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家族・性・資本

―素描―

立岩真也 2003/11/05 『思想』955(2003-11):196-215
http://www.iwanami.co.jp/shiso/0955/shiso.html


◇この文章は改稿され、拡張されて別の文章となります。→そういうつもりでしたが、これはこれとしてひとまず本に収録されるということになるかもしれません(2010)

*以下の本に収録されました(pp.17-53)。お買い求めください。
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02,f04

『家族性分業論前哨』』表紙

■言及

◆立岩 真也 2012/07/01 「制度と人間のこと・3――連載 80」,『現代思想』40-9(2012-7):52-63 →

 

一 一言で括られてしまうものを括らないこと

  ■1 解かれていない

  資本制と家父長制という主題がある。性別分業の体制が資本制にとって機能的だと言われる。だがそうだろうか。
  例えば、労働を欲する側としては多くの労働の供給があった方がよく、男を市場で働かせ女を家庭に置くという形が得だと思えない。男も女も労働力とする方が得ではないか。
  とすると、そのことではなく、家庭での家事労働のことを言うだろうか。しかしそれで女が外で仕事ができないことを考えるならどうか。家事・育児は時間をとる仕事ではあるが、ずっとそうではない。一人の人に行わせるなら、時間の使い方としてはむらが大きすぎて効率的だと言えない。外での仕事も中での仕事も両方してもらう方がよいのではないか。
  他方、この社会で、この社会だからこそ、女は損をしている、損をしている分他方は得をしているとやはり思える。それは間違いだと思えず、間違いだと言うならそう言う方が間違っていると思える。その思いは信用できるように思う。
  運動の内部にも二つの方向の言い方がある。一方では女性が社会の犠牲になっていると言うのだが、他方では、もっと社会を合理的に運営していくためには、女性を入れた方がよいと言う。実際、共同参画社会といったことを主張する際には、その方が社会はうまく行くと主張もする。政策提言、政府の委員会等ではそのように言った方がよいということもあるだろうが、それだけのことでもないようだ。
  資本制は近代家族を必要とするとか、性別分業を利用しているとか言われるのだが、それは本当か。少なくとも私はどうどう考えればよいのかわからなくなる。問いは単純だが答を見出すのが容易でないように思える。もちろん、もっともなことは今までいくらも言われているのだが、そこには幾つか罠があって、そこにはまってしまうと、部分的に当たっているが、全体としては外れでむしろの事態を見えにくくするようなことを言ってしまうことにもなる。オセロ・ゲームのようなところがあって、次の一手で白が黒に変わるのだが、それを間違えると、白が白のままに置かれる★01
  分けるべきものを分けて順序を踏んで考えていくしかない。そもそも「資本制にとって」という言い方がわかるようでわからない。「資本」とは資本家のことを言っているのだろうか。必ずしもそうではないだろう。では何なのか。まずもっと素朴に言い直してみることにしよう。それで言い尽くされている保証はない。しかし少なくともこのような試みを行っていく中で、ではどのように言い尽くせていないのかを考えることができる。次項でこの作業を行う。
  その上で、家族という単位に権利・義務が設定されることをどう捉えることができるかを第二節で述べる。第三節で古典的な近代家族、勤め人の夫と専業主婦という体制について、第四節でそこからの変位をどう捉えられるかを考える。

  ■2 構成要素

  1)格差
[…]
  2)拡大
[…]
  3)維持
[…]

