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介護保険的なもの・対・障害者の運動 1

立岩真也 2003/05/15 『月刊総合ケア』13-05
http://www.ishiyaku.co.jp/magazines/care.html
医歯薬出版:http://www.ishiyaku.co.jp/



■予告

 一度で書き切れないが、二つのことを書く。
 一つ、介護保険よりよい公的な制度があり、それを使っている人がいることを知っていた方がよいと思うから、簡単に紹介する。一つ、私は全体がそちらの方に向かっていった方がよいと思うのだが、現在、むしろ低い方に合わせるという動きが出てきている。これはよくないことだと思う。そのことに関わる動きについて述べる。
 一番目について。私は、障害者――といってもほぼ身体障害の人たちに限られるのだが――の動きを、1980年代の中頃からすこし追いかけてきた。その中で介護のことをどうするかは当然のこと大きな問題で、その人たちは考えられることをいろいろとやってきてある程度のものを実現させてきた。そこから見たとき、障害者福祉と高齢者福祉としてなされているものの間に小さくない違いがあり、そして違いがあるだけでなく、違いがあることがあまり知られていないらしいことが気になってきた。もちろん、高齢なだけで介助が必要になるのではなく、高齢の障害者と高齢でない障害者がいるというだけのことで、分けて考えること自体におかしなところがある。ただ、制度上分けられてきたのは事実で、その間に違いがあるのも事実であり、それを知っておく必要はある。なお、(高齢でない)障害者の運動では、「保護」してほしいのではなく「手助け」がほしいのだということで、「介護」でなく「介助」という言葉が選ばれることがあるので、以下後者を使う。
 二番目について。「支援費制度」への移行に伴い、ホームヘルプサービスに「上限」を設定するらしいという話が流れたのがこの1月9日だった。これはきわめて深刻なことと受け止められ、事態がいちおう収拾される月末まで、一部では大変な騒ぎになった。しかし「上限問題」と言われてもなんのことかわからないかもしれない。実際、介護保険では上限がきちんと存在する。あって当然ではないかという受け止め方があるし、マスメディアの及び腰の論調にもそのことはうかがえた。あの騒動はいったいなんだったのか、それをどう考えたらよいのか、これは次回に述べる。

■公的・在宅サービスだけで暮らす

 まず在宅で、最大限24時間の介助が社会福祉サービスとして行われている現実を多くの人は知らない。たしかにほとんどどこにもそんなことは書かれていないのだが、事実である。これは、障害者、とくに脳性麻痺などの全身性障害者の人たちが長年かけて厚生省(現・厚生労働省)や自治体と交渉してようやく獲得してきたものである。
 施設で暮らすのはいやだ、しかし家族の世話にもならない、そういう当たり前の暮らしをしようという動きがある。その暮らし方を「自立生活」という言葉で表現したりする。それがいったいどんなものかについては、まず、私も著者の一人として加わった安積純子他『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店,増補改訂版1995年)を読まれるとよい。ただこれはその考え方や流れを知るにはよいし、後述する制度の経緯と概要も記してあるが、発行後のことは当然ながら書かれていない。そして本稿は短い。私のHP:http://www.arsvi.com→「立岩」→この文章の題のファイルから各種関連情報や今まで書いた文章などにリンクできるようにしたので、ご覧いただければと思う。
 さて、この「自立生活運動」と呼ばれる動きは1970年代に始まる。ただ、当時は公的なサービスといっても、せいぜい1日2時間・週2日のホームヘルパー派遣ぐらいだったから、それでは重度の障害者はとても暮らせなかった。それで多くは大学生などのボランティアを介助者として暮らすことになった。しかしボランティアはそうたくさんいないし、学生は毎年卒業していく。介助者を確保していくのはとても大変なことで、その生活は綱渡りのような不安定なものだった。そして、わずかな人数ならともかく、多くの人が地域で暮らそうとしたら、さらに難しくなる。
 そして、介助が必要な人には介助を得て生きていく権利があるなら、その権利を実現する義務が社会にあり、その人を支える義務はすべての人にあるということだ。ならば、一部の人だけがボランティアとして参加するのでよしとするのはおかしい。みなが支える、具体的には費用を払える人はみな払うというのが当然ではないか。このことからも公的な保障が求められる。それで2つあるいは3つの制度が獲得あるいは拡充されてきた。

