HOME > Tateiwa >

(セン先生に)

立岩 真也 2003/06
立命館大学大学院先端総合学術研究科開設記念国際シンポジウム
「21世紀の公共性に向けて――セン理論の理論的・実践的展開
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2003/0602.htm


■第2版

2003/06/02 11:00

 御講演ありがとうごさいました。先生が語られた多くの論点に共感し、賛同します。その上で、お聞きしたいこと、確認したいことは、まったく初歩的なことなのですが、ここには先生の理論、公共哲学の理論に関心をもっている若い学生も多数いますし、私も初学者の一人ですから、よい機会と考え、おうかががいしたいと思います。
 一方で、先生は、権利について、さらに具体的に社会的分配のあるべき姿を示されてきました。その具体的な基準を明示することは慎重に避けられてきたけれども、しかし、一人ひとりが、そのケイパビリティ(capability)として得られるものが得られるべきことを主張してきました。
 一方で、先生はデモクラシーについて書かれており、今日も語られました。今日言われたことは、投票の制度によってデモクラシーを解するのは適切でないこと、最終的に決める手続きだけで捉えるべきではないことでした。その主張にまったく同意します。それにしても、デモクラシーはものごとを討論し、そして決めていくときのあり方です。
 さて、第一の、社会的・経済的権利が付与されるべきであることと、第二の、デモクラシーが実現されるべきであること、この二つは、まずは別々のことです。デモクラシーは基本的には決め方であり、その決定の内容は、その決定に関与する人たちによって決められるべきだとされます。他方で、権利の付与のあり方は規則・規範の内実であり、それが社会的に決定されるとすれば、社会的決定の内容です。
 考えてみたいのは、またお尋ねしたいのは、その二つの関係です。
 まず、二つのことはすぐに思いつきます。

 第一に、デモクラシー自体が一つの目的であり、それに関わる諸権利自体が望ましいものだということです。デモクラシーが実現していることと、等しく言論の自由が認められるなどいくつかの権利が付与されていることとはそもそも別のことではありません。このことはまったく明らかです。ただ、このようなつながりだけがあるのではないこともまた事実です。経済的・社会的権利(economic and social rights)は政治的な権利と密接に連関しながらもそれに還元されない部分があるからです。このことは講演の中でもおっしゃられました。
 第二に、何にせよ人々から支持されないものは、実現可能性とそして継続可能性において難しさがあることも言えるでしょう。仮にある制度が押しつけられ諸権利が認められたとしても、その内容に人々が納得でぎないならそれを支持する力は弱くなるでしょう。
 さて、以上を確認した上でも、経済的・社会的権利の承認とデモクラシーの存在が同じになることはないのですし、二つが完全に連続的につながることもありません。

 先生は、実現されていない権利、制度化されていない権利も権利であることを本日の講演で述べました。私もまったくその通りに考えます。
 このことは、権利をデモクラシーに先行させていること、少なくとも権利の提起がデモクラシーに先行して存在することがあることを意味していると理解することができます。またその主張は、何がよいかは人によって様々であるとして、それを自らが積極的に語らない立場、そのような立場としてのリベラリストとは異なる主張をしているということです。

 とすると、このこととデモクラシーとの関係はどうなるのでしょう。
 一つに、先生は、賛成を得られ、制度化されていない権利があると主張されるのですが、しかしそれは、デモクラシーのもとで、公共的な討議(public discussions)にかけられることによって、承認され、そして制度化されるべきであり、そしてまたそうなるだろうと語られました。例えば、「自由に機能するデモクラシーのもとでの開かれた公共的な討議において、社会的・経済的権利は広範な支持を得られやすい」("economic and social rights", which also tend to receive widespread support in open public discussions in feely functioning democracy)と述べられました。(p.4)
 ただその次には、飢饉による餓死といった目立った災厄については解消されやすいだろうけれども、しかし、それ以上の権利を認めるところまでにはなかなか行かないのだということをおっしゃいました。
 例えば、米国やインドでそうした諸権利が認められないという「失敗についての公共的な議論はすべて、ほとんどつねに、それらの権利の重要性を認めることに結びつくのではあるが、それぞれの国で制度的に十分に満たされることがないままされてしまう。」(And yet every public discussion on these failures leads, almost invariably, to the importance of those rights, which remain systematically underfulfilled in the respective countries.)(p.5)
 また先生は、この困難について、次のように述べられました。
 「飢饉は政治化しやいけれども、より極端なものでない剥奪にたいして適切な政治的関心を喚起するには、コミュニケーションの技術をもっと充実させること、政治的な組織化を進めていくことが必要なのだ」(while famines are easy to politicize ・・・・ , much greater communicative skill and political organization are needed to bring adequate political attention on less "exterme" deprivations・・・・ )(p.5)