  ■3 関係


二 家族という単位

  ■1 それが位置する位置

  ■2 利害の布置とその評価

三 古典的な近代家族体制

  ■1 その成立

  ■2 作用

四 変容について

  ■1 解体と変位

  ■2 何を狙うしかないのか



★01 立岩[2003a](以下立岩の文章については著者名略)でもこの主題が解かれていないと言い、その主題を論じないと断った上で、これまでの経緯について次のように記した。
  障害者の介助のことを調べたり考えたりした時([1990]、後に改稿して[1995])、家族が家族であるから家族が義務を負うことを法が強制してしまうという現象を不思議に思って――今でも不思議で不当なことだと考えている――、それで家族のこと、近代家族に付随するものとされる愛情と家族という形態との関係やそこに見込まれる行為、そして権利と義務について少し考えることになり[1991][1992]を書いた。同じころ、ひととき話題にもなった上野[1990]が出て、読んだが私には書いてあることがわからなかった。多くの間違いがあり、意味不明の箇所があると思った。それはその本だけに限らない。そんなこともあって[1993a][1993b]の報告を行い、[1994a][1994b]を書いた。もちろん以下に述べることについて膨大な文献がある。それらと私が述べることの異同を確かめながら進む必要があるが、それを行えば文章の量はすぐに十倍程にはなるだろう。それは別の機会に発表することにし、当然参照すべき文献もここではあげず、以下に述べることについていくらか詳しく述べた箇所のある筆者自身の文献を紹介するにとどめる。ホームページhttp://www.arsvi.com内の本稿と同じ題のファイルから約五〇〇点の文献をあげた文献表を見ることができる。
★02 生産を自動的に昂進していくものとして捉えるべきでないことについては[2001b]でも述べた。
★03 cf.[1997]第六章二節「主体化」、[2003b]第二章「嫉妬という非難の暗さ」。
★04 cf.[2000a]第一節「不安と楽観について」。
★05 [1997]に続き、[2001-2003]を改稿しまとめた[2003b]で社会の基本的なあり方について考え、説明している。
★06 強制の意味については[2003b]第三章三節「普遍/権利/強制」で述べた。なお以上であげた三つの他に民間非営利の活動領域がある。四つの領域の境界と関係を考えることの重要性は[1990]を書いた頃から感じていることで、[2000e→2004]でも簡単にだがこのことを述べている。
★07 このこと、そして家族についての議論の多くがこのことに気づいていないかのようであることを[1991][1992]で述べた。[1996]では、愛情という「神話」が不払い労働の不当性を覆い隠しているという言い方をもう少し正確にし、関係は行為の義務を導かないと言えばよいのだと述べた。
★08 例えば次のように考えてみる。初期状態においてAの持ち分はa、Bはbとし、aはbより大きいとする。それぞれの暮しに必要な分cがあり、それについては全体(a+b)からその必要に充当することにする。次に全体から2人分のcを引いて残った分(a+b−2c)については初期状態と同じ割合a:bで分配するものとする。結果として、AとBの受け取りの格差は縮まることがわかる。
★09 生産の可能性に依拠して分配する場合には、生産に促進的に作用するだろう。例えば育児支援にはそのような性格がある。これは生活のための分配であると同時に、あるいはむしろ、生産のための投資という性格をもつ。このように、子どもと、現役で働く人と、引退した高齢者と、それ以外の障害者と、各々の生活を維持することの意味は同じでない。ここでは論じられないが、これまでこのことが曖昧に処理されてきたことが議論の混乱に関係していると考える。世話する仕事への支払いという観点から[1992a]で検討した。
★10 例えば世話する仕事の場合、それを担う家族は一般に負担の肩代わりを求めるのだが、世話されて暮す人にとってはその量が増えなければ意味がない。同じ量の仕事を誰が担うかという問題と、その仕事の量の増減が何をもたらすかという問題とは分けて考える必要がある。前者は1)格差にだけ関わるが、この仕事の量が増える場合、そしてこの仕事がただ生活を維持するための仕事である場合には、3)生産の拡大と競合することがある。このことは[2000a]でも述べた。
★11 本節でみる賃労働する人としない人の区分けと次節で取り上げる待遇に格差のある仕事への振り分けの両方について、性別による能力差がない場合、それが買い手にとっての利益にならないことは――自明のことではあるが、このことについてさえ誤解があるので――[1994b]で確認した。
★12 家事労働、とくに労働者を(再)生産する労働が無償であることからこの分業形態の不当性を言い、同時に、それを行わせる男・資本・国家――多くの場合、これらが曖昧に列挙される――による(不当な)利益の獲得にこの分業形態の成立・存続の理由を求める議論について[1994a]で検討した。この議論には様々におかしなところがあるのだが、近年の論調は、それに感づきながら、しかしそれを確認せず、それを通り越し、いつのまにかパートタイム労働や「ケア労働」の方に議論の場を移行させているように見える。
★13 これは落合[2000:154ff.]の理解と共通する。そのことを述べた上で、落合はこれからは労働力が不足する時代だからこれまで通りではいけないと言う。向かうべき方向について同意するが、私は、全体として労働力不足になるとは言えないのでないかと考え、また不足でないのに不足とされる部分と不足しているのに不足とされない部分が同時に存在する状況が現われる、既に現われていると理解しており、その理解の上で考える必要があると考えている。次節でそのことを述べる。なお私は、労働力が余っていることは基本的にはまったく歓迎すべきことであり、失業の問題は、既に実現可能性を失いそして望ましいことでもない生産の拡大によってでなく、労働の分割によって対応すべきだとと考える([2003b]序章三節三・四「生産の政治の拒否」「労働の分割」等)。ワークシェアリングについて熊沢[2003]。
★14 だから一方で自給的な農業など支払われない労働により生活の維持がなされることによって、他方の産業への安い労働の供給が可能になるという事態――これはこの時期にあり、また特にいわゆる開発途上国において現在でも広範に存在する事態である――における「不払い労働」の位置と、本節が対象にしている専業主婦の家事労働の位置とを同一視すべきでないと考える。
★15 このことについても[1994a]でもう少し詳しく述べた。
★16 統計的差別については[1997]第8章注2。
★17 これがなぜなのか、「少子化」がなぜこれほど問題とされるかについて[2000a]で述べた。
★18 この仕事の社会化、地位向上を言おうとする言説の意義と限界について[2000c]。「専門性」を論拠にすることについては[2000b→2000d:283ff.]でも論じている。
★19 贈与という性格とその仕事が支払われる労働であることとが矛盾しないことについて[1995]姜他[2000]他。
★20 cf.[2003b]序章三節七・八「国境が制約する」「分配されないもの/のための分配」、[2001a]。

