同時に現在の状態を解消することだが、むろんそれは難しい。ただ、こうして事態を整理した上で、問題の所在を確定し、基本的な方向もわかった上で、相対的にましな方向をその時々に選択することはできる。「国益」を無視できない事情を理解しつながら、しかしそれは基本的によいことかと考えていくことができる。

 遠回りと思われるかもしれないが、私はこういう理屈を連ね、重ねる仕事が大切だと思っている。それで『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店)という本を今年出してもらった。また私が務めている大学院はこんなことを考えてたり調べたりしようという場でもある。よろしかったらどうぞ。私のホームページhttp://www.arsvi.comをご覧ください。

 *原稿送付:20040609


UP:20040610 REV:20040724 20050524(誤字訂正)
国家  ◇立岩 真也
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