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摩耗と不惑についての本

医療と社会ブックガイド・40)

立岩 真也 2004/07/25 『看護教育』45-7(2004-7)
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


 ※加筆の上、以下の本に収録しました。おもとめください。

立岩 真也 2017/08/16 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books \800 →Gumroad

立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙

 社会学者が書いた本をとりあげる。一冊は1967年とかなり以前に出た本で、『病院でつくられる死』。(訳書には原著の出版年等が記されていない。これはよくない。)知っている人には有名な本で、著者は、第15回(2002年4月号)で著書をとりあげたゴッフマンのいた大学院でまず勉強し、そして「エスノメソドロジー」という流派の影響を受ける、あるいはそれを作ってきた人でもある。ゴッフマンの社会学とエスノメソドロジーとどこが違うかといった議論もあるが、私はこの辺のことはよく知らず紹介には不適ゆえ略。
 もう一冊の『ケアの向こう側』はわりあい新しい本で翻訳も2002年。『ナーシング・トゥデイ』に連載された翻訳がもとになったという。
 いずれも医療機関で(非参与)観察したり、医療従事者にインタビューして書かれた。とくに後者は看護職者を対象に調査して書かれた。
 いずれも内容は読んでのとおりで、わかりにくいところは何もない。同時に特に新しいものを得られたという感じも私はなかった。今読むからということもあるかもしれない。サドナウの本が出て40年近くたち、そこに書かれたことが様々に言われ常識になったこともあるだろう。そして現実は現実的に作られているのだという、そこにいる人はうんざりするほど知っている世界が描かれる。
 似た題で例えば『病院で死ぬこと』という本があった。『病院でつくられる死』の1000倍までは行かないにせよ売れた。あれは感動する。サドナウのは感動しない。読んでしみじみとする本をこの連載で紹介しないことに特に意図はないが、たしかにこの本も感動する本ではない。心が洗われたり元気になったりもしない。そんな本はどのように読むか。
 自分で気になることがあり、その関心から読んで考えるという使い方がある。私は今ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人のことを書いた本の原稿の仕上げにかかっている。死ぬこと(を決めること)について書かざるをえない。それで死と病院や医療者の関係が気になり、その人たちの死への「慣れ」が気になる。「感情労働」「感情管理」にも感情の表出に関わるものと抑制に関わるものがあり、特に看護という仕事は両方を同時に要請されたりすることに悩ましいところがあるのだが、これは感情が低下する方の問題だ。
◇◇◇
 サドナウの本全体がいかに人が死んでいくことが病院で普通のことになっていくのかの仕掛けを記述することにあてられている。ただすべての病院で同じく死が扱われるとは言えないだろう。著者は最後の方で、彼が調査した病院が「慈善病院」であることへの注意を促している(301)。このことは第31回で紹介した向井承子の本に書かれていたことにも関わり大切なことだ。
 読んでいくと「安楽死」に関わる記述もある。「死につつある期間の苦痛を短くするために、ある種の積極的な介入によって生命活動を意図的に停止される活動」である「「純粋な形態」の安楽死の例は、都立病院でもコーエン病院でも全くみいだせなかった」(154)とされる。ただ、痛みへの対応は行うが治癒を目的とした医療的処置は止める「終末期医療<ターミナルケア>」は普通のこととして行われていると言う。
 次のような記述もある。「医者の立場からすれば、患者が昏睡状態か死ぬ直前の段階に入ると、その症例はもはや医学的関心を引くものではなくなる。そして、ひとたび「終末期医療<ターミナルケア>が開始されると、治療しようという熱意が冷めてしまう。そのような患者に対するケアは、本質的に看護職員の扱う事柄と見なされ、医者は患者への興味を失う。病状を改善する可能性がもはや望めないところまでくると、診断とそれに続く治療活動は、修業中の研修医やレジデント医によって努力目標ではなくなってしまう。つまり医者としての技能を証明し、半ば実験的な学習機会に参加する場ではなくなってしまう」(154)
