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むしろ困難と怪しさを晒すこと

立岩 真也


 後藤弘子『ベーシック少年法』(近刊?、法律文化)社に掲載予定[了:20040202](35字×35行)

  少年法も何も知らない私が後藤さん編の『少年非行と子どもたち』(明石書店)に書いたのは、「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」という長い題の文章だった。そこで、子どもに限らず、大人でも誰でも、その人がしようとすることを、それがたとえ直接に他の人を害するものでないとしても、そのまま受け入れないことはあるということ、その理由はその人自身の決定を尊重しようという理由と同じ理由からだと書いた。つまり、「迷惑かけてるわけじゃないんだから勝手じゃない」という言い草に、「残念、そうじゃありません」と言いうることを言った。最近出た私の本では『自由の平等』(岩波書店)の後半、リベラリズムの検証の中でこのことを(一読してパターナリズム論とは読めないかもしれないが)再度述べている。理論的な興味があったらそちらもご覧ください。
  むろん、ただこう言うだけでは危険だ。余計なおせっかいと余計でないおせっかいとの間に線を引くのは難しい。また「お前のため」と言いながら他人の都合が入りこんでくることもきわめてよくある。こうした難しさ、危うさに気づかなければ本当に危なくそして怪しくなってしまう。パターナリズムを肯定しつつ、しかし危険物として慎重に扱わねばならない。
  さて、私にはこんな一般論以外には言えることはない。私自身は罰を重くすることについて賛成できないが、そのことをよく考えたことはなく、それを説得的に言うことができない。ただ、今述べたこととつながるところでは、何をなぜ他人に押しつけるのか、何をなぜ人に教えるのについてもっと醒めていた方がよいとは思う。「厳罰化」に対する批判がなかなか力を得られない一つの理由は、それに対置される「教育」というものが信用されていないところにあると思うのだ。むろん一つには教育的対応に効果があるのかという疑念があるだろうが、ここではそれを言いたいのではない。教育の嘘っぽさを実感として感じてしまっている人たちが私自身も含めたくさんいて、今さらなにを言っていると思い、そんなことを言っている人が信用できないように思えてしまうのだ。それで、かえって「応報」になにかすっきりしたものを感じてしまうことにもなってしまう。「裁きは受けよう、勝手に罰してくれ、情をかけて何か与えてくれようとしないでくれ」という台詞の方がすっきりしているか気がきいているように受け取れてしまうのである。だから、言うべきことは、人はこんなに立派に「更生」するといったとではない。たしかに教えたり伝えたりすることは難しいし怪しいのだが、そのことをわかりながら、何をしたらよいか本当はわからないのだが、やってみているのだということを伝えることだと思う。それではなお評判を落とし、厳罰派の声が大きくなり、逆効果かもしれないが、それでも私のようなひねくれ者はそう言ってもらった方がよいと思うのだ。


UP:20060306
犯罪・刑罰  ◇立岩 真也
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