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現われることの倫理

立岩真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科) 20030607
東京大学21世紀COE「死生学の構築」ンポジウム「死生観と応用倫理」
第1部「いのちの始まりと死生観」 於:東京大学・本郷 COE
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku
→2003 『死生学研究』2



◇「生命尊重」を主張し、人工妊娠中絶に反対する論があるが、その論には難点がある。性殖、誕生の過程は連続的なものだ。例えば精子にしても卵子にしても、一つの生体ではある。避妊もいけないと言う人たちもいるが、それにしても何億とある――そのままにすれば自然に消滅する――精子がすべて生かされなければならないといったことを冗談でも言う人はまずいない。つまり成長の可能性のあるすべての生体を生きさせなければならないとは言わない。しかし受精したら違うだろうと言われるかもしれない。どう違うのか。意図が入っている点だろうか。しかし性交は意図的だとしても受精はそうでない。受精卵には遺伝的プログラムが備っているからか。しかし、様々なところにプログラムはある。こうして中絶がとくに禁じられるべきだとそう簡単には言えない。そして、「生命尊重派」も何でも生かそうとしているのでなく、線を引いている。このことははっきりしている。

◇中絶反対論の脆さを突くことができたとして、それは女性に決定を認めることと同じではない。「自己決定」という言葉を、私にだけ関わることについては私が決定できる(「私事」についての決定権)という意味にとるなら、この論理だけから女性による決定が正当化されることはない。また、私が関係したという因果関係だけなら男・雄にもある。自らの身体に対する権利という根拠はどうか。もちろん起こっている事態はその女性の身体に起こっていることである。また女性の自らの身体に対する権利を認めるとしよう。だとしても、それは身体に関わることすべてに権利を有することを意味するものではない。有するとすれば、自らの身体を使えば人を助けられる場合に助けないこともまたその人の権利であるとされることになる。総じて、自らの自らについての権利という根拠をここで用いることはできない。

◇拙著『私的所有論』(勁草書房)で、その女性に委ねるしかないと思うのは、何かが私でない存在、他者として現われる過程を感じる、感じる場にいてしまうのはその女性だけだからではないかと述べた。子が登場するとは、産む者の身体において、何かが他者になっていく過程ではないか。「人であることはいつ始まるか」という倫理学の抽象的な議論に対して、フェミニズムから一貫して疑義が唱えられてきたことの意味がここにあると考える。どうすべきか、肯定もできないにせよ、明白な論拠で否定もできないとき、酷なことでもあるが、あるいは、酷なことであるがゆえに、その人、女性に委ねるしかない。何かの近くにいる人はその何かに関わる利害関係(敵対度)がもっとも大きい人でもあるからもっとも警戒すべき人でもあるのだが、それでもそう言えるのではないか。

◇こうして女性の決定を肯定することと、「生殖技術」のある部分を肯定できないこととは、矛盾するように思えるかもしれないが、実はそうでない。むしろ両者は同じ場から発することだと考える。
 例えば、「代理母」の肩を持ちたい気になる時、その気持ちは、契約した者において、その子が抽象的に「私の子」(となるべき者)として存在するのに対して、あの「代理母」においては「他者」として存在を始めているということから来るのではないだろうか。それゆえに、私達はそのような関係を保持している者を支持したいと考えるのではないか。
 また、体外受精等の場合には自らの身体を受容することが妨げられ、その身体に生ずる苦痛が小さく見積もられてしまう。子のために身体を使用することを期待されてしまう。身体のただの不快さを小さなものとし、私が為すことによって、「挑戦」することによって、評価される世界にいることによって、技術を使わないことが難しくなる。
 自らによって制御されない(あるいはしようとしない)存在――それを「他者」と言うなら、身体もまた他者であると言いうる――と、その存在の経験とが尊重されるべきと私たちは考えている。だから、女性の決定が擁護され、同時に、いくつかの技術の使用が肯定されない。