 ですから先生は、困難を認識しつつ、しかし、より実質的なデモクラシーによって、社会・経済的な権利の承認が得られるであろうと述べているわけです。私も、そのような希望を共有したいと思います。この国でも「話せばわかる」と言われたりします。その希望が単なる願望でない事実もまた多く存在することは先生が幾つかの著書で書かれているところでもあります。
 しかしここではもうすこし詰めてみたいと思います。その公共の討議の場で、何が話され、そして聞かれるのでしょう。それは社会にある悲惨でしょうか。それはたしかに訴えるものをもっています。そしてむろん、人々の置かれている状態をよりよく知りそのことについて考えを致するならば、人々に付与される権利のその度合いが上がることはあると思います。しかしそれではあるところまでしか行かないかもしれない。このことは先生も言われました。もしそれが現実の悲惨さに対する憤りに基づくものであれば、それほど可哀そうではないと思われる水準のところで留まるかもしれないということです。そこで私は、何を言えばよいのか、と考えてしまいます。

 経済的・社会的権利の付与が肯定されるべきだという立場をとる者は何をなすべきなのでしょうか。むしろ、何を原理として立てるのかを、その理由とともに示すこと、自らと別の考え方に抗し、反論することではないでしょうか。つまり、公共的な討論の参加者として、主張することではないでしょうか。私は、リベラリズムの論者たちが、議論の調停者として振舞おうとすることに対していささかの疑問を持っています。そして先生の議論を考えていければ、権利の主張の方を先行させることにどうしてもなるだろうと思います。そして、先生がケイパビリティについて論じられてきたのもまったくそのような営みであったと思うのです。またそうであるがゆえに、それは多くの人の支持を得ているのだと思います。

 まず第一に、現実がどうしてこのようであるのか、その人の選好(preference)を形成しているもの、他の人達との討議の中で変化する可能性はあるにしてもさしあたりその人のものとして存在する意見を形成しているものを、分析・解析し、なぜそうなっていないのかについて言い、それを評価しそれに介入することではないでしょうか。
 先生がこれまで問題にし考察されてきたことの一つに「現状に満足していると語る貧者」のことがあります。かりにその人が公共の場で発言し、さらに社会的決定に関与する機会があったとしても、その人はそのままでよい、現状に甘んじようということになるのではないでしょうか。これが問題であるとすれば、ここにある問題は決定への参加、同意によって解決されることはありません。権利の付与、具体的には財の分配において個人の効用を基準することを回避すべきだとしても、権利付与のあり方、社会的分配の基準の決定が民主的になされるなら、同じことになりえます。また、かりに別の決定法を採用し、その慎ましい貧者にも対してより多くの財を供給したとしても、その人は受け取らないこともありえます。
 とすると、やはりその選好がどのように構成されているのかを問題にし、その選好とその選好のあり方を形成している社会のあり方の内実を問題にし、そのようであるべきではないと言うことではないでしょうか。
 そして私は、それは伝統的な社会に存する意識の問題としてあるだけではないと考えます。例えば伝統的な家父長制のもとで男性より受け取るものが少なくてよいと思っている女性もいるでしょう。しかし、近代社会にも同様の事態が存在しています。すなわち、生産能力において劣る者は、その分だけ少なくしか受け取れなくても当然であるとされとされます。その規範を真に受ける人は、「自発的」に、その状態を支持することにもなります。私には、一つにはそうしたことが、権利を巡る議論を、そして権利の実現をある程度以上からは進みにくくしている要因であり、その規範の内容を問題にせず、ただコミュニケーションや討議を行っても事態はそう変わらないのではないかと思います。だとすれば、その部分に介入し、問題にすべきことを問題にするべきなのではないかと思います。
 私は、とくにリベラルの論者が、各人の思想・心情を尊重しようという動機からか、個人の選好の内容、そしてそれに確実に影響を与えている社会にある価値観、そして社会規範の内容に立ち入らないことに問題があると考えています。またそうして立ち入らないとしながら、結果的に、業績原理(meritcracy)、所有的個人主義(possesive individualism)と呼ばれたりもする特定の規範、価値観を支持する議論をしてしまっていることに疑問を感じています。そしてそのことが結果的に、権利の拡大を制約してしまっていると思います。

