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ドゥルシラ・コーネル(Cornell, Drucilla)講演会のための勉強会のためのメモ

立岩 真也 20021110,18,19,20,21,26
2002/11/21(木) 午後4:00〜6:00 会場:学而館2階北側246教室。


ドゥルシラ・コーネル(Cornell, Drucilla)講演会のための勉強会
報告:小泉義之・立岩真也

 *このまったくまとまりを欠いているメモはさらに書き直され、11月29日の報告?コメント?のための文章に引き継がれます。そちらをご覧ください。→報告


 以下おもに、『自由のハートで』([HC]、『正義の根源』は[JC])を読んで
 (目次・引用はドゥルシラ・コーネル(Cornell, Drucilla)のファイルの下の方にあります。)
 文章、論理のつながりはない、です。意味不明のところ多々あり、です。すみません。

 なにか新しい、あるいは突拍子もない、という感じは受けなかった。
 むしろ(きちんとした?)リベラリストという感じ。
 だから、疑問はリベラリズムに対する疑問?*
 *このリベラリズムは財の分配を認めるロールズ(Rawls, John)、ドゥオーキン(Dworkin, Ronald)、セン(Sen, Amartya)、ヌスバウム(Nussbaum, Martha C.)など――むろんこれらの人たちが同じことを言っているというのでないが――のリベラリズム。

1)等しい。性差を無くする という方向 があって、そのあと、
2)(性)差をあるとする という方向 があって、それを受けてさらに
 2)が人々のあり方を固定し、それ以外のあり様を否定してしまうとして批判し、
3)人が、それぞれ自由であるような領域 imaginary domain を保障するのがよい
 だいたいこんな流れ。

 その通りであると思う、ように思う。
 フェミニズムの常套的な近代批判の中に、素朴に疑問に感ずるところがあったはずだ。つまり、批判されるべき言説の中での人間とはすなわち男のことであって(男であるにすぎないのであって)という言い方がなされて、それは歴史的事実としてはその通りなのだが、しかしそれは、例えば人権といった言い方を否定するものではない。人の範囲を限定せず、拡張すればよいということになるからだ。コーネルの持って行き方は基本的にそういうものだと思う。つまり、カント自身は(あるいはヘーゲル自身は…)性差別(主義)者であったが、しかし彼が言っていることは、そのようでないかたちで使うことができるはずだ、という。

 2)の差異の強調、実体化に対しては、フェミニズム内部からとともに、リベラルな立場から批判が当然あるわけで、それに対するリベラリズムの方に寄ったフェミニズムの弁護として機能することにもなる。
 「善」とするものは一人ひとりで異なるのであって、それはそのままに認める。「正」の領域にもっていく。
 「ジェンダー不平等についてのフェミニズムの実体主義的な理論が自由を掘り崩すのではないかという反論をリベラルな分析哲学者が繰り返してき(p.46)たわけだが、これに対抗して私たちは聖域としてのイマジナリーな領域という理念を用いることができる。」([HC:46-47])
 「フェミニストはしばしば、自分の家族観を誰彼かまわず強要しようとしていると非難されてきた。しかし、どの人格にとってもそのイマジナリーな領域が等しく保護されることを要求するフェミニズムは、その反対を行う。」([HC:89])

 しかしどこかずるいのではないかという感じがする。というよりほんとうにうまくいっているのか、と言ってもよい。リベラリズムは可能かという問いだ。

 とても直感的には、その自由が最初に来るのだろうかという疑念、それは認められるにしても全体の一部でないか、そしてその一部であるものを特権化することにおいて、それはすこし息苦しさを伴うものになってしまうのではないかという感覚がある。
 カント的なもの。カントのようにしか言いようがないではないか、とも思う。属性・国境…を超えること、が core ethics の要諦であること。それに異論はない。それでカント、となるのもわかるのだが…。しかし、
 あるいは違和感だと言ってもよい。例えば次のような文章(立岩『私的所有論』第7章「代わりの道と行き止まり」冒頭に引用)を素直に受け入れられるかということなのだが、どうも私はだめなのだ。
 「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得えない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。」(Kant[1784=1974:7])
 "Enlightenment is man's emergence from his self-incurred immaturity. Immaturity is self-incurred if its cause is not lack of understanding, but lack of resolution and courage to use it without the guidance of another. The motto of enlightenment is therefore: Sapere aude! Have courage to use your own understanding!" (Kant [1784=1974:7])