■生活保護の他人介護加算

 一つは生活保護である。日本は生活保護の利用者がとても少ない数に抑えられている国なので、多くの人にとっては関係ないと思われるかもしれないが、それでもこれは依然として社会保障・社会福祉の根幹にある制度ではある。そして高齢者にも、生活保護を利用できそして介助が必要な人は現に利用している人よりかなり多くいるはずだ。
 その生活保護にはいくつか加算があるのだが、その中に「介護加算」があって、それがいわゆる「家族介護加算」と「他人介護加算」に分かれる。このことまでは知っていても、その「他人介護加算」に「特別基準」と呼ばれるものがあることは、生活保護のケースワーカーの多くも知らない。
 これも1970年代に当時の厚生省との間でいろいろと交渉があった末に認めさせたものであり、その後約30年の間に額が増え利用者が拡大してきた。いまこの特別基準の他人介護加算は、都道府県知事の承認を要するもの、厚生労働大臣の承認を要するものと分かれている。支給額は地域によってすこし異なり、後者で最高月20万円、までには達しないぐらい。これは生活保護の受給者に現金で支給される。介助の利用者が設定した時間で割って使えるから、介護保険に比べ同じお金を――もちろん時間当りの単価を下げればだが――ずっと長い時間のために使うことができる。
 大臣だとか知事の承認というといかにも面倒そうではある。たしかに手続きはそう簡便ではない。しかしとんでもなく複雑で困難というほどでもない。そしてこれまでこの制度を使って介助を得てきた人たち、具体的には後でふれる「障害者自立生活・介護制度相談センター」が、申請の仕方などについての情報を提供している。

■介護人派遣事業/ホームヘルプ

 もう一つは「(全身性障害者)介護人派遣事業」である。これは東京都が1974年度から単独で始めた「重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」が最初のものだった。当初は4時間が月に3回といった制度だったが、次第に拡充され、1993年度に毎日サービスを受けられるようになる。
 そしてこの制度は全国に広がっていった。多くは脳性麻痺などの障害者の運動があって作られていったのだが、他に私が知っている例では、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちが交渉してできた山梨県の制度がある。
 そしてこの制度は、ほとんどの自治体では自治体単独の事業として始められたのではなく、法制度上はホームヘルプサービスの一部に組込まれることになった。この制度なら市町村の負担は4分の1なので(国が半分、都道府県が4分の1)、市町村としては支出が少なくてすむ。また既にある制度だから、行政側の要綱等の変更で実現可能で、より容易に行なわせることができ、実施までの手間がかからないのである。
 そしてもちろん、この派遣事業が屋根を借りているホームヘルプサービスの制度が、障害者の介助の基本的な制度であり、その拡充がずっと求められてきた。これはながらく週4時間とか6時間という制度だったのだが、週18時間を上限とするという厚生省発の文書を1992年に事実上撤回させ、むしろ厚生省から自治体にサービスに上限を設けない方向で指導させるというところに持っていった。こうしてホームヘルプサービスの量が拡大し、そして、法制度上はこの中に含まれる介護人派遣事業が広がりそして拡充されてきたきたのである。
 こうして、どれか一つのというのでなく、いくつかの組み合わせた結果としてではあるが、最大1日24時間の介護を得られる地域が、私の知る限りでは1993年に現われ、徐々に拡大してきた。最初は立川市など東京の西部地域だったが、制度の拡充は必ずしも大都市の予算規模の大きなところでだけ実現したのではない。辛抱強く自治体と掛合ったところで作られ大きくなっていった。
 私たちはそのことを先に紹介した『生の技法』に書いたが、教科書の類いに載っているわけではないから、多くの人はこのことを知らない。そしてこのことには、この運動が、法律を作る、議会を通すといった表玄関から入る運動――それで簡単に目標が実現できれば苦労はしない――というより、個別に直接障害者福祉の担当者と交渉して作らせてきたという経緯も関係する。

