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障害学の本・再度

医療と社会ブックガイド・38)

立岩 真也 2004/05/25 『看護教育』45-05(2004-05):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/



 「ニキリンコの訳した本たち・2」のはずのところ、お知らせがあって、別の本を紹介する。
 昨年の秋、「障害学会」という学会が設立されて、この6月12日と13日に静岡県立大学で大会がある。私のHPにも情報がある。今回紹介する石川准はこの学会の初代の会長でもあり、私も会員で、2日目に私と彼は話をする。対談のようなかたちをとることになると思う。そんなこともあって、紹介することにした。興味のある方で、その日に静岡に来ることのできる人はいらっしゃい。
 「障害学」については既に幾度か紹介してきた。石川准・長瀬修編『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ』(明石書店、1999年、2800円)、石川准・倉本智明編『障害学の主張』(明石書店、2002年、2600円)は第24回で取り上げた。ニキ・リンコも『主張』の方に「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」を書いている。
 これらの本の編者でもある石川には『アイデンティティ・ゲーム――存在証明の社会学』(新評論、1992、2200円)、『人はなぜ認められたいのか――アイデンティティ依存の社会学』(旬報社、1999、1600円)の2冊の著書があったのだが、それに加えて最近、医学書院から『見えないものと見えるもの』が、「ケアをひらく」シリーズの1冊として出された。
 「社会学者にしてプログラマ、全知にして全盲、強気にして気弱、感情的な合理主義者」
 よくできているこの本の帯(裏の方)にこう紹介されている石川は、その自分自身のことを含め、いろんなことを書いているのだが、帯の表には「だから障害学はおもしろい」とある。
 「〇〇学(会)」など立ち上げてしまうと、「(学問であるからには)何であるかはっきりしなさい」というのと、「学だなんて言って、偉そうに」という反応と両方あり、両方ごもっともではあるのだが、私はすこし脱力したところから始めてよいと思っている。
 障害についてよくある話は、なおすか、それがうまくいかなければ、受容しなさい、というものである。なおればそれは医療の側の手柄でもある。それが無理でも受容してくれれば扱いに困らず、これはこれでやはり都合がよい。その図式にはまらないと、「この人は障害受容がうまくいっていない」ということになる。
 だが実際にはそう都合よくはいかないはずだ。あるいはそんな割り切り方(割り切られ方)では本人がかなわないところがある。私が思うに、おもしろいのは、また必要でもあるのは、こういう業界的な都合のよさから身を引き離し、無理やり話を終わらせてしまうことをやめて、起こっていることをきちんと見ること、考えられることを考えてみることだ。その営みに「障害学」という名前をつけてもわるくはないだろう。「学」といっても、女性学とかカルチュラル・スタディーズとかクィア・スタディーズとか、このごろ「〇〇 studies」と名のつくものは、そう行儀のよいものでも威厳や権威に満ちたものでもない。
 「業界の学」から離れてみる試み、障害学を、一つに、そんなふうに考えてみてもよい。そしてこの本がいる場所もそんな場所だ。(これは社会学者にとってはそう難しいスタンスではない。私らはお気楽な人たちなのである。)
 例えば、この本は「障害」という主題からいったん切り離すこともできる「感情」についての本でもある。感情が仕事とつながっている場合とそうではない場合と、それぞれについて考えるべきことがあり、石川は両方について考えているのだが、「感情労働」はその前者ということになろう。これも石川がずっと書いてきた主題である。彼は感情労働が論じられるときよく引かれるホックシールドの『管理される心――感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年、2900円)の共訳者でもある(もう一人は室伏亜希)。この「ケアをひらく」のシリーズにも、武井麻子『感情と看護――人とのかかわりを職業とすることの意味』(2001年、2400円)がある。
 石川の論の内容は紹介できないが、一つはっきりしているのは、やはりここでも業界的に簡単な話の収め方はしていないことだ。つまり、感情労働をしているから、それだけたいへんだ、その仕事に社会的評価が必要だという話にはなっていない。そんな話ではかえってその仕事のおもしろさも伝わらない、感情を求められつつ感情から離れることを求められる、このことの不思議さを考える方がおもしろいではないかと言うのだ。