■文献(*のあるものはhttp://www.arsvi.comで読める)

安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』、藤原書店→1995 増補改訂版
姜 尚中・井上 泰夫・立岩 真也・中村 陽一・川崎 賢子 2000 「アンペイド・ワークから見えてくるもの――グローバリゼーション、ポストコロニアル、家族・地域」(座談会)、中村陽一・川崎賢子編『アンペイド・ワークとは何か』、藤原書店 pp.137-174
熊沢 誠   2003 『リストラとワークシェアリング』、岩波書店
落合 恵美子 2000 『近代家族の曲がり角』、角川書店
立岩 真也  1990 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」、安積他[1990:227-284]*
―――――  1991 「愛について――近代家族論・1」、『ソシオロゴス』15:35-52*
―――――  1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」、『社会学評論』42-2:30-44*
―――――  1993a 「誰が性別分業から利益を得ているか」、関東社会学会第41回大会報告*
―――――  1993b 「家族そして性別分業という境界 ――誰が不当な利益を利益を得ているのか」、日本社会学会第66回大会報告*
―――――  1994a 「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」、『千葉大学文学部人文研究』23:63-121*
―――――  1994b 「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」、『Sociology Today』5:46-56*
―――――  1995 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265]
―――――  1996 「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」、『信州大学医療技術短期大学部紀要』21:115-126
―――――  1997 『私的所有論』、勁草書房
―――――  2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下)、『思想』908(2000-2):65-88、909(2000-3):122-149
―――――  2000b 「遠離・遭遇――介助について」(1〜4)、『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[2000c:219-353]
―――――  2000c 「過剰と空白――世話することを巡る言説について」、副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房,pp.63-85
―――――  2000d 『弱くある自由へ』、青土社
―――――  2000e 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」、『理論と方法』27:101-116→2004 盛山和夫・土場学・織田輝哉・野宮大志郎編『社会学の現在』(仮題)、勁草書房
―――――  2001a 「国家と国境について」(1〜3)『環』5:153-164,6:153-161,7::286-295
―――――  2001b 「停滞する資本主義のために――の準備」、栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知5)、東京大学出版会 pp.99-124
―――――  2001-2003 「自由の平等」、『思想』922(2001-3):54-82,924(2001-5):108-134,927(2001-8):98-125,931(2001-11):101-127,946(2003-2):95-122,947(2003-3):243-249
―――――  2003a 「<ジェンダー論>中級問題」(1〜3)、『環』12:243-249,13:416-426,14:416-425
―――――  2004 『自由の平等』、岩波書店(近刊)
上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』、岩波書店


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女性の労働・家事労働・性別分業  ◇立岩 真也  ◇立岩より御送付
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