■情報が制度を拡大させた

 短くするとこういうことになるのだが、それは長い道のりだったし、地域間に大きなむらが残っていた。役所も知らないし、当人も知らない。まず介助の必要な人がを知り、役所が知らないものが制度的に可能であることをうまく知らせ、説得する手だてがいる。それを各地の人たちが獲得することで全国に制度が広がる。
 そこで大きな役割を果たしてきたのが、情報を提供し、具体的な交渉の仕方等を伝える組織である。「全国公的介護保障要求者組合」という組織が1988年に設立され厚生省との交渉などにあたっていたのだが、97年にこの組織は2つに分かれる。「組合」の方も活動を続けるのだが、分かれた方は、一つに運動・交渉団体としての「全国障害者介護保障協議会」、一つに相談を受け情報を提供する組織としての「障害者自立生活・介護制度相談センター」の2つに活動を分け互いに協力し合うかたちで活動を続ける。相談センターは膨大な情報を蓄積し、会員を募り、『全国障害者介護制度情報』という雑誌――私のHPでも掲載――を月刊で発行し続け、HPから情報を提供し、フリーダイヤルでの電話相談等を行なってきた。こうして、切実に介助を必要とする人の多くがこの組織を利用し、利用者が制度のことを一番よく知っている(が、他の人はあまり知らない)という状態がもたらされた。

■供給・利用のかたちを変えた

 介助サービスの量的な拡大を求める運動とともにもう一つなされてきたのは、サービスを使いやすいものにすること、質を確保することだった。これについてもどうしたらよいものか、試行錯誤、紆余曲折があったのだが、1980年代後半以降、採用され広がっていったのは、自分たちで組織を作ってサービスを提供するという戦略だった。その組織は「自立生活センター」と自らを名乗った。「CIL」とも略される。
 この時期、利用者と「有償ボランティア」とも称された人たちを登録し両者を媒介する非営利民間の組織が多く現われた。「住民参加型在宅福祉団体」などど呼ばれたものである。自立生活センターは、こうした組織の運営を勉強し取り入れながら、それとはまた違いもある組織を作った。
 基本的な違いは、その組織の構成原理として、利用者が主体になること、つまり障害をもつ人が組織の運営者の過半数を占めることを掲げたことである。利用者が運営に携われば、何が必要で何が余計なことかわかるだろう、利用者にとってよいサービスが提供されるだろうというのである。
 もう一つは、自分のあるいは家族のお金をやりとりしてやっていこうとは、また会員の相互扶助でやっていこうとは考えなかった、また(お金がないのだから)考えられもしなかったことである。この運動は、先に述べた介助サービスの量の拡大、そのための予算の拡大要求と一緒に進んできた。公的なサービスがない部分のすきまを仕方なく埋めるというのではなく、お金は税金を使う、その税金を使って使いやすいサービスの提供に関わるのは自分たちだという路線をとったのである。
 自立生活センターの数は年々増え続け、1991年には「全国自立生活センター協議会」(JIL=ジル)という全国組織が誕生する。介助サービスはその事業の一部だからこれにそう力をいれていないセンター、いれられていないセンターもあるが、JILに加盟する組織の数はこの1月現在で117になっている。
 ただなんでも組織がなければならないと考えたわけでもない。組織がないところもあるし、また、組織があること自体が常に最善だとも考えたのでもない。組織は自らを維持しようとするだろう。それは利用者に利益をもたらすとは限らない。個人が介助者をコントロールできるなら、組織が介在する必要かなくなるか少なくなる。
 そもそも介護人派遣事業は、自分が介助者とする人を登録してその人に介助の仕事の対価が渡るシステムだった。ホームヘルプサービス全般でそのようなかたちを実現しようとする動きも出てきた。「自薦登録ヘルパー」といって自分が選んだ人をヘルパーとして市町村や市町村が委託している団体に登録し、その人はヘルパーとしての賃金を受け取るというかたちをとるというものである。
 こうして障害者の運動は、介助サービスの公的な保障を求めながら、サービスが使いやすく自らによいものとなるように、サービス供給の実際を自分たちの組織があるいは自分が担うという方向で進んできた。少なくとも後者について高齢者の場合には難しいと思うのはもっともだが、しかしこの部分でも参考になる部分はあると考える。このことについては後述する。

