HOME > BOOK >

「社会学会シンポジウムの報告」

立岩 真也 2004/01/
日本社会学会ニューズレター
2003年日本社会学会大会シンポジウム

Tweet


3本の報告、加藤秀一(明治学院大学)「「生まれないほうがよかった」という思想について:wrongful life 訴訟をめぐる若干の考察」、小泉義之(立命館大学)「社会性と生物性」、竹村和子(お茶の水女子大学)「「構築」と「本質」は対立的なもの?」が行われ、休憩の後、樫村愛子(愛知大学)、立岩真也(立命館大学)のコメント、そして3人の報告者の応答があった。司会は永田えり子(滋賀大学)と好井裕明(筑波大学)。

社会学会のシンポジウムを、ではないが、散漫で、中味がなく、時間が足りず、論点の噛み合わない催しを嘲笑してきた側が、企画する側に立った時、では自らはと自問すると、なかなかに辛いところはある。気楽に聞けて、すんなりわかる話であった方がよく、そうした納得感というものがシンポジウムの成功を示すのなら、これは成功でなかったかもしれない。シンポジウムの最中にも、また終わった後も、企画側はそのことを気に病んでいたし、今でも気にしてはいる。

ただ少なくとも中味はあった。報告者を少なくし、ひとまとまりの話をしていただけるようにはしようと企画したが、報告は高密度のもので、2倍の時間をとり2分の1の速さにしてもらったとしても追いかけるのは困難だっただろう。社会学者以外の2人をお呼びしたというだけでなく、3人ともがどのぐらいの水準の議論をする人かはおおよそわかっていてあえて招いたのだから、ある程度は予想したことではあったが、その予想以上に、話されることをその時間のうちに理解することの困難を思った。各々の報告を要約するのはまったく不可能である。小泉報告については報告原稿の全文を、また加藤報告についてはその要旨を、そしてその他をhttp://www.arsvi.com/o/jss.htmに掲載しているので、ご覧いただければと思う。

この企画の背景には、一つに、私たちがやってきたことがだめなのではないか、少なくとも芸がなさすぎるのではないかという思いがあった。つまり、私たちは、〇〇は社会的である、××は構築されていると言ってまわってきたのだが、その行ないがどんな行ないであるのか、その私たちがよくわかっていないか、あるいは誤解しているのではないかと思ったのである。各々の報告は、そうした悩みと関係なく独立して聞かれるべきものであった。また各々が独立しながら、互いに接触し衝突する部分を、それがどのようなものであるかを言うのはとても難しいのだが、有するものだった。ただ、それらは同時に、私たちのこの弱々しい悩みに対する幾つかの処方箋の提示としても聞くことができるものでもあったように思う。

加藤氏は、自分が生まれてしまったことの責任を問い損害賠償を請求するという、まったく不可解な、しかしわかるところがなくもなく思えてもしまう行ないについて考察したのだが、それは、私たちが観念し構築していく論の道筋を検証するという当然のことをまずきちんと行なうという行ないの一つの範型でもあったと思う。自分の存在と自分の非在とをその自分が比較するという行ないがいったいどんな行ないであるのか、そんな問いに社会学者がもっと頭を使ってもよいのではないか、使うべきではないのかということだ。また、竹村氏は、なぜ構築を指摘し指弾するのか、それはそこに抑圧があるからだと、とてもはっきり述べ、それはすがすがしいほどだった。その入り組んだ慎重な議論の細部を追えなかったとしても、それを駆動させるこの簡潔な立脚点をあらためて、放棄すべきでなく放棄しなくてよい立脚点として、確認し、そしてさらにそのことについて考えることもまたできるのだと私たちは思った。そして本質主義者として振舞うと話を始めた小泉氏の報告は、まったく全体として間違った話なのかもしれないと思わせるほどのものだったのだが、ただ、人は生まれて死ぬではないか、それについて社会学的な言説は何かを言えているのかと脅迫されると何も言えていないような気にはなり、むろん、では小泉氏はあるいは哲学はなにか言えているのかと言い返すことはできようが、それはあまりよい態度ではないかもしれず、とすると何を言えばよいのだろう、と私たちは思ってしまったのだった。


■言及

◆立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず言う』,筑摩書房


REV: 20171128
日本社会学会  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)