 次に、チャンブリスの本の第1章は「不幸のルーチン化」という章で、さらにこの本全体がそのことについて書かれているとも言える。
 「病院には依然として他の組織と大きく異なる決定的な要素がある。そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ。」(24)次は他の人の本から引用した箇所。「病院の定義は、死という出来事が起こり、さらに誰もそれを気に留めない場所であると言える。もっと厳しい言い方をすれば、その目的に沿っている限り、死が社会的事実として容認される場所とも言える。」(24)
 死は普通は普通でないこととされているのだが、どのようにその普通でないことが普通のことになっていくのか。そしてこの死のルーチン化についての文献としてまずあげられるのはサドナウの本でもある(55)。
 またこの本の方では「延命措置」の停止がごく当たり前のこととしてなされていることが記され、さらに積極的安楽死に関わったという看護職者の発言も載っている。
◇◇◇
 書かれていることは現代人がいかに死を回避しているかというような話ともつながってはいる。このことについてはアリエスやゴーラーの本が有名で、そのうち紹介するかもしれない。ただあまり現代人とか一般的に言わない方がよいと私は思う。これらの本で書かれているのは、やはり、組織であり仕掛けであり、その中で働く人たちのことなのだ。
 普通のことになること、慣れること自体は私は当然のことであり、また必要なことでもあろうと思う。日々新しい気持ちで患者様に接しましょう、みたいなことを言うつもりはない。外科手術の度に医療者が動揺していたらそれは困る。葬儀屋が毎回の葬式でいちいち取り乱してしまって、葬式がうまくいかなるというのも困ったことではあるだろう。むろんその人たちなりに尽くすべき礼儀は尽くしてもらいながら、冷静に日々の仕事をしてもらえばよい。
 しかし、それでは時にやはり危ないこともあると思い、そのあたりから考えなければならないことが出てくると思う。生き死にに関わることを誰にまかせたらよいのかである。
 いちいち感じたり考えていたら身がもたない。それは仕方ない。看護職者はともかく医師はなおすのが仕事で、なおらないとなったら仕事は終わる。それもよいとしよう。しかしそういう人たちに死に関わる決定を委ねていたら簡単に人は死んでいくだろう。それはまずいのではないか。その現実とその理由とをこれらの本から読み取ることもできる。
 さて、では家族に任せればよいのか。それはまた別の理由で危ない。では本人に決めさせればよいのか。それも、はいそれで終わりと言えない。では、と考えていく時に、これらの本から得るものがある。
◇◇◇
 それにしてもなぜ翻訳物ばかりなのか。日本の社会学者が仕事をしていないということだと言われればその通り。ただ他の学界の論文でも学会報告でも、「質的研究」でも、新しいことを教えられたとかおもしろかったということはあまりない、当たり前で浅くて厚みがない、と感じる人も多いのではないか。
 調べにくいからだという言い訳もある。ただこれらの本の著者たちもいろいろ苦労はしている。チャンブリスの本の終わりには「サイドイン」方式がよいとある。「最初から公式の管理責任者の許可をもらおうとするのではなく、まずはもっと下の方の組織メンバーと非公式の折衝を繰り返す」(257)というこのやり方が日本でそのまま使えるは別として、工夫のしようはあるはずだ。
 他におもしろくならない理由の一つは、同業者が同業者について書くと自らに同情的で自己弁護的になるからだろうか。けれども、とくにチャンブリスは基本的に看護職者に共感をもって書いている。だから基本に共感や自身の仕事の肯定があってもかまわないのだが、自らの行いをいったん突き放してみようとする意志がないと、自己弁護か自虐か、両方が混じったものになってしまう。チェンブリスの本には、機関や個人名が特定されれば法的な責任を問われうる行為も出てくる。世の人に非難されるだろう行いや発言も出てくる。著者は匿名性を徹底することで調査し発表する。私は匿名にするならそこまでやって欲しいと思う。他方、その必要がなければどこまで匿名である必要があるのかと思う。そんなことも考えてよい。
 サドナウの本のもとは博士論文である。こんな文章で博士論文になることを大学院などにいる人がもっとわかったらよいのにと思う。そしてサドナウは「死に関する仕事」の社会組織を描写する「死のエスノグラフィー(民族誌)」を行うと冒頭で宣言し、それは「一度として記述されたことのない」(3)もので、「詳細な記述は皆無である」(10)と言ってのける。その通りだったのだろう。その後この領域には多くの研究が現われ、今はそうは言えないかもしれない。だが領域によっては、同じ領域でもやりようによっては、こう言ってのけられるのにと思う。