 第二に、人にとってどうしても必要なものは何かというところから論を立てていくという方向がよいのかということです。たしかに世界には深刻な貧困の状態があるのですから、その必要なものをまず確保していくのはまったく大切な課題ではあります。しかし基本的には、一人ひとりの生活において得られるべきものに差があってよい理由はない、というところから出発すべきではないでしょうか。(ちなみに、このことは単純な平等が積極的な目標とされ、その平等な状態が厳密に確定されなければならないことを意味しないはずです。)もちろんそれがそのまま実現することにはなかなかならないのですが、そこから出発しないと、結局、極端な貧困、悲惨には対応すべきだが、それ以外は対応しなくてよいということなり、ではその最低限とはどのあたりかという議論にとどまることになります。このこともまた、先ほど講演で述べられた、あるところまでで権利の付与が留まってしまうことにも関わるようにも思われます。

 そして第三に、その実現の方法として、なされるべきこととして、「機会の平等」を立てることでは不十分であると私には思えます。「人間開発」(human development)という言葉が使われる時、多くの場合には、各人の能力(ability)を高めること、能力を高める機会を与えることとして表象され、受け取られます。それが大きな効果を与えることがあることは事実です。しかし、それには限界もまたあって、その方法だけがもっぱら肯定されるならば、各自が力をつけて自力を得られるようになるのを待っていればよいことに、事態の改善が引き伸ばされることにもなるのではないでしょうか。先生のケイパビリティについての論がこの国でもおおいに歓迎されているのは、一つに、一人ひとりが異なっていても、それにかかわらず、各人の生活が現実に可能である状態が実現されるべきことを主張したからだと思います。他方で、機会の提供だけに限られ、あとは本人の努力だとされれば、やはり、経済的・社会的権利の主張は途中でとめさせられてしまうと思うのです。

 ですから、経済的・社会的権利を実現するとは、開発のための手段の提供に限られない贈与であり、次にそれは国境を越えたものであり、そして国家が受け手ではなく直接に個々人に向けられてものであるべきである、そしてそれは贈与し負担する側にとっては「完全義務」である、そのように主張してよいのではないのではないでしょうか。そのことを基点とすべきではないでしょうか。そしてそのことを言い、その妥当性を主張すること、公共の討議の中に投げ入れることが、この講演で先生が示された経済的・社会的権利をデモクラシーの中で前進させていく途であると考えるのですが、いかがでしょうか。デモクラシーの中で、デモクラシーとともに、経済的・社会的権利を前進させていくために、学がどのような位置にあるべきであり、そして何を言うべきであるかについて、先生のお考えをさらに伺うことができれば、ありがたく存じます。

 
>TOP

■第1版?

2003/06/01 21:20 通訳者の方に送ったEメイル

明日のセン氏の講演会で話をすることになっている
立岩と申します。当日の通訳のために文章をお送りするよう事務局から言われ、
とりあえず、こんなことを話そうという
文章を作ってみました。これから明日の午前にかけて
なおしていきますので、また、当日の講演、他の方のコメント
にも合わせて話しますので、このとおりにはならないと思いますが
いちおう御参考まで、以下。

なおこの文章は今日中に
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2003073.htm
に掲載し、書き直したものもそこに載せるつもりです。(まだ載せていません。)
また、ある程度まとまった加筆、変更がありましたらEメイルでお送りいたします。

また上記からもリンクさせますが
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/sen.htm
にセン氏についての情報が若干あります。

では。

 *以下の英文は、セン氏から送られてきた原稿より。講演原稿として確定されたものではありませんので、その点、御了解ねがいます。

 


セン先生に

立岩真也

 御講演ありがとうごさいました。語られた多くの点に同感し、共感します。その上で、お聞きしたいこと、確認したいことは、まったく初歩的なことなのですが、ここにはあなたの理論、公共哲学の理論に関心をもっている若い学生も多数いますし、私も初学者の一人ですから、よい機会と考え、おうかががいしたいと思います。
 一方で、あなたは、権利について、さらに具体的に社会的分配のあるべき姿を示されてきました。その具体的な基準を明示することは慎重に避けられてきたけれども、しかし、一人ひとりが、そのケイパビリティ(capability)として得られるものが得られるべきことを主張してきました。
 一方で、あなたはデモクラシーについて書かれており、今日も語られました。今日言われたことは、投票の制度によってデモクラシーを解するのは適切でないこと、最終的に決める手続きだけで捉えるべきではないことでした。その主張にまったく同意します。それにしても、デモクラシーはものごとを討論し、そして決めていくときのあり方です。
 さて、第一の、社会的・経済的権利が付与されるべきであることと、第二の、デモクラシーが実現されるべきであること、この二つは、まずは別々のことです。デモクラシーは基本的には決め方であり、その決定の内容は、その決定に関与する人たちによって決められるべきだとされます。他方で、権利の付与のあり方は規則・規範の内実であり、それが社会的に決定されるとすれば、社会的決定の内容です。
 考えてみたいのは、またお尋ねしたいのは、その二つの関係です。
 二つのことはすぐに思いつきます。

