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第四十四回公共哲学京都フォーラム

2003


 *以下に収録されました。
 2006/06/25「(発言)」,市野川容孝・金泰昌編『健康・医療から考える公共性』,東京大学出版会,公共哲学19,348p. ISBN: 4130034391 [amazon][kinokuniya] ※,

 *立岩の発言部分のみ

@立岩真也 市野川さんの話というのは簡単にいうとこういうことだったのでしょうか。かつて社会科学と社会と医療というものに、或る種幸福な合体と思われた状態があったというのが一つ目の話。
 しかし、それがそうはいかないということが見え出してきて、それが社会学においてはインメディシンとオブメディシンという社会学のスタンスの変化というものにも関わってきた。これが二つめの話。
 そして三つ目の話は、その亀裂の回収の仕方としてバイオエシックス(生命倫理学)の方から出されてきたものが「インフォームドコンセント」(十分な説明を前提とした同意)であったり「自己決定」というものであった。おおむねそういう三段の話になっていると思うのです。
 私は、ほぼそういうことを他のところでも言ってきました。そのこと自体はそういうことだと思うのですが、なおかつ発題の時間が限られていたので当然だけれど、常にそれに関する余剰みたいなものがあるわけですよね。つまり、非常にきれいにまとめられた三つの話ですが、第一段の無矛盾のある種の幸福さみたいなものから漏れている部分が、例えば19世紀にも必ずあったと思うんですね。そういった話がそれぞれについてあると思うのです。
 亀裂が起こった第二の段階に対して、バイオエシックスはそういう形で答えを出そうとした。私も一応社会科学者なんだけれども、その時に例えば医療社会学者は何をしていたのか。あるいは、市野川さん自身がどう考えるのか。一、二と来て、バイオエシックスは三の解を出した。それに対して市野川さんは明らかに不満気なわけです。そうだとすると、その時に医療をめぐる社会科学ないしは社会に起こったことは何であったのか。そのことについての見解を聞かせていただきたいというのが私の質問です。

 ……

 B立岩真也 私も実は昨年の3月まで看護系の学生を育てる学校にいました。先生のおっしゃることはだいたいそうだろうなと思います。特にこの10年の間に急速に学校が建ち、そのためにいろんな問題が起こっているということを現場にいて感じています。
 チーム医療に関してお尋ねします。チーム医療の中で責任の所在がはっきりしないために生じる問題がある。チーム医療は水平的なイメージで捉えられるけれども厳密にはヒエラルキーがあるとおっしゃったと思うのです。そうした場合に、チーム医療で責任の問題が生じたときにどういう形で対応するのが適切なのか。例えば看護職がリーダー的な役割を果たすという解もありうるかもしれないのですが、目下の川島先生のお考えを伺いたいと思います。

