◆古田 睦美
◆Mies, Maria
*以下はすこしもまとまったものではなく、多分研究会でも配付しないと思います。(「家族・性・資本――素描」の抜刷かコピーを配ると思います。)「ただ加筆、訂正は随時続けていくつもりです。
[メモのためのメモ]
この問題を私は10年ほど前に考え、しばらく主題的に論じたものはなく、今年になって依頼があった書いたのが「家族・性・資本――素描」だ。これでようやくある程度のことが言えたような気がする。
ミースの本を読むと、自分が以前書いたこともしばらく忘れて納得してしまいそうになるというか、納得したいように思う。だがやはりしばらくたつと、やはりわからないところが出てきてしまう。
■1 無関連
払うにせよ、払わないにせよ、なぜ女性を低く扱わなければならないのか、結局わからない。以前書いたことを繰り返すことになるが、これはおかしい。同時にリアリティを感じてもしまう。それはたんなる錯覚なのだろうか。
まったくなにもかわらなくとも一方のAには100を払い、他方のBには50ということはある。あるいはBは、家族の稼ぎがあてにできるので、あるいは家の畑でとれる収穫物を食べて暮せるので、その分安くてすむために、50に応ずることはある。買い手(ここでは資本と……とは別に考える)の側に100と50の区別をつける理由があるだろうか。
*最初に述べたのは以下で。
1994/12/00「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」,『Sociology Today』5:46-56
1)この議論は、一方のAに50、他方のBに100与えているとして、差の50が得になっている(Aは損している)という図式で考えていることによる。(*ここでは払うとか与えるといった言い方になっているが、生活の度合いというぐらいの意味で考えてもらった方がよい。50:100とはつまりAはBの半分の水準の暮ししかできていないということだ。)
2)それはAとBの両方に75与えるのと同じではないか=75/75。(そして実際にそのようになってもよいではないか。50で買われてしまうなら、100で売れていた人たちは売れなくなるはずである。そこで下げなくてはならないかもしれない。他方で50の人たちは、上がるかもしれず、例えば75に収束するということはありうる。)このように思えてしまう(のでそのことを述べた)。1)と2)は同じなら、1)がより資本制に対して適合的となぜ言えるか。
いやAを75にはできない。100得るのは「人間」にとっては当然のことであるとされているが、しかしそうでない者にとっては50でよいとされている。こう言えるかもしれない。そんなことがあるかもしれない。そうなるはずなのにならないのは現実が間違っているといった倒錯したことを言いたいのではない。しかしそれでも75/75とは同じであり、1)の方の有利はやはり言えていない。
あるいは100払っている方も50に引き下げてしまえばそれが一番よいではないか。つまり50/50にする。(ここでは家族内での合算のことは考えない。)これに対してさらに、たしかにそれが一番よいことは認めよう。しかしそれは抵抗が強くてできない。だから「次善の策」として100/50とするのだと言う。しかしやはり75/75とは同じであり、1)の方の有利はやはり言えていない。
以上は、差別があった上とない場合と「資本制」にとっては等価であることを示している。
A・B両方に100払うべきであり、また払うことができるのに、50しか払っていない。ゆえに、50はやはり不当に得たものだという主張をすればよいか。
すくなくとも100/100払うよりはよい、得をしていると言う。そのことは認めよう。
とした場合に、払うことができるをどう言うか。これは言える(A・Bを働かせているCは150だった。A・B・Cとも100にすることもできる。あるいはA・B・C、150・150・0という手もある。)
次に払うべきと言えるか。言えるかもしれない。
=つまり、不当な利益を得ている。その分(不当に)得をしていることも言える。
しかし、75/75でも同じ利益を得られたではないかと依然として言える。これにどう答えるか。
というように、私は、これが「資本制」に得であることを(言えそう、と思うのだが)言えないと今のところ言わざるをえない。
■2 まず得をしているのは男ではないか?