 ◆まずかなり素朴な意味でその主張は実現可能かという問いがある。コーネルの立場、ここでのリベラルの立場は、リバタリアンのように、勝手にやってくれ、ただし(自発的な手助けでない限り)手助けもしないという立場ではなく、自由であるための財の分配を支持するものである。としたときに、すべての多様な自由なあり方のためにどこまでのことができるか。もちろん財は有限である。すると(少なくとも許容されるものの集合については)優先順位をつけることなく「尊重」することができるか。例えば英語とスペイン語ぐらいなら共存させること(以上のことをすること)([JC])は容易だが、論理的には――この論理的にはというのがくせものではあるのだが――もっとずっと多くの言語の並存状況を考えることはできる。そこで通常行われることは、ニーズやなにかに基礎的なもの、必須なもの、……といった順位をつけて、優先順位の高いものについては優先し、といったことをすることである。ただそうするとそれは無限定な自由にとってどうか、という問題が現われる。ヌスバウムはそういう線で行っているように――その「動機」が今述べたきたことだけから発するかどうかについては留保するとしても――思え、それに対してコーネルが疑義を呈するのは理解できるのだが、だとしてここのところをどう考えるか。
 ではお前はどう考えるのか、と問われる。私は、「パンもバラも」という要求([HC:286][JC:13])をまったくその通りと受け入れつつ、有限性というものいいがときに嘘でしかないことを指摘しつつ、同性愛を認めたりすることにそうたいした財が必要であるわけではないことを確認したりしながら、繊細にかつ乱暴に優先順位をつけざるをえないことがあると思い、そしてそれはいわゆるリベラルの論から出て来るのだろうかと、出てくるとしたら(それはある意味で必然的な)密輸入ではないかと、そんなことを思う。

 ◆ただ、これはまだ分配可能なものの分配の問題である。世の中にあるのはすべて右から左に移すことのできるもの――このできる/できないの境界がどこにあるのか、境界をどこに引くのかがまた問題なのだが――ばかりではない。このような場面についてはどんなことになるのか。
 問題は、まずどちらかにせざるをえないような場面に顕在化する★01。一人の人においてであればその人にまかせることもできるが、二人(以上)の人が関わっている場合。
 「自由」がなにをしてもよいという自由ではないと自由を主張する者もコーネルも主張する。つまり他者を害することは(それはその者の自由を侵害するのだから、自由を尊重するべきだという自らの立場から)認められない。それでよいように思える。
 これもまた他者を侵害するから、例えばそれを許容しがたい人たちの気持ちを侵害するから、という理由で否定することもできよう。しかしそのようにだけ考えなくてはならないわけではないし、これにはまた難点もある。加害が条件としてあるとすると、何が加害なのかということになる。その人が大切にしている信念…を否定することもそうであるかもしれない。しかしそれでは、反対する人がいる限り(そしてそれを加害とするなら)なにも認められないことになってしまう。そこで人を害するような意図をもって(いること自体は別としても)それが現実に行為として現われることが否定される。しかしこの条件を置いても解が出ないことはある。
 とすると、ここまではその人の領分というその領域を設定すること。例えば同性愛者が嫌いだという思いがあったとして、同性愛者であるのはその人なのだから、それを他者に及ぼせるのではないと考えることになる。ほぼそのような筋になるはずである。(そしてその領分の設定自体がまったく規範的な行いであり、この部分で分配を認めるリベラリストと、リバタリアンは分かれる。)
 以下のような場面に何かを言うとしたら、何かを言っているとしたら、その道具立てに加えてさらになにか持ってこなければならないのでないか、でないと説明もつかないのではないか。