■介護保険には乗れない

 このような約30年間の動きがあったのだが、他方で介護保険が2000年から始まった。これにどのように対応すべきかは当初微妙だった。
 もちろん、年齢によって区別をすべき根拠は本来はなく、その意味ではいっしょでかまわないということになる。もう一つ、これはサービス供給については全国共通の制度だから、地域間の格差が解消され、サービスの水準が底上げされるならよいかもしれない。そうも考えられた。
 ただ、制度の実際が明らかになってくるにつれて、これには乗れない、乗らない方がよいことがはっきりしてきた。施設サービスはともかく、高齢者に対する在宅福祉サービスはたいてい非常に低い水準であったから、それに比べれば、介護保険は前進だったかもしれない。しかしさきに述べてきた障害者にとってはそうではなかった。
 一方で最大24時間を実現してきたのに対して、介護保険では最も重い等級と判定されても訪問介護だけなら1日2〜3時間しか利用できない。そして、要介護認定のテストを自分に当てはめてみると、十分に重度で長時間の介護を必要とする人の多くも、その判定基準ではその時間さえ確保できないことがわかった。介護保険でやっていくことは、端的に介助が減り生活が切り下げられ、これまでの生活が不可能になることを意味した。
 しかし月30何万円といえばそれなりの金額なのになぜそうなるのか。それは、介護保険での訪問介護が、長い時間その人のもとでその要請・必要に応じて仕事するというかたちを想定していないことにもよる。短時間の仕事が一つ終わったらヘルパーは次の仕事場に向かう。だから、移動の時間もかかるし、仕事を複雑に配置する必要もあり、そのための人も手間も必要になる。実際に介護の単価も、事務的な経費や移動のための時間等を含んで経営が成り立つように設定されている。その分時間単価は高くなり、その分同じ額で使える時間は短くなる。それでは在宅で長時間の介助を要する人、介助を使いながら様々な活動をしていこうという人はどうしようもない。
 だから当初、一体化が望ましいのではないかと考えていた人たちも、こんな制度には到底乗れないということになった。もしあのとき、年齢で区切らない制度が提案されたら、そんなものではまったく足りないという、非常に大きな反対運動が確実に起こったはずである。そんなことになったら、そうなのかと人々も思っただろう。既に介護保険の水準を上回る介助サービスが存在しそれを使って暮らしている人たちがたくさんいることを知ることになったのかもしれない。だが、介護保険は、基本的には高齢者(の障害者)専用の制度として始まった。一番大きな声で文句を言うはずの介助を使う側の大きな部分、つまり若い層を制度から外し、直接の利害関係者から切り離したことによって、あとは、いくらかでも介護が楽になるなら、少しでも公的サービスが利用できるならというおとなしい人、保険料は少ないにこしたことはないという人たちが受け入れられるような制度としてできてしまった。そしてあれだけの規模のものがいったん出来てしまうと、大きな変更を加えられるともなかなか思えない。