関連するのだが、気になるのは「資本主義」とか「資本制」という言葉で何が差し示されているかである。わかるようでわからないということだ★01。
上記との関連では、75/75が妥当だとすると、不当に得をしているのは男性労働者だということになる。(100/100が妥当だとしても、相対的に利益を多く得ているのは男性労働者だが、これは正当な利益であるとされる。)
女の少ない分はどこに(不当に)持っていかれるのだろうか。例えば「蓄積」に、と言われるのだから、それは自明であり、「蓄積」のためにということになるのだろうか。この辺りはマルクス主義の文脈では自明なことなのだろうか。*
*働かせる側にいる人にしても、雇い主・資本家もいるが、商品の消費者もいる。また、資本家に渡る分にしてもそれは次の生産のために投下されるとは限らない。…
……
もう一つ、蓄積(この言葉をごく普通の意味に解したとして)、成長のためにこの分業の体制は役立っているのだろうか。直感的にそう思えないところがある。つまり、人を働かせ、生産させるのにこの体制が効率的であるとは思えないのだ。
■補 (二元論と一元論を巡る)議論の混乱について
では2で述べたことは、性差別一元論であり、また「文化主義」であり、「観念論」であるということになるだろうか。そんなことはない。
これは、男が「物質的」に得をする、支配するということであるから、その限りでは「唯物論」的ではある…。1)生産について消費について支配することによって、支配することにおいて、2)物質的な利得を得ている。この場面では、たしかに、生産関係と性とは結びついている。→ヤング「不幸な結婚を乗り越えて――二元論を批判する」で言っていることはまずはそうしたことのように思える。…
ただ他方は、この場面を問題にしているわけではない。議論が噛み合っていない大きな理由の一つはここにある。
例えば生産が行われる家族はそれ自体が生産体であり、そこにおける決定や取得についての権限のあり方は、生産関係のあり方である。この意味ではそこにある家父長制は、経済とつながっている。あるいは経済のあるあり方としてあると言ってもよい。――この線で(つまり男が経済を支配している・支配していることによって女を支配している・利益を得ているという線で)考えていこうとしたのが、統一理論、一元論の流れだと思う。
他方、二元論の立場の論者としては
「ハートマンの見解:資本制の論理自体には、性(または人種)のような生得形質によって労働者を区別する必要性はまったくない。(資本制が内包する原動力はすべての労働者の均質化にむかう)」(きむさんの紹介より引用)
cf.
◇Young, Iris Marion[アイリス・マリオン・ヤング]
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/young.htm
◇Young, Iris Marion 1981: "Beyond the Unhappy Marriage: A Critique of the Dual Systems Theory," in Lydia Sargent ed., Women and Revolution, South End Press, pp.43-70.=1991 田中 かず子 訳,「不幸な結婚を乗り越えて: 二元論を批判する」,Sargent ed.[1981=1991:81-111]
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1980/8100yi.htm
■3 2→結びつき
ではこの事態はどうして起こるのか。またどのようにして可能なのか。ミースらの場合には、2の場面で「生産」「経済」を捉える。
まず、男が支配しようとしたからだというのが動機になる。(それにたいして女については、女にもその動機はあると言っていく可能性もあるが、ないと言ってしまう可能性もある。ミースの言っていることは後者に近いようだ。)
そしてその可能性(女における不可能性あるいは困難)は身体的なものに求められる。子どもを産む女は一箇所に住まうのに対して、男は狩りをする、狩りをすると武器をもつ。すると、…。となると、男は攻撃的な存在にもなる。こうして動機もここで形成される。存在が意識を規定するというものの見方にもうまくつながる。
身体の差異、産むことに関わり、女が農耕。男が狩猟。狩猟のために武器。武器は人を攻撃、制服する手段 女性への攻撃、制服…。
身体→男の方が攻撃的→支配:生産手段の独占…。
身体から発するという意味では「唯物論的」であるかもしれない。
身体的(物質的)「性」差→支配:→「物質的」な女性支配
このような意味においては、一元論…?