 ◆一つには、自身に対する加害(と周囲が思うこと)を行う場合における介入を一切認めないのかという問題。つまりパターナリズムの問題。
 人格が自らのこととして引き受けたことについては、それはそのまま認めればよいではないか。コーネルはほぼその線で行っていると思う。ただ、全面的にそのような主張にはなっていない。(自由の尊重という言葉を非常に狭く捉えるのでなければ、自由の立場からもこれは全面的には否定されない。自由を奪うようなその人の選択について、その選択と、その選択をしなければ得られるだろう自由と、どちらがどうなのだろうと思ったりすることがある。)
 例えば「性器切除」については(当地の女性に賛成する者がいるのではあるが)コーネルは明確に反対する。
 「たとえば、性器切除については、自らの性差の文化による承認や自分の信仰にとって不可欠な一部である、と心から信じている女性達がいるわけであるが[…]私は、この慣習を性差の同等評価と調和させる方法は、全く存在しないと思っている。」([HC:287])
 他方では、その人(たち)が選んだことだから、と認める部分もある。
 「自分は自分の信仰ゆえに、たとえばヴェールを着用したり一夫多妻婚に入っていくなど、宗教的ヒエラルキーでの位置を占めるようになっていくと深く信じている女性たちは、どうなるのだろうか? イマジナリーな領域が彼女たちに割り当てる空間は、彼女たちを――ほとんどのフェミニストが、「それは彼女たちの平等と折り合わない!」と言いそうな仕方で――自らの信仰の従うままにさせるだろう。」([HC:286])
 その違いはどこから来るのか。(違いがあってならないと言っているのではない。どこから来るのかと問うている。)
 子どもが問題になっているからには、その子ども自身が選んでいるのではないではないかという線で言っていくという手はある。が、コーネルはこれを根拠にすることはしないと言う。すなわち、性器切除がいけないと「信じるのは、性器切除を経験した大多数が、自分に何がなされたかについて考えたり、反抗したりする道徳的空間を持たない幼い女の子である、という理由によるわけではない。」([HC:287])
 以下がまず答ということになるだろうか。
 「性に関わる存在として、またその他諸々の同一化において、私たちはいかにして自分たちを表現しうるのか、ということについての[…]第一の限界は明白であって、あらゆる形式のあからさまな身体的暴力の禁止である。[…]第二のものは、私が「格下げ禁止」と呼ぶものである。[…]格下げ(degradation)ということで、私が言おうとしているのは、格が貶められている(graded down)ということ、つまり彼女ないし彼が自らの性に関わる存在を表象しうる人格以下のものとして扱われている、ということである。」([JC:39])
 加害は物理的暴力だけに限られないだろう。格下げ。(これらがよくない、非難されるべきだということは、それを法的に禁止すべきだということと同じではない。この辺りのことはコーネルも述べている。)とした場合に、それはなにが「よい」ことであるかの判断ではないのだろうか。そうではない、すなわちその人の特定の「よい」あり方を支持するのではなくて、様々にあることができるような状態を支持するのだと言うだろう。それはわかる。その状態を私も支持する。
 ただ、それに尽きるのだろうか。例えば生存が尊重されるのは、自由であることができるための基礎的な条件であるからだと言う。そのように言える部分のあることを否定しない。しかし、それはただ(例えば切除するか否かの)自由を保障するためになされることなのだろうか。そうではないのではないか。むしろ、切除をしなくてよい方がよいという判断があってのことではないか。自由である余地を(それを選択肢の多さ、幅と解した場合)増やすから、とは言えないのではないか。その人が好むことを行うことができること、その状態を維持することとすれば、違ってくる。
 私にしても「選択」をその議論の中に含めることになる。そして選択とはたしかに自由のことでもある。ただ、それにしても、コーネル自身が自身が公言する立場と比べたときに過剰?な主張をしているのではないかということ、そしてそれをどのように考えるかという問題があること。

