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世界の肯定の仕方

立岩 真也 2004/02/28
『文藝別冊 総特集 吉本隆明』,河出書房新社,pp.94-97

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 彼が書くことは肯定的だ。置かなくてもよいものを置かない。これは大切なことだと思う。よい読者ではない――すぐに使う本しか読めない不健全な暮らしをしていて、ここ二十年ぐらい彼の本を一冊通して読んでいない――私は、このことだけを言おうと思う。
 しばらく「政治哲学」の人たちが書いているものをすこし読んだ。リベラリズムだとかコミュニタリアリズムだとか様々な立場があり、大きな話から具体的な主題まで、ここ数十年をとっても夥しい言説の蓄積がある。そしてなかなかもっともなことも言われていて、なるほどと思うことがある。他方、この国でどんなことが言われてきたかを思うと、論理の詰めが甘い、というより論理がないことが多いから、それに比べるとよいと思う。それである程度感心しながら読んだ。しかし違和感を感ずることがあった。前から思ってきたことなのだが、やはりあらためてそう思った。
 そしてそんなことを思う時、ときどきこんなではなかったような気がする人として想起したのは吉本だった。何を読んでそう思ったのか、たしかな記憶もないのだが、しかし、たしかに異なっていると思い、そして彼の方が正しいと私は思った。彼には、何かに、例えば政治に参画したり、あるいは何かを、例えば自分自身を自らで作り出していくことが、それはときに必要であったり、ときにそれを人は求めてしまったりすることがあるとしても、それ自体として価値があるわけではないという、冷静な認識があると思う。また、そんな「積極的」な契機が人に含まれてなくても、それはそれでよいではないかという見方があると思う。
 私がおおむね翻訳で読んだ著作者たちは、立場を超えて、このようには思わないようなのだが、その方が間違っている。このあたり前の立脚点に立った方がよい。ただ、この健全なところから発しても、そこからのもって行き方を間違えると、行き止まりになってしまう。この場所をふまえながら、違う行き方があるはずだ。次にこのことを説明する。



 人はしかじかであるべきだと言う人たちのもの言いに反発し、いまそこで暮らしている人たちのあり方を肯定するとしよう。同時に、世界を見たり考えてしまい、世界は変わらなければならないと思う不思議で不遜かもしれない欲望がある。そして同時にそれを傲慢かもしれないと思う心性があった。人々から離れている自覚があり、しかし同時にその人たちの方が肯定されてよいという感覚がある。そんな心情に吉本の言説は入り込むところがあり、それによって支持されてきた部分があるだろう。
 そしてこうした心情が生ずる基盤があった。例えば、しばらくの間、大学生は少数者で、その人たちの多くはそうでない多くの人の中に暮らし、その後、その人たちのいる場所を後にしてきたという意識をもっていた。そんな関係に縁のない人もいるが、その人たちの中にもこうした関係を尊重する人たちがいた。それはこの国だけにあったのではないが、またどこにでもあったものでもない。そんなことを最初から気にしていない人たちがたくさんいる社会もある。また、多様性の尊重と言いながらどこかで人の同質性を想定している人たちもいる。近代社会でありながら十分に階級的な社会に前者のような傾向があるのは否定できず、また米国の論者について後者のような傾向が拭い去れないように思う。他方、そこにいる人々に距離感をもちながらもそれを肯定する意識は、ある形態の「途上国」にあり、そしてある階層から階層への流動性が一定存在する社会にあった。
 その意識は、啓蒙の言説が信用ならないと思う。もちろん民主主義者である限りの人たちは皆、民衆や大衆や市民が大切だと言い、その思いをすくいあげるとか言うのだが、そこにも押しつけがましい感じはある。それはつまり人々のなかの気にいったところだけを取り出している、あるいはその思いなるものを都合のよいように解釈しているように思える。
 この狡さに敏感であることはよいことだ。ただそれは対抗言説としてあり、そして依拠するのは自分自身ではなく、自らが積極的な像は描かない。解放を見ようとしながらも、人々の現実を肯定する。とすると一つに、どこかに自分の想定する像にあった人がいないか、残っていないか、探しに行くことになる――もちろんそうした動機が自覚もされるから、それはかなり自己懐疑的な行ないとしてなされるのでもあるのだが。もう一つに、人々の、そしてとくに何をするでもない自らの肯定になって、それで終わる。それは否定感のようなものと肯定感のようなものを並存させる。全面的な否定と全部の肯定とがつながってしまう。それでそのままになり、べたっと静止してしまう。
 それは違うのではないか。上の世代の人たち、団塊の世代の人たちは、誰に就くのかとか、どんな陣営に就かないのかといった、そういう態度のことばかり言って中味を言っていないと私は感じた。わからないではないその心性はともかく、考えるだけのことを考えて、書けるだけのことを書けばよいではないかと思った。その結果はまったくだめなものかもしれないが、しかしそうかもしれないとしても、まずそれをやってみてよい。
 まず、誰かに代わりに言ってもらう必要はとりあえずない。その人がこうだから賛成だとか賛成でないとか賛成しなくてはならないとか、そんな義理はない。どのような社会のあり方がありうるか、それはなぜか、どんな条件のもとで可能か、まずそれを言えばよいではないかと思った。少なくとも私には見えてはいないし、ではどこかにあるものをそのまま持ってくればすむとも思えなかったから、考えて言えばよい。
 例えば権力について。権力と大衆という図式はどこでも描かれるし、それはもっともなことだし、後者は嫌悪し警戒すべきものであるという感覚は基本的には健全なものではあるだろう。しかし、そうして懐疑する人たちもまた、強制力の行使が何もない状態を具体的に想定し、それを支持しているわけでもないようだ。とすると、権力、政治権力はどんな条件のもとで、どのような場合にどれだけ必要なのか。そんなことを考えていくしかないと思う。権力の無化を信じてもいないのにただ言うだけでなく、他方、現実の政治を仕方がないと語るのでない語り方があるはずで、そんなことを考えて、それをまず言ってみることができるはずだ。