ちなみにこの話は、まだ続いていって、遊牧民においては…、といった過程を経て続いていく。
このようなお話をただの神話だとして馬鹿にするのは私は不粋だと思うので、しないことにする。
そしてこうした場面では、男が(物質的な/物質的な回路を通して)利を得ようとする、という意味で「一元論」的であると言える。
ただそれは――むろんこうした「歴史」の理解自体を疑問視する人もいるだろうが――その後について、どこまでどの程度の説明力を有するだろうか。近代化、工業化の段階については…
その後とは、人が雇用されて働くようになる(じつはこの契機はあまり関係がない)の時代であり、そしてその労働に要する能力は性別と関連が薄れるような社会・時代。
さきのハートマンの議論は具体的にはそうした社会を想定している。そして仮に、同じであるとすれば、商品の購入者にとっての価値はやはり同じであることを認めざるをえない。ここでは「二元論」が有利になる。
ただそれは、同じであると言える場合だ。でないとすれば変わってくる。
■
「労働を買う」側として考えてみよう。その場合には女と男の区別はどのような意味をもつことになるだろう。
差がなければ差はない。これについて
1)人を生産させるために、女性を支配する。
2)子に関わるために、他の仕事が相対的にできず、それで雇われないあるいは価格が安くなる。
■1)について
私は、α:「先進諸国」における主婦とくに専業主婦の家事労働(者)の位置と、β:……におけるアンペイドワークの位置とはかなり異なったものであると思う。
「☆14 だから一方で自給的な農業など支払われない労働により生活の維持がなされることによって、他方の産業への安い労働の供給が可能になるという事態――これはこの時期にあり、また特にいわゆる開発途上国において現在でも広範に存在する事態である――における「不払い労働」の位置と、本節が対象にしている専業主婦の家事労働の位置とを同一視すべきでないと考える。」(「家族・性・資本――素描」注14)
そして、少なくとも前者について、生産という視点から見たとき、この人たちの存在が有効であるとは思えない。
1まず労働を欲する側からみたとき、その側としては多くの労働の供給があった方がよいから、この形態は労働の購入者にとっては有利ではないと、普通に考えれば考えられる。
2次に、家庭でただで働かせているという。しかし、1と合わせて考えたらどうか。という点があるし、また、家庭での仕事についてもそう効率的なものであると思えない。生産者の生産(としての家事労働)という契機をとらえて、生産を購入する側の有利を言おうとする論もまた十分ではない。専業主婦化自体を労働の調達(搾取)から説明することはできないだろうと考える。
(ただそれ以前に、またこれから述べることとの関連においても、1が十分に働かない相応の理由があることを見ておいた方がよいだろう。第一に、これはよく言われてきたことだが、賃金は他の商品の価格のように、供給が増えたからといってどんどん低くなるということはないということ。第二に、多く(そして安く)働かせることを言うのだが(だから、同じ前提から、ならば女も(家庭ででだけでなく)市場に出して働かせればよいではないかと反論されることにもなる)、むしろ足りているという状況があるということではないということである。このことは後で述べる。)
■2)について
ここで2)の説明は、先の安く買っている分得をしているという記述・説明とは別のものであることに注意。
この説明は受け入れてよいはず。
→では育児負担の平等あるいは「社会化」→実質的な機会の平等→結果の平等
という、いままでずっと言われてきた道をただ行けばよいということになるのか?