 *策として何を許容するかという問題。一方で労働契約に対する法的・政治的介入を認める([JC])。他方で、

 ◆「家族形成」について。関係の形成原理として愛情のようなものをもってくるなら、その関係の外延の規定は不可能であること、このことについて私は[1991][1992]に述べた。それはそれでかまわない。
 それにしても対立する場面、その可能性はある。対立でなくても、優先順位が問題になる場合。そして条件が問題になる場合のその条件を何が与えるのかという問題である。
 性的な関係が恣意を条件として成立することを認めれば――これはそれほど特殊な仮定でないかもしれない――そこで許容されることはその片方の思いを通すことではない。つまり「双方の同意」が要件になる。このことをむろんリベラリストは認めるだろう。そしてそれと「生活」の問題とは分けて考えればよい、税や社会保障については基本的に個人単位で考えればよい。(これを特殊な規範だと言う人はいるだろう。しかしこんなところで相対主義を持ち出すことはないだろう。)
 子が関係してくる場合。2人でも3人でも幾人でもかまわないのだが、そこになにかの関係であることやあるいは1人でいることと、子をそこにおくこととの関係。レズビアンのカップルに認めるべきだとする。それはよい。では単身者についてはどうか。あるいは3人ないし4人、の同性ないし異性の人の集まりについてはどうか。どこにも線を引かないのか、それとも引くのか。引くとしたらそれはその立場と整合するのか。そして対立・競合の場面。
 もちろんここに(ここでも)もってこられるのは加害はいけないという原則だ。代理母については子どもを売り買いすることはできないという。ゆえに金銭を介した契約は無効となる。(売買ではないという主張もある。)他方で、無償の場合には認められる場合があるということになり、私もそれを否定するのではない。
 「売買によって子どもとの関係を得るのではないか親が子どもを手元におくべきである。子どもたちを売買する契約は履行不能である。しかし同時に、代理母制度は人々が家族を作る一つの方法として許容されるべきである。」([HC:229])
 もちろん、うまく折り合いがつけばそれでよい。そしてまた、コーネルも言い、また私もそう思うのだが、どちらか一方だけが親であると決めつける必要もまたない。養子に出したら全部が失われるというやり方でないやり方もあるはずだ。
 「結論として言っておくと、イマジナリーな領域の平等保護の一部として、養子と実母は相互にアクセスすることができるべきである。全ての養子と実親とが登録可能な記録があるべきである。」([HC:197])
 として(これは代理母の場合だけに限らないのだが)、やはり対立の可能性はあるだろう。無償でなされた行いの場合、その産んでほしい人と産んだ人とが対立した場合にはどういうことになるのだろうか。
 ただ一つにはそのようにしても解けない場合があるだろうということ。養子についての対立。私もまたできるかぎりはとやかく言うべきでないと思うから、この立場はわかる。のだが、なにか内容をもってくる、こざるをえないのではないか。
 子について。この場合には、私に「関わること」という論理は通用しない。いずれの人にとっても、私に関わることではあるから。
 とした場合に、「子どもへの長期的コミットメントは明らかに必要である。幼い子どもたちの安定した永続的関係へのニーズを考慮するならば、私たちは社会として、どのように次世代の再生産を規定すべきだろうか。」([HC:216])
 そのように考えときにも、「異性愛者として生きていることによってより善い親になれると考えるべきなんらかの理由があるのだろうか? このことが事実であるという証拠は、ホモフォービア(同性愛者嫌い)を根拠とするものを除けば一切ない。」([HC:215])という。そのとおりだとしよう。
 「子どもたちが必要とする安定性を実現するために、監護責任の引き受けは、現行のもろもろの責任、すなわち経済的支援、移動の制限などを伴うことになるだろう。」([HC:218])
 もちろんそうした条件・資源が必要ではあるだろう。だが必要であるとき、両者とも同じくそれが可能である場合もあるだろう。あるいは可能であるようにできるといった場合があるだろう。そしてまた、二人が争っているとき、経済的により安定している方に委ねるべきであると主張することもできないだろう。
 「子どもを手放すことを強いられた実母は、明らかに自らの性に関わる存在を表現する権利を保護されなかったのである。[…]彼女の権利は生物学的に母であるということではなく、人格性に基づくべきである。」([HC:197])
 「生物学的に…ではなく」はわかる。だが、微妙な差異であり、差異はないのかもしれないのだが、「自らの性に関わる存在を表現する権利」ということであるのだろうか。
 それは、親であることについて言えば、その人に対して(人との関係において)その人が既にあってしまったことということになるのではないか。そしてこれは、そのこと自体においては、自由ではないだろう。当初の目的・予定と異なって、彼女は経験してしまった。それで引き渡すのを拒んだ。それは無償の約束の場合でも同じだ。それで私は『私的所有論』で産んだ人が優先すると述べた。これは必ずしも(遺伝子的なつながりのある「親」はもちろん)産みの親を特権化するものではない。
 子(に対する「権利」)について考えたのだが、子はこのようなことごとの一つのものである。つまり、世界にはそのような様々なものがあり、それを巡って争いが生じてしまうことがある。そのときにどうするか、どうせざるをえないか、あるいは争いが生じないような条件をどのように設定するかということがある。
 感受・経験、あるいは感受・経験のための余白をたもっておくこと、そのことにおいて配分しがたいものの配分が決まる、決めざるをえないということではないか。
 子自身にしても、私が、私がなんであるかを受け取りつつ、なんであるかを気にしつつ、なんであるかを伝えつつ、しかしなんであるかを聞かれないように生まれ育つこと。子自身もまた、その出自において「自由」である必要があるだろう。ただそれは、その空白にその子自身が自らを描けるその条件を与えるためだとだけ言えるだろうか。そうではなくて、その可能性も含めた空白を用意するということではないか。(そのようなことをコーネルもまた言っているから、違いがあるというようなものではないのかもしれないのだが、…。)
 ここまですこし違うのではないかと述べた。それはいずれにという判断自体において異なる部分もあるのもしれないのだが、同じ判断をしても、別の言い方になっていること、しかし別の言い方の方が当てはまるのでないかということだ。
 たいした差ではないようにも思う。ただ、私が言っているのは、その人を決めないというあり方であるが、それはその人が決める(作る)ということをそのまま意味するものではない。(→なお同じだと言われるかもしれない。ならばそれでよいと言おうか。ただ記述はすなおにそのようには読めない。)