 *文中「そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ」原文に傍点

[表紙写真を載せる本]

◆Sudnow, David 1967 The Social Organzation of Dying, Prentice-Hall=19920706 岩田啓靖・志村哲郎・山田富秋訳,『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』,せりか書房,312p. 2884

◆Chambliss, Daniel F. 1996 Beyond Caring: Hospitals, Nurses, and the Social Organization of Ethics, The University of Chicago Press=20020301 浅野 祐子 訳,『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』,日本看護協会出版会,274p. 3000

 

 *短い版(上に掲載したものは、書式を間違えて分量が多くなりすぎました。字数を削って『看護教育』には掲載してもらいました。以下が掲載されたものです。


 社会学者が書いた本をとりあげる。一冊は1967年とかなり以前に出た本で、『病院でつくられる死』。(訳書には原著の出版年等が記されていない。これはよくない。)知っている人には有名な本で、著者は、第15回(2002年4月号)で著書をとりあげたゴッフマンのいた大学院でまず勉強し、そして「エスノメソドロジー」という流派の影響を受ける、あるいはそれを作ってきた人でもある。ゴッフマンの社会学とエスノメソドロジーとどこが違うかといった議論もあるが、私はこの辺のことはよく知らず紹介には不適ゆえ略。
 もう一冊の『ケアの向こう側』はわりあい新しい本。『ナーシング・トゥデイ』に連載された翻訳がもとになったという。
 いずれも医療機関で(非参与)観察したり、医療従事者にインタビューして書かれた。後者は看護職者を調査している。
 いずれも内容は読んでのとおりで、わかりにくいところは何もない。同時に特に新しいものを得られたという感じも私はなかった。今読むからということもあるかもしれない。サドナウの本が出て40年近くたち、そこに書かれたことが様々に言われ常識になったこともあるだろう。そして現実は現実的に作られているのだという、そこにいる人はうんざりするほど知っている世界が描かれる。
 似た題の本で例えば『病院で死ぬこと』がある。『病院でつくられる死』の1000倍までは行かないにせよ売れた。あれは感動する。サドナウのは感動しない。しみじみとする本を連載で紹介しないことに特に意図はないが、たしかにこの本も感動しない。心が洗われたり元気になったりもしない。そんな本はどのように読むか。
 自分で気になることがあり、その関心から読むという使い方がある。私は今ALSの人のことを書いた本の原稿の仕上げにかかっている。死ぬこと(を決めること)について書かざるをえない。それで死と病院や医療者の関係が気になり、その人たちの死への「慣れ」が気になる。「感情労働」「感情管理」にも感情の表出に関わるものと抑制に関わるものがあり、特に看護の仕事は両方を同時に要請されるところが悩ましいのだが、これは感情が低下する方の問題だ。

◇◇◇

 サドナウは、いかに人が死んでいくことが病院で普通のことになっていくのかの仕掛けを記述する。ただすべての病院で同じく死が扱われるのではない。著者は最後の方で、調査した病院が「慈善病院」であることに注意を促する(p.301)。このことは第31回で紹介した向井承子の本に書かれていたことにも関わり大切なことだ。
 読んでいくと「安楽死」に関わる記述もある。積極的な介入を行う「「純粋な形態」の安楽死の例は、都立病院でもコーエン病院でも全くみいだせなかった」(p.154)。ただ、痛みへの対応は行うが治癒を目的とした医療的処置は止める「終末期医療<ターミナルケア>」は普通に行われていると言う。次のような記述もある。
 「医者の立場からすれば、患者が昏睡状態か死ぬ直前の段階に入ると、その症例はもはや医学的関心を引くものではなくなる。そして、ひとたび「終末期医療<ターミナルケア>が開始されると、治療しようという熱意が冷めてしまう。そのような患者に対するケアは、本質的に看護職員の扱う事柄と見なされ、医者は患者への興味を失う。」(p.154)
 次に、チャンブリスの本の第1章の題は「不幸のルーチン化」で、さらにこの本全体がそのことについて書かれているとも言える。
 「病院には依然として他の組織と大きく異なる決定的な要素がある。そこでは日常の一部として人々は苦しみ死ぬ。」(p.24)次は他の本の引用。「病院の定義は、死という出来事が起こり、さらに誰もそれを気に留めない場所であると言える。もっと厳しい言い方をすれば、その目的に沿っている限り、死が社会的事実として容認される場所とも言える。」(p.24)
 死は普通は普通でないこととされているのだが、どのようにそれが普通のことになっていくのか。そしてこの死のルーチン化についての文献としてまずあげられるのはサドナウの本でもある(55)。
 またこの本の方では「延命措置」の停止がごく当たり前のこととしてなされていることが記され、さらに積極的安楽死に関わったという看護職者の発言も載っている。

