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ただいきるだけではいけないはよくない

立岩真也 2003/06/ 『中日新聞』『東京新聞』
http://www.chunichi.co.jp/

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 *この文章は、新たに注を付した上で『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。
 *『現代思想』での続きものは大幅に加筆されて『ALS――不動の身体と息する機械』になりました。

 下:『中日新聞』2003-06-08:06/『東京新聞』2003-07-22
 上:『中日新聞』2003-06-01:06/『東京新聞』2003-07-15

(上)

 人生のことなど少しもわからない。ただ一つだけ確かだと思って、それだけ言おうと思って書いてきたのは、美しく死ぬとかいうのはやめた方がよい、ということだ。
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病がある。全身の筋肉が次第に動かなくなっていく。解明は進みつつあるが、まだなおる病気ではない。全国に五千人ほどいるとされる。進行していくと自分で呼吸をするのが難しくなるのだが、人工呼吸器を付ければ息ができて生きていける。しかし半数以上の人がそれを付けずに亡くなると言われる。
 厳しい病気だからという医療側のためらいもあり、多くの人は自分の病気のことをよく知らされず孤立してしまう。それをなんとかしようと患者や関係者のつながりを作ることを呼びかけ、日本ALS協会という組織が発足するのに力のあった人で、一九九四年に五三歳で亡くなった川口武久という人がいた。私は『現代思想』(青土社)という雑誌にこの病気の人についての続きものを載せてもらっていて、彼のことを四月号に書いた。
 川口はこの病気の人としては進行がゆっくりで、発病してから呼吸器をつけず二十一年、家族と別れ病院で暮して、そして最後は急性呼吸不全で亡くなった。四冊の著書がある。
 彼は入院した病院を「ホスピス」と考え、「人工的な延命」を拒否し、「自然な死」を望むと言った。そして実際最後まで呼吸器をつけなかったのだから、その意志を貫いて亡くなったとも言える。それから約十年がたち、こういう死に方は望ましいこととして広くこの社会で語られている。またどういう死に方であれ、本人が決めたことであるからそれは受け入れるべきだということになっている。
 ただ、彼の書いたものを読んでいくとまったく単純ではない。まず彼は医療を受け、食べるにしても普通の方法では食べられなかった。それは人工的な延命ではないのかと自問し、たしかに自分は人工的な手段を使って暮していると認め、そしてそうして生きることを肯定している。また身体がまったく動かなくなっても、意志を伝えられる限り、いや伝えられなくなっても、生き続けたいともはっきり記している。そうして自分の言うことが矛盾していることにも気がついている。また、著書四冊のうちの一冊は小説のかたちをとっているのだが、その中の主人公は、呼吸困難で意識を失った緊急事態への家族の対応として呼吸器を付け、そして意識を回復した後、自らがそれを肯定することになる。すこし何かが違えば、彼はもっと生きただろうとどうしても思える。しかし当初の決定は覆されなかった。
 一つに、呼吸困難やそれに伴う苦しさにつきまとわれ、そして疲れていった。そして様々なことが次第に自分の思い通りにならなくなっていった。むろんだから援助を人に頼む。しかし彼は病院を自らが死ぬまでの一時期の場所として選んだという思いもあり、生きるために必要なことをなんでも要求するのはためらわれた。結果的に遺書になった文章が残されているのだが、そこには呼吸器の装着を断わることを繰り返した後、「私の考えは間違っているかもしれません。……しかしこれ以上呼吸器を装着して、ご迷惑をかける訳にはいきません。」とある。彼は前向きな人で努力家であり、またそういう時代と社会に生きた。それは他の患者のための活動に向かわせたものでもある。しかし自分のことになると、人に「迷惑」をかけまいとし、自らの否定に向かってしまった。
 それでも彼は自らのためらいを文字に残したからそれを私たちは知ることができる。しかしそうでなければ、せいぜいすっきりした潔い「決定」と、その決定通りに事態が運び終わったことだけが残される。それで周囲はそれでよしとする。そんなことがおびただしく私たちのまわりに起こっている。