 ◆(いまやただ多様な文化の並存と言ってことが済むと思っている人はそうはいないはずなのだが)「多文化主義」等と呼ばれているものについて。それが集合について言われることであるとして、そこには内部における分裂の契機があり、そして集合と集合との間の関係がある。それについて何が言えるか。もちろんこれはずっとある問題であって、コーネルだけに向けられるものではないのだが。このことについてコーネルはバトラーを引いている文章の中でかなり立ち入ったことも書いてはいる。
 例えば(様々ある個々の)善については介入せず、正をという主張を行うことにおいてリベラリズムはメタの立場に立とうとする。リベラリズムは、個別の規範に対するメタの規範であると自らを称することになるだろう。それぞれがよしとするものに(それが加害的でない限り)介入することはしないという。しかしまずその仕掛け自体を認めない立場がある。例えば政教分離を否定する考えがある。このときにはリベラリズムはそれを否定するのか。それはなぜか。あるいは別のどんなことを言うのか。
 一つに、ある集合の中にあって、その多くの成員と意見を同じくしない人がいる。また女性の自由、権利、生存(という立場)と宗教の教え(を至上のものとする立場)等々が対立する場合にはどうなるのか。
 ここにあるのは、今まで見てきたのと(より複雑にはなっているが)基本的には同じものである。
 一致しない部分があること、彼女自身はそれに賛成しない部分があることを認めながら、しかしそれは尊重されるべきだとする。それではそのままではないか。一つにはある種の楽観である。もちろんそれを楽観的である(にすぎない)と言うことはできるだろう。しかし、そのようにしか言いようがないようにも思える。まったく固定されたものとして捉えられるとき、和解の可能性は見えないような気がする。しかし、そう考えなくてはならないことはないではないか。宗教にしても実際に不変であったことはない。多くの教えは様々に解釈することができる。真意はそこにはない、と断定はできないにしても、別様に読むことは(多くの場合に)できる。
 「宗教も静的なものではなく、世界の全ての偉大な宗教は、現在、それぞれの性の視点に関して挑戦を受けているのである。」([HC:281])
 では私はどのように考えるのか。まず私も、すくなくない楽観主義、通約可能性を見込む。それは人が生き続けてきた機構のもとにあったからには、その多くはそうおかしなものでないはずだという素朴なところからまず来ている。
 その上で、仮に(その地において)信じられていたとして、ゆえにそのままにするという立場はとらない。だから完全な相対主義には立たない(立てない)ということだ。これはそれほど驚くような立場ではない。仮想の状態としてならどんな社会の状態も想定でき、そのいくつかは否定されるだろう。その意味で、まず、介入が全否定されることはない。(むろんここでは、どのような手段が適しているか、許容されるかは開かれている。)
 そして集合が集合であるゆえの特別の権利を認めない。それはあくまでその個々において信じられていることにおいて尊重されることがあるとする(その意味で個人主義的な立場だとも言える。)「基本的には」、単位を区切ってその内部に――国家が、ではない――介入しないことを原則とするという考え方はとらないのだ。
 介入はある。その立場はそんなに行儀のよいものではないのだ。(例えばこうも考えられないか。そこには許し難いことがたしかにある。しかし、それについていちおう「自決」を認めることになっている。ときに、しかしなにかを認めないとするときには、それをとんでもない悪者に仕立ててしまうことによってその正当性が調達される。それよりも、最初から、介入の余地をなんらかのかたちで、その根拠と手段の正当性を問いつつ、認めること。)
 としたときに、では、何を「尊重」することになるのだろうか。それはその空間の中で、あるいは誰かと生きていたこと自体であり、そこにおいて何かを信じているというその事実そのものだろう。その信念の内実は、ときに反するのかもしれず、そのことをその人に言うことにもなるのだが、しかしそのことは、それを尊重することを否定するものではない。そのようなあり方だ。それはその人が新しく自分を世界を編成していくことをまったく否定するものではない。そうした自由を認めるし、そのことを言うだろう。
 (個人主義的でないリベラリズムがあるとコーネルはあると書いている。ただそれは、ここで述べたことと少し異なる。)