 第一に、デモクラシー自体が一つの目的であり、それに関わる諸権利自体が望ましいものだということです。デモクラシーが実現していることと、等しく言論の自由が認められるなどいくつかの権利が付与されていることとはそもそも別のことでないという面があります。この点は認めるとしましょう。ただ、このようなつながりだけでないこともまた明らかです。社会的権利・経済的権利は政治的な権利と密接に連関しながらもそれに還元されない部分があるからです。このことは講演の中でも言われました。
 第二に、何にせよ人々から支持されないものは、実現可能性とそして継続可能性において難しさがあることも言えるでしょう。仮にある制度が押しつけられ諸権利が認められたとしても、その内容に人々が納得でぎないならそれを支持する力は弱くなるでしょう。
 さて、このことを認めた上でも、二つのものが同じになることはないのですし、二つが完全に連続的につながることありません。

 あなたは、実現されていない権利、制度化されていない権利も権利であることを本日の講演で述べました。私もまったくその通りに考えます。
 このことは、権利を先行させていることを意味していると解釈することができます。またその主張は、何がよいかは人によって様々であるとして、それを自らが積極的に語らない立場、そのような立場としてのリベラリストとは異なる主張をしているということです。

 とすると、このこととデモクラシーとの関係はどうなるのでしょう。
 一つに、あなたは、賛成を得られ、制度化されていない権利があると主張されるのですが、しかしそれは、デモクラシーのもとで、公共的な討議にかけられることによって、承認され、そして制度化されるべきであり、そしてまたそうなるだろうと語られています。例えば、「自由に機能するデモクラシーのもとでの開かれた公共的な討議において、社会的な経済的な権利は広範な支持を得られやすい」("economic and social rights", which also tend to receive widespread support in open public discussions in feely functioning democracy)と述べられました。(p.4)
 ただその次には、飢饉による餓死といった目立った災厄については解消されるだろうけれども、しかし、それ以上の権利を認めるところまでにはなかなか行かないのだということをおっしゃいました。
 (米国やインドでそうした諸権利が認められないという)「失敗についての公共的な議論はすべて、ほとんどつねに、それらの権利の重要性を認めることに結びつくのではあるが、それぞれの国で制度的に十分に満たされることがないままされてしまう。」(And yet every public discussion on these failures leads, almost invariably, to the importance of those rights, whihc remain systematically underfulfilled in the respective countries.)(p.5)
 またあなたは、この困難について、次のように述べられました。
 「飢饉は政治化しやいけれども、より極端なものでない剥奪にたいして適切な政治的関心を喚起するには、コミュニケーションの技術をもっと充実させること、政治的な組織化を進めていくことが必要なのだ」(while famines are easy to politicize ・・・・ , much greater communicative skill and political organization are needed to bring adequate political attention on less "exterme" deprivations・・・・ )(p.5)

 ですからあなたは、困難を認識しつつ、しかし、より実質的なデモクラシーによって、社会・経済的な権利の承認が得られるであろうと述べているわけです。私も、そのような希望を共有したいと思います。この国でも「話せばわかる」と言われたりします。
 しかしここではもうすこし詰めてみたいと思います。その公共の討議の場で、何が話され、そして聞かれるのでしょう。それは社会にある悲惨でしょうか。それはたしかに訴えるものをもっています。そしてむろん、より実状を知れば、付与される権利のその度合いが上がることはあると思います。しかしそれではあるところまでしか行かない。このことはあなたが言われた通りです。もしそれが現実の悲惨さに対する憤りに基づくものであれば、それほど可哀そうではないと思われる水準のところで留まるかもしれません。

 となると、社会的・経済的権利の付与が肯定されるべきだという立場をとる者は何をなすべきなのでしょうか。むしろ、何を原理として立てるのかを、その理由とともに示すこと、自らと別の考え方に抗し、反論することではないでしょうか。つまり、公共的な討論の参加者として主張することではないでしょうか。私は、リベラリズムの論者たちが、議論の調停者として振舞おうとすることに対していささかの疑問を持っています。そしてあなたの議論を考えていければ、権利の主張の方を先行させることにどうしてもなるだろうと思います。そして、あなたがケイパビリティについて論じられきてのもまったくそういうことであったと思うのです。またそうであるがゆえに、それは多くの人の支持を得ているのだと思います。