■事業者にはなっておく

 ただ一つ、利用者がサービスの提供組織を選べるというかたちになっているところは、自分たちが主張しまた実際に行なってきた方向と近いところがあった。
 ときどき間違える人がいるので確認しておくが、公的・社会的な責任があるということと、直接のサービス供給主体として民間組織が参加することとは矛盾しない。むしろ利用者側が選ぶことができることによって、選択肢が実際にあればの話だが、よりよいサービスが得られる可能性はある。そしてむろん、実際に提供者が出てこないときには政治は何もしなくてよいということではない。現われてこなければ自ら供給すべきだし、それ以前に供給主体が現われてくるだけの条件を設定する義務が社会・政治の側にはある。
 政府が「措置から契約へ」といったことを言い出す前から、障害者の側は自分が選んだ人・組織を使えることを主張してきた。たいてい違うことを言う二者がなぜ同じことを言うことになったのかについては、拙著『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)261頁以下に記したので関心のある方は読んでもらいたいのだが、政策側の事情の一つは単純で、財源を所与とすれば、需要の拡大に対応しきれず民間の参入を促すしかないということだった。一方は、自分たちがよい暮らしをしたいから主張した。背後にあるものは同じでない。ただかたちの上では一致した、あるいは一致するように見えた。
 介護保険では、これまでより自らが供給組織=事業者になるのは容易になっている。そして周囲にも介護保険のサービスの利用者はいる。そして先に述べたように巡回型を想定していることもあり事務的な費用が高めになっていて、組織の収入をこれまでより多く得ることができる。そして障害者福祉サービスも、すぐに介護保険に吸収されはしないとしても、事業者との契約という方式が導入されるだろうことがわかってもきた。
 そこで、サービス利用者の意に沿うサービスを提供するため、またそうした事業を行う組織を運営し経営を維持していくため、自らが介護保険の事業者になろうとする動き、事業者を各地に増やしていこうという動きが現われた。それは、他の非営利・営利の事業者が事業を始め地歩を得てしまい新規の参入が難しくなる前に、自らの位置を確保しておこうという動きでもあった。
 そのために、サービスを以前から行ない資金的にもまた知識・経験においてもより有利な位置にある組織による、これからその事業を行おうとする組織・人への支援活動が行われた。「2003年までに要介助当事者によるヘルパー指定事業者を全国300箇所に」というスローガンを掲げ、事業者の立ち上げと運営を支援する全国組織「自薦ヘルパー(支援費支給方式)推進協会」が2000年に設立された。この組織は、介護保険の介護をただ供給するだけでなく、自立生活運動の理念を共有し、障害をもつ本人が組織の運営を担うという自立生活センターの組織形態を有した事業者の設立を手助けする組織である。東京などの当事者団体のヘルパー委託事業や介護保険事業での収益などを集めて発足、事業者になるのを希望する人たちに運営方法を学べる研修システムを作り研修を実施し、各地での立ち上げ資金の助成も始めた。
 次に、これと並行して、利用者個人に対し、自分が選んだ人を介助者として簡単に登録できる仕組みを作り出した。すべての地域で介護保険の利用者だけを見込んだ事業所を立ち上げるのは難しい。しかし利用者は点々と存在する。そこでやはり2000年、「介護保険ヘルパー広域自薦登録保障協会」を立ち上げ、さきに紹介した自薦登録ヘルパーと呼ばれる仕組みを介護保険のもとでも実現しようとする活動を始めた。
 これらはかたちの変化への対応である。それは自分たちのやってきた方向と共通するものがあったから、それに乗った方が得策だという判断があってのことだった。しかし述べたように、大きな問題は量にあった。これがどうなるのか、介護保険の側に吸収されてしまったらかなわない。障害者の側は危機感をもっていた。ただ、「支援費制度」に移行する2003年度からその布石を打って来るだろうとは思っていなかった。おそらくは厚生労働省の直接の担当者たちも思っていなかった。しかしそれが今年の1月に発覚したのだった。それが何を意味するのか。介助サービス全般の今後をどうしたらよいのか。次回考える。(続く)


cf.
◆立岩 真也 2003/03/ 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」
 文部科学省科学研究費報告書『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』
◆立岩 真也 2003/07/15 「介護保険的なもの・対・障害者の運動 2」
 『月刊総合ケア』13-07(医歯薬出版)


UP:20030302 REV:0505
介助(介護)  ◇支援費・ホームヘルプサービス上限問題  ◇立岩 真也
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