◇どんな人が生まれるかを決めることへの抵抗もまた同じところに発していると考えることができる。誕生の前に染色体やDNAを検査し(「出生前診断」)、その情報に基づいて生まれる人を決める「選択的中絶」について。
 一つ、親、特に女性は育児の、一生の負担を負うことになるのだから、その人に決定を委ねるべきだという主張がある。けれど、とすると、他人に負担をかける人は、その他人に自らのことに関わる決定をされても仕方がないということになってしまう。それではいけないと考えるなら、この主張は認められない。
 人工妊娠中絶全般を認めておきながらその一部である選択的中絶を問題にするのはおかしくないかと言われるかもしれない。けれどもおかしくない。ある事象一般(全部を意味しない)をよしとした上で、部分を否定することはできる。例えば、適切な例ではないが、性的な関係一般(全部ではない)をよしとした上で、強姦はいけないと言うことはできる。
 好ましいことではないとして、それは、「その人」に対する加害、「抹殺」であるから――だとすると、人工妊娠中絶全般がだめだということになる――ではない。もっと別の理由がある。そしてその理由に、人工妊娠中絶自体が望ましいことだとは誰も思っていないのだから、その望ましくない手段で行なわれるという理由が加わることになるだろう。
 この行ないは、どんな人がこの世に現われ、どんな人がこの世に現われないかということを選び、決めてしまっている。これは好ましいこと、よいことか。よいことだという人もいる。しかしどんな人を社会に迎えるのかを私たち(の都合)で決めてはならないと言うことはできると思う。もちろん私たちは人のあり方を決めたいのだが、しかし、そうしてしまったら、私でない他者がいることが終わってしまうのではないか。
 もちろん様々に文化は違い、価値観も異なるのだが、しかしこのことは、私でない存在としての他者がいて、その他者と関係して私たちが生きていることの基本的な部分にあり、その意味で普遍的な価値である。前掲の『私的所有論』で他者のことについて述べた第4章でこのことを少し書いた。
 障害者差別に「つながる」ことが「懸念される」とか、差別を「助長する」「おそれがある」ことが指摘されているなどと言われることがある。だが、障害をもった子は、手間がかかるから、あるいはとにかく生まれてほしくないから、産まないという以外に選択的中絶をする理由がどこにあるか。これは、差別に「つながる」のでなくて、差別「そのもの」ではないかと言われた時、それにどう答えるのだろう。この単純な質問に対しても、この技術の容認派・肯定派は答えていない。

◇医療者は「知らされなかった」ことの責任を問う訴訟を恐れているのかもしれない。しかし、ここでは知りたがっている「本人」に本人のことを知らせなかったのではない。むしろ、その人自身についての情報でない情報を提供することを断わることはできるし、断わるべきだとすることもできるかもしれない。少なくともある時期までの中絶は罰せられない、理由は問われないが、検査は規制されうる。それはそう突拍子もないことだろうか。出生前になんでもわかるようになればなっただけ、知って、それをもとに決めてよいのだろうか。プライバシーの権利というものが大切なのものだとして、その大切さは、私(たち)の好みを他人に押しつけてならないということではないか。だからむしろ、プライバシーの権利からは知ってならないことが帰結するはずなのである。
 これを別に言えば、人には「偶然に生まれてくる権利」があるということだ。「クローン人間」は、複製人間であり人の独立性を脅かすから脅威なのだという議論は、もちろんまったく間違っている――この論を受けいれるなら一卵性双生児の2人はそれぞれ独立の人間ではないということになってしまう。問題はそんなところにはない。また技術的な危険性だけを言えばよいのではない。どのような人間を存在させたいかという欲望がそこにはあって、その欲望から生まれてくる人たちは守られなければならないから、また私たちはその人たちを守らなければならないから、それを許容すべきではないのである。

*「現実に立ち遅れる」から「新しい「医療倫理」」を、という発想に私はまったく同意しない。「医療倫理」「生命倫理」が何か力のないもののように感じられるとしたら、それは論理を過度に重視しているからでなく、まったく逆であり、中途半端に事実について述べるとその後がなく、十分に論理を尽くして考えることがなされていないから、そして、討論の機会にせよ、活字メディアにせよ、そのような中途半端な場しか与えられていないからだと考える。思考を持続させることが必要であり、それを可能にする環境が必要であり、そして必要なだけの量の記述が発表される場が必要だと思う。

*以上は過去に述べたことの中からいくつかをあげたものであり、新しく考えた部分はない。記述そのものも、『私的所有論』と「確かに言えること と 確かには言えないこと」(齋藤有紀子編『母体保護法とわたしたち――中絶・多胎減数・不妊手術をめぐる制度と社会』、明石書店、pp.241-251)にある文章とかなり重複している。


 
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シンポジウム「死生観と応用倫理」
第1部「いのちの始まりと死生観」
(第1日)6月6日――15:00-18:00公開講演(1番大教室)
15:00-15:10 開会の挨拶 
15:10-16:25 講演(1) Tony Hope(Oxford University)
16:40-17:55 講演(2) Julian Savulescu(Oxford University)
18:00 閉会
司会
赤林朗(医療倫理学、東京大学)

(第2日)7日――10:30-17:30 研究集会(教官談話室)
報告者
出口顕(文化人類学、島根大学)
荻野美穂(女性学、大阪大学)
島薗進(宗教学、東京大学)
八幡英幸(倫理学、熊本大学)
立岩真也(社会学、立命館大学)
コメンテータ
清水哲郎(哲学、東北大学)
Hillel Levine(ユダヤ教の社会学、Boston University)
司会
Helen Hardacre(宗教学、Harvard University)
熊野純彦(倫理学、東京大学)

個別報告:25分、個別討論:15分
10:20分 開会 
10:30ー12:30 報告と討議(1) 出口、荻野、島薗
12:30ー13:30 昼休み
13:30ー14:50 報告と討議(2) 八幡、立岩
14:50ー15:30 コメント   清水、Levine
15:45ー17:30 総合討議

◇終了後、18:00より小パーティ(山上会館)


UP:20030430
『私的所有論』  ◇『母体保護法とわたしたち』  ◇立岩 真也
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