◇◇◇


 さて話戻って、障害とは何かができないことでもある。できない人はよくない人だとされると、できない人=障害者は浮かばれない。そこで、できることはたいしたことではないと言う。するとそれは「ルサンチマン」に発している、負け惜しみではないか、と言われるかもしれない。そう言われると、なんだか悔しい気もするし、当たっているような気もする。さてどう考えればよいか。
 それは「アイデンティティ」、「存在証明」についてずっと考えてきた石川の主題でもあった。彼がやってきたことは、まず、社会的に負に評価されるものをある人が有しているとき、そのままではよいことがないその人はどう出るか、ありうる出方を書き出すことだった。例えば、否定されているものをひっくり返して肯定するとか、あるいはそれはあきらめて別の部分で勝負するとか。次に、その出方の正負、損得を記述する。例えば、別のもので勝負するといったって、それもできなければどうなるんだとか、わざわざ別のものをもってこなくてはならないこと自体苦しげなところがあるとか。
 今回の本は、石川が今まで書いてきたことを短く要約しつつ(だから以前の本を読んできた人の方がすんなりわかるかもしれない)、さらに論を進めているところがあるし、その論のもとのところをはっきり言っているところがある。
 つまり、やはりいい仕事をしたら褒めてほしい、褒めてほしいから仕事をするというところはあるではないか、と言う。
 もちろんこう言われて一番簡単な応対は、たしかにそんな部分は私にもある、それはわるくない、と答えることだろう。ただ、もう少しそれをていねいに考えて言ってもよいかもしれない。
 私は私で、この問い、「能力主義」と呼ばれたりするものをどう考えるかという主題にかかずらわってきた。『自由の平等』という今度の本でもそれを考えている。石川もこの本(のもとになった雑誌連載)での私の論に言及している。だいぶ趣の違った2冊ではあるが同じところを考えてもいる。
 一つに、ことの是非について考えてみたらよいと私は思った。これは、事実や事実の「相対性」を示す仕事からは外れるのだが、それをした方がよいと思った。そのことを、そしてそこから何が言えるかを、「ほんとはうらやましいんだろう」と言ってくる人に何が言えるかを、第2章「嫉妬という非難の暗さ」で書いた。
 まず、人の役に立つことはよいことで、それを評価し褒めることはあるだろうし、よいとしよう。また、それで人がやる気になるなら(評価すること自体は「ただ」でもあるから)有益だろう。
 次に、しかし、このことと「受け取り」の問題とを直結させることはしない方がよいだろう。(直結させると、評価される仕事をしたのだからたくさん褒美をもらって当然だとなり、ただほめてあげるだけではすまなくなる。ここには「分配」の問題がある。障害という主題は価値や生活の様式の問題には回収しきれない。どちらか言えばこれまで文化的側面?を論じてきた石川も今度の本では、後半、分配・平等を論じている。)
 では評価すること自体はどうか。まず、私は、わりとシリアスな場面を考えてきた。できないこと、できなくなることが死を決意させ行わせることがある。「安楽死」はそのような行いだ。と言うと、そこまで「存在証明」という語を強く用いていない、できることが評価されるのもあまり強いとよくない、ほどほどでよい、と石川は言うかもしれない。程度問題だと。たぶんそれで正解だ。しかし、もう少しそれを詳しく言ったらどういうことか、程度問題とはどういう問題か。そんなことを6月には少し論じてみたいと思う。

[表紙写真を載せた本]

◆石川 准 20040113 『見えないものと見えるもの――社交とアシストの障害学』,医学書院,270p. 2100 [amazon][kinokuniya][kinokuniya][bk1] ※
◆立岩 真也 20040114 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店、349+41p.、3100+税


UP:20040406
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