ならない。
そのことを言うために、機会の平等で片付かない原因ではないとしても、片付かないその度合いを強化している、現在の労働に関わる状況についてみておく必要がある。
■
生産は足りている。労働力は過剰である。★02
そこで現在のフルタイムの人はたくさん働くという状態を維持するなら必然的に失業者は生ずる。(かつての性分業体制はそれに対応した体制だったとも言えるのだが、それも崩れつつある。)この場合、競争は激化する。
技術と技術についての所有が重要な位置を占める。開発への圧力が強くなる。
こうした状況のもとでは、格差は大きくなる。一方で(広義の)開発に関わる仕事、機械がとってかわるのが(今のところ)難しい仕事。他方で、機械より安く働くことによってその場が確保される仕事。…
同時に分配が困難になる。
こうした事態をどう考えるかが重要。
以上と女の仕事とがどう関わるか。
■
ある部分での平等化は進行する。
しかし述べたように、放置すれば、全体としての格差は大きくなる。
その上で男女格差が保存される、場合によっては拡大するとすれば
供給は既に十分であるので、そこで差別することは容易であること
それは、小さい差が大きく作用するという状況があるということ
小さい差は、やはり「再生産」に関わる。
それに囚われることはないという主張は可能であり妥当である。
しかし同時に、それを大切にしているとしてそれはそれで尊重すべきであるとは言える。(それが社会的・文化的・歴史的に形成されたものだという指摘が正しいとして、だからそれは尊重される必要のないものだとは言えない。)
別言すれば、そこで不利に働いてしまうものが「女性的なもの」であると言う必要はないだろうと思う。しかし、事実として、確率的に、女の方にそれが多く見られることはあるだろう。そしてそれは確率的であっても影響を与えることになる。
だから、この部分の「平等化」は抑圧的でありうるし、実際にはうまくいかない――そしてうまくいかないことは、その人個人のせいであるか、あるいは女であるせいかにされることになる。
■
ゆえにするべきことは(多く今までなされてきた主張と共通するのだが)
(様々な平等を効果させる施策とともに)
基本的に格差の縮小をめざすことであり
仕事を分配することである。
そのことが行われなければ必ず限界がある。その意味で、経済体制、政治体制が問題だと、それが変わらなければならないとする主張に私もまた与することになる。
◆注
★01 「家族・性・資本――素描」では三つをあげた。一つに「蓄積」「拡大」「成長」…、
一つに「格差」、。
一つに「維持」を
をあげた。そしてこれらが相伴うものでないことを確認した。とすれば、あるものxが、この三つのどれかにどのように作用しているかを言えたとして、それは「資本制」にとってどうであるかを直接には示さないということでもある。
★02 ものは足りていて人は余っているのは先進国でのことだと言われるだろう。そうでない国・地域では人は余っているが、ものは足りない。とすると事情が異なるではないか。たしかに異なる。
技術を含む生産手段の所有の問題がここでは大きいだろう。つまり、そうした技術が一方では存在し、その条件のもとでの生産がある。それと並存する場合、他方の従来の技術で生産する人たちは価格を安くせざるをえず、しかし生産量は少ないから、それでは生活できない。それでも続けるなら貧しくなるし、続けないなら失業する。
シンポジウム「労働のジェンダー化」パート3
グローバルな視野からみるアンペイドワーク
2003.12.13於立命館大学
長野大学産業社会学部助教授 古田睦美
T アンペイド・ワークをめぐる議論
1) 国際的潮流 女性の見えざる労働の開発への貢献
2) フェミニストの議論
3) 世界システムにおけるアンペイド・ワーク
U アンペイド・ワークの現状
1) 途上国的文脈
2) 先進国的文脈
3) グローバル化とアンペイド・ワーク
V アンペイド・ワークの測定と再配分
1) 時間利用調査の枠組み
2) 先進国のとりくみ
3) 日本政府における測定の現状
4) 長野調査の結果(中間まとめ)
W アンペイド・ワーク論の射程
1) 見えざる労働の可視化 測定と評価
2) 政策的再配分 ワークシェアリング
3) アンペイド・ワークの再評価
4) 時間保障政策
5) ライフ=ワークバランス 家庭生活の権利 コミュニティ・ワークの豊富化
X 世界を紡ぎなおす鍵としてのアンペイド・ワーク
1) 労働概念の再構築 ペイド−アンペイド二元論の克服
2) サブシステンスに根ざしたアンペイド・ワーク
◆女性の労働・家事労働・性別分業
◆関連文献リスト(著者名順)
◆関連文献リスト(発行年順)
UP:20031208 REV:1209,10
◇
立岩 真也