 ……

 C立岩真也 ある種の人間学というか、人間存在論みたいなものが必要であるということに関しては私も全く異議がないのです。私もそういう仕事を少しやっています。それと同時に、今議論になったようなことを一つ一つ考えていくことがもっと為されてよいはずだと思いました。
 例えば「公的なもの」の外延ないし内包の話をしなければ、そうでないものが出てこないわけです。そうしたときに、外延であれ内包であれどちらでもいいのですが、政治が介護とか医療とかでどういう役割を果たしているか、あるいは果たすべきかという問題が一つ立つだろう。そのとき「社会化」とはどういう意味を持つのか。
 政府によってなされること、政治的な回路を通されるものは他と違った性格を持ちます。その一つは強制力ですね。そうすると、例えば医療なり介護なりに関して強制力というものがどういう場面でどういうふうに必要であると考えるか。そういうところから議論を始めていけば、何を議論しているかが分かると思います。
 人が医療とか介護を提供するということに関して、もちろん、一人一人の持ち分があって身体的な能力や状況が違うといった場合に、その一人自身の中では完結しないという状態が当然あるわけです。だから誰か他の人が手を貸すということが起こらざるをえないし、起こらなければそれは不可能なんですね。そうした時に誰が責任を持つのかという問題があります。
 たとえば「自発性」の領域では、誰かを助けるということに関して、ある人はするけれども、ある人はしなくていいということがあるわけですね。それに対して、例えば人が病を病んでいる、あるいは障害を持っているというときにその人を支援するというのは、やりたい人はやる、やりたくない人はやらないということでいいのか。その人が「あまりやりたくないな」と思っていてもその人に負担を求めるべきあるということになると、これは「強制」を認めるべきだということになる。そういった意味で、例えば医療の社会化なり、介護の社会化が、基本的に肯定されるべきであろうと私は考えるわけです。
 次に、医療や介護を提供される資源の問題があります。社会全体が資源をという場合、とりあえずは「国家」が資源を調達し分配するわけですが、実はよく考えていけば国家という単位では足りない。もっと大きな世界大という単位でないとうまくいかないということが論証できる。そういう場面が多分あると思うのです。その話はその話としてきちんとしておかなければいけない。つまり、万人がその権利に対して義務を負うべき範囲がいったいどこまであるべきか。そういうことを考えていく必要がある。
 そうではないと、本来国家が担うべき領域を狭めるような形になりかねないし、また国家よりも大きなものに対しては担わないという話になりかねない。そのように考えると、「政府」はいかなる理由において何をすべきかということについても考えられるだろうと思います。
 国家は個人の生活に干渉しうるということが当然あるわけですね。しかしながら、以上からで出てくる話としては、例えば「資源」の供給を保険という形にするのがいいのか、税金という形にするのがよいのか分かりませんが、いずれにしても強制的に人から資源を徴収して行うということになる。そこから、政府が個人の生活に介入する度合いをどこに置くかということについて、別に考えることができるわけですね。現実にはいろいろな要素が相伴ってしまうわけですが。そういう議論をしていかないと話の中身が定まっていかないのではないかということを感じました。
 医療とか福祉ということもそういったフェーズ(相)を考えないと、「いや全部国家がやることはないんじゃないか。公的な責任ではない」という議論になりうるわけです。NPOか地域共同体か分かりませんが、そういう議論になってしまったときに「どっちなんだ」という話がきちんとできないだろうと思うのです。
 それから先ほどから議論があったように、医療でも介護でも福祉でも、ある種の資格制度のもとに存在しているわけです。そのこと自体の持つ様々な意味合いもきちんと考えていく必要がある。それらのサービスの提供者に対して公的な資格付与が行われるのはどうしてなのかという話になってきてはじめて、そのような公的・政治的な枠の設定がどこまで必要で、どこからは必要でないという議論ができないのではないでしょうか。
 全てのサービスの提供者に資格が付与されるということは実は存在しないわけですね。そういう意味では特殊である。その特殊であることの正当性というのがどこから来るかということを考えた時に、例えば、供給者と利用者 ― こういう言葉はお好きでない方もいらっしゃるかと思いますが ― との関係の中で、利用者(医療を受ける人)が自らの供給者の質を十全に判断することがあらかじめ可能であれば、わざわざ公的なものがしゃしゃり出てきて資格を付与する必要もないわけです。
 しかし現実には、提供者と利用者の間が完全に対等な関係に常になれるというわけではない。情報の不足であるとか、様々な問題が絡む。そうすると、消費者保護ということで、ある種事前のスクリーニング(適格審査)をすることによって供給されるサービスに対するある種の制限にあたる資格付与というのを行わなければいけない。これは一方で言えることだと思います。これは別に人のサービスに限りません。薬品の問題等々の場合についてもそういうことは言えるだろう。
 と同時にそういった制度が公的な制度としてあることによって、また別の機能を果たすわけですね。例えば介護の資格を付与することによって、その資格を付与された人たちがある種の仕事を独占するということが起こる。そういうせめぎ合いみたいなことは歴史的にずっとあったわけです。そうすると、ある種の資格が必要であるかもしれないということと、しかしながらそれが現実の利害の中でどのように作用しているかという問題の両方を考える必要が出てくる。
 そもそも国家資格というものが必要なのか。場合によってはあるいは職能団体の自主規制みたいなもので間に合うのではないか。あるいはそういったものさえも必要でない場面もあるのだから消費者(利用者)にまかせればいい。もしも「公共」という言葉を使うとすれば、そういった議論が私にとっては「公共」を論じることだと思うのです。社会の中で何かを必要としている人がいる。医療とか福祉とかはそういうものだと思いますが、それをどういう形で配置していくのかを考えざるをえないとすると、そういう話をしていかないといけないわけです。
 もう一ついえば、ある種基本的な権利を保障するために守るべき義務というものが全ての人にあるのであれば、それは必然的に「政府」という回路を通らざるをえない。それと生活の多様性というものが両立しえないのかというと、恐らくそうではないわけです。資源の部分での公的なあるいは政治的な責任というものと、それを使ってどうやって提供し、そして利用していくかということの間には様々なものが入るでしょう。それは家族であったり、家族ではない別の小さな集団であったりすると思うのですが、そういったものが配置されていくうまいやり方があるはずなのですが、そこのところの議論が抜けてしまうと、ここ10年、20年とずっと言われてきた福祉国家に対するの通俗的な批判みたいなものに巻き込まれてしまうという感じが私はしています。



立岩 真也
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