(下)

 迷惑をかけないことは立派なことではあるだろう。だがこの教えは反対の事態を必然的に招く。それを他の人に要求するなら、周囲に負担をかけるようなことをお前はするなということになる。その分周囲は、他者に配慮するはずだったのに、負担を逃れられ楽になってしまう。自らの価値だったはずのものを自らが裏切ってしまう。
 犠牲という行いにも同じことが言える。誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人に犠牲になることを教えるのは、その人の存在を否定することになり、その価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るのだから、ずいぶん都合のよいことだ。
 だから、正しさ、美しさの語られ方には注意深くならざるをえない。実際に何が何より大切にされているのか。
 とくに「尊厳な死」と呼ばれるものにおいて遣り取りされるのは明らかに不等価なものだ。尊厳を保つためにと言われ、ただ生きているよりもという言い方で説明されるその行いは、なにか精神的に高い営みのように思うかもしれないが、それは違う。
 一つに耐えがたい苦痛が言われる。もちろん身体が痛いのは辛い。しかし苦痛は、医療者が下手でなければ、かなり軽減できるようになっている。すると、言葉の飾りをとって残るのは、身体的にあるいは知的に、自らが何かができなくなるから、できる度合いが減るから、生きるのをやめさせよう、あるいは自らやめようという、それだけだ。
 できるとは、生きていく上で役に立つことができることだ。つまりできることは生きていくための道具だ。できることが少なくなったから生きることを否定するというのは、存在の道具によって存在が規定され否定されているということだ。これは逆立ちしたおかしなことである。ところがそんなことが、その人の周りの人たちによって仕立てられ現実のものにされているし、またその人自らの決定としてもなされてしまうのである。
 一つには、実際に支えがないために生き難いから生きられない、あるいは生きないことにするということである。一つに、生存のために役に立つもの、つまり手段を自力で生み出せないとき、生み出せない自分が生きる価値を否定する。この二つとも、存在のための道具によって存在が支配されている。
 世界にどうしてもその道具が足りないのなら、そのために生きていけなくても仕方がないかもしれない。しかし私たちの世界はそんな世界ではない。少子化・高齢化で人が足りなくなるというお話があるが、よく考えれば、そう深刻になる必要がないことははっきりしている。一人ひとりの存在を認め、そのための道具を各人について用意する。そのために世界にあるものをうまく分ける。このような順序で考えればよい。
 尊厳の問題とはまず単純にそんな問題ではないか。そしてできることであるにもかかわらず、それがなされないことが、尊厳が冒されているという事態の核にあると思う。
 例えば、私たちが新型肺炎で騒いでいる間に、世界中で一日に約八千人の人がエイズで亡くなっている。とくに南部アフリカに多い。それは不可避の悲劇ではない。安く供給しようと思えば供給できる薬を使えば死なずにすむのに、供給されないから亡くなっている。それが悲劇なのだ。
 それに比べればこの国で生じていることはもう少し見えにくいかもしれない。つまり本人の選択として、すこし屈折した形で現われる。ただ、交通事故死よりはるかに多い数の自死の背景には、失業や倒産、仕事絡みの疲労がある。あえて言えば、そんな背景しかないのに、そうなってしまっている。実際に人が生きていくことのできる物も、何もかもこの社会に既にある。その意味で、どこにも危機がなく悲惨があるはずがないにもかかわらず、こうなってしまっていることが悲惨なのだ。
 どんな生き方がよいか知らない。ただの生がたんに肯定されればよい。それを消耗させようとしないことだ。そのために、当たり前のことを当たり前のこととして確認していくこと、本来は可能なことを可能だと言うことができる。そして、その方に現実をもっていくことも、本来は可能なのだから、できる。

『ALS――不動の身体と息する機械』表紙    『希望について』表紙


UP:20030612 REV:20141224  
ALS(筋萎縮性側索硬化症)  ◇『現代思想』  ◇安楽死/尊厳死  ◇立岩 真也 
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