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小松美彦の本

医療と社会ブックガイド・41)


立岩 真也 2004/08/25 『看護教育』45-8(2004-8)
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 *以下の本に収録しました。お買い求めください。
◇ 立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et. English

  つい先日『脳死・臓器移植の本当の話』が届いて、よい本だと思ったので、今回は小松美彦の本をとりあげる。小松は1955年生、専攻は科学史・科学論ということになっている。その文章はなんだか時代がかっていて、妙な貫禄があって、おおぎょうな感じがするが、しかし親しみを感じてもしまう。実際そんな人物である。
  新しい本の方だけ紹介したらよいとも思ったのだが、いちおうこれまでの流れもあるので、ざっと彼の著書を押えておこう。
  最初の単著は『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房,1996年,314p.,3000円)。その後、2冊の本が出ている。
  1冊は『黄昏の哲学――脳死臓器移植・原発・ダイオキシン』(河出書房新社,2000年,205p,1680円)。『週刊読書人』に連載された時評と対談からなっている。
  もう1冊は『対論 人は死んではならない』(春秋社,2002年,317p.,2625円)。対談の相手は永井明、小俣和一郎、宮崎哲弥、市野川容孝、笠井潔、福島泰樹、最首悟、土井健司。他に雑誌に発表された論稿やインタビューに答えたものも収められている。
  そしてこのたびの本と合わせて4冊、と思っていたが、また1冊届いて5冊になった。その最新の本は『自己決定権は幻想である』(洋泉社,2004年7月,新書y,222p.,740円)。インタビューを再構成した「語りおろし」の本ということで、ですます調である。そしてますます、彼がどういう人間であって、それでこういうことを言いたいのだということはよくわかる本になっている。
◇◇◇
  小松が繰り返し繰り返し書いてきたのは、脳死や臓器移植についてである。彼にとって文章を書くことは、脳死というとり決めが不当であり、だから脳死者からの臓器移植を容認できないというはっきりしたメッセージを伝えるためである。そのことを書いているにもかかわらず、その主張のとおりには世の中は動いていないから、それは残念なことで、彼は自らの主張を、仕方なく、ずっと繰り返さざるをえないことになる。
  ただ彼のこのはっきりしたメッセージと別のところで、『死は共鳴する』という本は受容されたように思う。すなわち、「個人閉塞した死」と「共鳴する死」というわかりやすい――ように思える――図式がこの本で示される。
  これは、彼の場合、「死の自己決定」に対する批判に結びついている。その人がよいと言ったらよいとすればよいのであれば、どこを死の時点、救命行為をやめてよい時点とするのかという問題の意味は薄れる。彼の場合、「その人がいいと言ったらいいではないか」という論も含め、脳死者から臓器を移植することに反論しているから、「死の自己決定」についても反論することになる。
  臓器移植自体は、彼の側から見れば残念ながらそして不当なことに、阻まれることはなかった。しかしそれと別に、死が個人の中に閉鎖されたものになっているという感覚を多くの人がもっており、その人たちは死にゆく人との関係が大切な関係であると感じている。またやはり多くの人たちは、なにか言うと、「自分で決めたことなんだから文句を言うな」とか言い返され、苦々しく思ってもいる。そんな人たちに小松の言説は受容されたのではないかと思う。
  この話は、ひとまずわかりやすい。そしてもちろん、わかりやすいことはよいことである。しかしその論の運びには間違いがあると私は思っていて、そのことを述べたことがある。それは大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版,2000年,243p.,2200円)に収録された「死の決定について」という文章になっている。どのように批判したかはそれを読んでもらうしかないのだが、簡単にすると、次のように書いた。
  死が死ぬ人だけに起こることでなく周囲に共鳴していくものであるという事実と、その死はその人の死であるということとは矛盾しない。(むしろ他ではないその人の死だから共鳴していきもする。)そこからは、また共鳴する死が望ましいという価値からも、その人が死について決めることができないという主張は導かれない。