◇◇◇

 普通のことになること、慣れること自体は私は当然のことであり、また必要なことでもあろうと思う。日々新しい気持ちで患者様に接しましょう、みたいなことを言うつもりはない。外科手術の度に医療者が動揺していたらそれは困る。葬儀屋が毎回の葬式でいちいち取り乱してしまって、葬式がうまくいかなるというのも困ったことではあるだろう。むろんその人たちなりに尽くすべき礼儀は尽くしてもらいながら、冷静に日々の仕事をしてもらえばよい。
 しかしそれでは時にやはり危ないこともあると思い、そのあたりから考えなければならないことが出てくる。生き死にに関わることを誰にまかせたらよいのかである。
 いちいち感じたり考えていたら身がもたない。それは仕方ない。看護職者はともかく医師はなおすのが仕事で、なおらないとなったら仕事は終わる。それもよいとしよう。しかしそういう人たちに死に関わる決定を委ねていたら簡単に人は死んでいくだろう。それはまずいのではないか。その現実とその理由とをこれらの本から読み取ることもできる。
 さて、では家族に任せればよいのか。それは別の理由で危ない。では本人に決めさせればよいのか。それも、はいそれで終わりと言えない。では、と考えていく時、これらの本から得るものがある。

◇◇◇

 それにしてもなぜ翻訳物ばかりなのか。日本の社会学者が仕事をしていないということだと言われればその通り。ただ他の学界の論文でも学会報告でも、「質的研究」でも、新しいことを教えられたりおもしろかったことはあまりない、当たり前で浅くて厚みがないと感じる人も多いのではないか。
 調べにくいからだという言い訳もある。ただこれらの本の著者たちもいろいろ苦労はしている。チャンブリスの本の終わりには「サイドイン」方式がよいとある。「最初から公式の管理責任者の許可をもらおうとするのではなく、まずはもっと下の方の組織メンバーと非公式の折衝を繰り返す」(257)というこのやり方が日本でそのまま使えるは別として、工夫のしようはあるはずだ。
 他におもしろくならない理由の一つは、同業者が同業者について書くと同情的で弁護的になるからだろうか。けれどとくにチャンブリスは基本的に看護職者に共感をもって書いている。だから基本に共感や自身の仕事の肯定があってかまわないのだが、自らの行いをいったん突き放してみようとしないと、自己弁護か自虐か、両方が混じったものになってしまう。チャンブリスの本には機関や個人名が特定されれば法的な責任を問われうる行為も出てくる。世の人に非難されるだろう行いや発言も出てくる。著者は匿名性を徹底して調査し発表する。私は匿名にするならそこまでやってほしいと思う。他方、その必要がなければどこまで匿名である必要があるのかと思う。そんなことも考えてよい。
 サドナウの本のもとは博士論文である。こんな文章で博士論文になることを大学院などにいる人がもっとわかったらよいのにと思う。そしてサドナウは「死に関する仕事」の社会組織を描写する「死のエスノグラフィー(民族誌)」を行うと冒頭で宣言し、それは「一度として記述されたことのない」(3)もので、「詳細な記述は皆無である」(10)と言ってのける。その通りだったのだろう。その後この領域には多くの研究が現われ、今はそうは言えないかもしれない。だが領域によっては、同じ領域でもやりようによっては、こう言ってのけられるのにと思う。

■言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


UP:20040602 REV:0609
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