 まず、現実がどうしてこのようであるのか、その人の選好を形成しているもの、他の人達との討議の中で変化する可能性はあるにしてもさしあたりその人のものである意見を形成しているものを、分析・解析し、なぜそうなっていないのかについて言い、それを評価しそれに介入することではないでしょうか。
 あなたが議論なさってきたことの一つに「現状に満足していると語る貧者」のことがあります。もしその人が発言し、さらに決定する機会があったとしても、その人はそのままでよいということになります。これが問題であるとすれば、ここにある問題は決定への参加、同意によって解決されることはありません。権利の付与、具体的には財の分配において個人の効用を基準することを回避しても、基準の決定が民主的になされるなら、同じことになります。また、かりに別の決定法を採用し、その慎ましい貧者にも対しても多くの財を供給したとしても、その人は受け取らないこともあります。
 やはりその選好がどのように構成されているのかを問題にし、その選好とその選好のあり方を形成している社会のあり方の内実を問題にし、そのようであるべきではないと言うことではないでしょうか。
 そして私は、それは伝統的な社会に起こっている意識の問題ではないと考えます。例えば伝統的な家父長制のもとで男性より受け取るものが少なくてよいと思っている女性もいるでしょう。しかし、近代社会にも同様の事態が存在しています。すなわち、生産能力において劣る者は、その分だけ少なくしか受け取れなくても当然であるとされとされます。その規範を真に受ける人は「自発的」に、その状態を支持することにもなります。私には、一つにはそうしたことが、権利を巡る議論をある程度以上からは行きにくくしている要因であり、その規範の内容を問題にせず、ただコミュニケーションや討議を行っても事態はそう変わらないのではないかと思います。だとすれば、その部分に介入し、問題にすべきことを問題にするべきなのではないかと思います。
 私は、とくにリベラルの論者が、各人の思想・心情を尊重しようという動機からか、個人の選好の内容、そしてそれに確実に影響を与えている社会にある価値観、そして社会規範の内容に立ち入らないことに問題があると考えています。またそうして立ち入らないとしながら、結果的に、業績原理といった特定の規範、価値観を支持する議論をしてしまっていることに疑問を感じています。そしてそのことが結果的に、権利の拡大を制約してしまっていると思います。

 次に、人にとって何が必要かというところから論を立てていくという方向がよいのかということです。たしかに世界には深刻な貧困の状態があるのですから、その必要なものをまず確保していくのはまったく大切な課題ではあります。しかし基本的には、一人ひとりの生活において得られるべきものに差があってよい理由はない、というところから出発すべきではないでしょうか。(ちなみに、このことは平等が積極的な目標とされ、その平等とは何かが確定されなければならないことを意味しないはずです。)もちろんそれがそのまま実現することにはなかなかならないのですが、そこから出発しないと、結局、極端な貧困、悲惨には対応すべきだが、それ以外は対応しなくてよいということなり、ではその最低限とはどのあたりかということになります。それが先ほど講演で述べられた、あるところまでで権利の付与が留まってしまうことにも関わるようにも思われます。
 また、その実現の方法として、なされるべきこととして、「機会の平等」を立てることでは不十分であると考えます。「人間開発」(human development)と言われる場合、多くは各人の能力を高め、機会を与えることとして表象されます。それが大きな効果を与えることがあることがあることは事実です。しかし、それには限界もまたあって、その方法だけがもっぱら肯定されるならば、各自が力をつけて自力を得られるようになるのを待っていることになる、引き伸ばされることにもなるのではないでしょうか。あなたのケイパビリティについての論がこの国でもおおいに歓迎されているのは、一つに、一人ひとりが異なっていても、それにかかわらず各人の生活が現実に可能である状態が実現されるべきことを主張したからだと思います。他方で、機会の提供だけに限られ、あとは本人の努力だとされれば、やはり、社会的権利・経済的権利の主張は途中でとめさせられてしまうと思うのです。
 ですから、開発のための手段に限られない贈与であり、次にそれは国境を越えたものであり、そしてそれは個々人に向けられてものであるべきである、そしてそれは贈与し負担する側にとっては「完全義務」である、そのように主張してよいのではないのではないでしょうか。そのことを基点とすべきではないでしょうか。そしてそのことを言い、その妥当性を主張すること、公共の討議の中に投げ入れることが、この講演であなたが示された社会的・経済的権利をデモクラシーの中で前進させていく途であると考えるのですが、いかがでしょうか。


 ※当日のセン氏の講演(の翻訳)は出版されると聞いています。
 ※→されませんでした。

UP:20030601 REV:0604, 20131116
Sen, Amartya  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)