  その後小松は、さきに紹介した様々な本(に収録された文章や対談や講演やインタビュー)で、さらに言葉を足し、論点を足して、自らの論を繰り返しているが、私の思うところ、上に記した難点は解消されていないと思う。
  私も小松と同じく、一つ覚えで自己決定、そして自己責任を繰り返す人たちの言うことはおかしいと考えている。また「死の自己決定」をそのまま是認する立場には立たない。その意味でその主張と共通するところは多い。しかし、私は彼のように論じないようにしよう、また論じるべきではないと思って考えてきた。ほぼ同じことを言うにしても、どのように言うかが大切だと私は思う。いくつか理由があるが、一つは論敵に対抗しようとすなら、脇を固めておかないと自分たちの主張が破られてしまうからである。
◇◇◇
  さて、こんなことを言いながらも『脳死・臓器移植の本当の話』を紹介するのは、小松が、脳死判定や臓器移植の実際について、調べられることを調べてまわって、それを書いていて、それは大切な仕事であり、また重要なことが書かれていると思うからである。
  この本は新書だが、厚く、文字の量が多い。その分量の本を多くの人に読んでもらうために、価格の安い新書にしたという(「あとがき」)。その第6章「脳死・臓器移植の歴史的現在」では、誰もがその言葉は知っており、かなり怪しいものだったらしいことも聞いているが、それ以上のことは知らない「和田移植」について、また臓器移植法成立後初めて行われてた高知赤十字病院での移植が取り上げられ、詳細な検討が行われている。また、第7章では臓器移植法の改訂問題を取り上げ、「町野案」と「森岡・杉本案」を検討し、批判している。
  そしてこの本では、先にあげた批判、私の考えではあまりうまくいっていない自己決定論批判は、あまり強調されず、「脳死者はほんとうに死んでいるのか」という問いが直截に問われ、そうでないと主張されている。もちろんどんな状態が死んでいる状態なのかという問題があるわけだが、「意識」がなくなりもう回復しない状態と、かなり脳死肯定論者の方に歩み寄った規定をした上でも、死んでいると言い切れない状態があると小松は言うのである。
  この論点は、「死は共鳴する」という話と少し別の位相にあって、むしろ、脳死を論じた他の論者では立花隆の論点に近づきもするのだが、小松は両方が気になるのだ。『共鳴する死』の方でも、「早すぎた埋葬」という、じつは生きている人間を埋葬してしまったというヨーロッパの怪談のようなものがいくつも紹介されていた。本全体の文脈と別に、妙にそこは記憶に残るのだが、言ってみればそんなことが今も起こっているのではないかというのである。小松はその最初の本で既に「脳低温療法」のことを取り上げ、ずっとこれに言及し続けてきた。また、脳死状態での自発運動である「ラザロ兆候」を紹介してきた。
  今度の本では中盤、第3章「脳死神話からの解放」、第4章「脳死=精神死という俗説」、第5章「植物状態の再考」で、かなり執拗に、脳死状態の人は、またいわゆる植物状態の人は、回復するかもしれない、ほんとうは意識があるかもしれないと、その可能性を示唆する事実を列挙していく。(今回の本では、「意識」――という言葉もやっかいな言葉だが――ともう一つ、「身体の有機的統合性」の喪失という意味での死も取り上げられ、検討されている。読み手によってはこれらが混在しているのではないかと思うかもしれないが、これは読み手の側で分けて読んでいけばよい。)そして彼の記述はかなり説得的である。
  私は、脳死・臓器移植をどう考えるかについて、迷える衆生の一人であって、ほんんど何も書いたことがなく、拙著『私的所有論』(勁草書房)の一箇所だけでふれたきりなのだが(pp.193-195)、ごく広い意味での意識、その人にとっての世界というものがいまだ失われていないのであれば、またそこに戻る可能性のある状態にいるのであれば、私ならその世界をまたその世界に戻る可能性を奪われたくないと、また他人から奪うべきないと考える者ではある。そんな私にとって、また私のように臆病な人たちにとって、この部分は気になる。意外に、こうした部分に立ち入った本はこれまでなかった。そのことだけによっても、小松の今度の本は貴重である。


[表紙写真を載せた本]
小松美彦 200406 『脳死・臓器移植の本当の話』,PHP研究所,PHP新書299,424p. ISBN:4-569-62615-7 998 [bk1][kinokuniya]


UP:20040705
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