 ではこのように考えていく時、吉本から受け取るものはなくなることになるのか。そんなことはない。あると思うと最初に言った。例えばさきの政治哲学だが、左派にしても、また何でも壊してまわりたい(ように読める)ポスト近代派の論者たちにしても、意外と真面目なところがある。というか、その真面目さの軌跡がその運動そのものを縁取っているように見える。例えば、単純に真面目で生産的な主体像を想定するのはためらわれるから、そのようなことは言わなくなっていく人たちもいる。しかしその場合であっても、そこにあるものを破壊することにおいて前向きであったり、信じられるものを信じないこと(を信じること)において前向きであったりする。次々にそこにあるものを否定していくことが生産的であることによって、その言説は生産されていくのでもある――この辺については、拙著『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、二〇〇四)の後半に関連した記述がある。
 吉本には、人間というものがそういう方向に行ってしまうことはたしかにあることではあるがそれは特段よいことではない、という構えがあると思う。人はものを考えてしまい、ないものを想像してしまうのだが、それはそれだけのこと、仕方のないこととして捉えられている。かといって、一方にある自然――これもまた必然的な反動として近代思想の裏側に貼りついているようなものである――の方へ行こうということでもない。
 『論註と喩』(言叢社、一九七八)に収録された「喩としてのマルコ伝」という文章がある。これを初めて知ったのは一九八三年の頃で、橋爪大三郎の「性愛論」という原稿によってだった(後に『橋爪大三郎コレクションII 性空間論』に収録、勁草書房、一九九三)。そこには、内面の発見とともに人は主体になり、そしてそのことによって神につながれる、その論理の筋道が描かれている。この文章にはニーチェによるキリスト教の理解が入っているが、しかし、そこに暗い過程を経て暗くなっていく人間に拮抗する別の強い人間が想定されているわけではない。また、このような道行きを吉本が運命的なことと考えているのかそれともある事件性のもとに捉えているか、そしてこうした分け方がそう大切なことであるか、わからない。ただこの文章の限りでは、ある事件として、ともかく起こってしまったこととしてこの事態は捉えられているように見える。
 私が何かの主となることによってそれを得るとともにそれに従属するその構制をこの社会の基本的なものと見て、それを批判し、別のことを言うこと、私が書いてきたことはいつもだいたいそんなことだ。例えば一九七六年に第一巻が出たフーコーの『性の歴史』にもそんなことが書いてあるが、「喩としてのマルコ伝」はさらに新訳聖書の成立時にその構制の生成を見ている――それで拙著『私的所有論』(勁草書房、一九七七)と前掲『自由の平等』の注に引用とすこしの言及がある。そして、そんな人のあり方を足場にする必要はないことを吉本は言っていると読める。そのような読み方をし、そこから考えることは村瀬学(『「いのち」論のはじまり』、JICC出版局、一九九一)らの仕事に継がれてもいる。そこから見たとき、様々に賢くそして有用な著作の多くが、足場にしなくてよいものを足場にしている。そうした論には、基本的なところで乗れないし、乗らないことにしようと思った。
 私がしたいと思うことは、吉本にあると私に思えるその立場を肯定した上で、それを可能にするような社会について考えてみることである。例えば、人はどれだけ政治的な主体である必要があるか。
 「私たちとしては、労働も政治活動も特別に価値のあることでなく、しかし双方とも参画するのはときに楽しいこともありまた必要でもあるという、そしてこの意味でもこの二つの間に優劣はないという、だから丸山真男の言うことはわかるがその立ち位置はわからない、アレントは立派なのだろうけれどやはりわからないところがあると言ってしまいたいという、単純な所から発してはいけないのかと考えてもよいと思う。」(『自由の平等』、二八九頁)
 吉本に市民にならねばならないという強迫がなく、基本的に政治は仕方がないからするものだという感じで捉えているところは、その通りだと思う。政治はおもしろいことであるか、でなければ必要であってやむをえず参画するというものであるというところからものを言えばよいのではないか。できればそんな仕事はない方がよい、すくなくとも少ない方がよいと思うのもまた当然のことではある。そして、それを遠くに夢想することによって眠ってしまうのではなく、この場所から構築することの可能な政治を構想することだ。


■この文章への言及

◆立岩 真也 2021


UP:20100515 REV:20120316
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