 ◆決めないことだと私が言うことは、つまりは他者の自由を認めるということであって、結局は同じことだと言えるだろうか。かもしれないのだが、自分を作っていくこと(作っていく自由)を最上のものとは考えない。
 たいへんナイーブな?言い方になってしまうのだが、つまり、違和感は「イマジナリーな領域」という「聖域」「先行する空間」の位置に関わっているように思う。
 すでにその人が存在していることにおいて十分であることを認めることがあって、その上で、作っていく自由がある、あるべきだと言えばよいのではないか。
 自分を表象すること自体が、そのことの自由は認められるべきであるとしても、しかし、それ自体が、自分が世界に在ることと同じような位置にあるものではないということではないか。
 コーネルは今回の講演の原稿の中で、スピヴァックの論を紹介する中で、「ダーウィン主義的なリベラリズム」に言及している。「救済者」を作り出してしまうような、呼び込んでしまうようなリベラリズムについてである。また次のような文章もある。
 「ヌスバウムは、基本的な潜在能力に対する文化的解釈の余地を残そうとしてはしているものの、彼女はこうした潜在能力の正しい内容とその機能を規範として記述できると信じており、したがって、いまだ人間的ではない者たちが、いかにして人間的になるべきかを正確に記述できると信じている。ヌスバウムを暗示的にも明示的にも批判してきたアマルティア・センは、市民権を超えて、かつ市民権に対抗させる形での、自然の人権のこの種の価値序列に対して、はっきりと反対している。」(ドゥルシラ・コーネル(Cornell, Drucilla)「フェミニストの構想力」,岡野八代訳(仮訳))
 このセンの批判、コーネルの批判はもっともなものだ。では、ヌスバウムのように人間(的)であることの「中身」を言わなければよく、それに対して「自由」を言えばよいのだろうか。(ところで分配の問題を考えるとき、中身にふれないことはかなり難しい。)そういうことでもないように思う。
 自らを「自由」に向けて作っていくようなそういう主体であることが、やはり人であることの価値であるような空間が作られていないだろうか。(そんなことを『私的所有論』第7章で述べた。)

 コーネルはその後<喪服の女性たち>について書いている(書き出しはRAWAのこと→cf.アフガン女性と子どもを支援する会)。そこにあるのはたしかに「想像力」ではある。
 「彼女たちは、敵という形姿に還元されてしまった人類は、それでもなお人類であり、決してアガンベンのいうホモ・サケルではない、という判断をわたしたちに呼び起こすからだ。」
 ただその想像とは、『自由のハートで』における想像の領域のそれと同じであると思えない。実際、コーネルは「尊厳とは、pricelessと呼ばれるものの審級に属している」云々、というデリダの文章を引いている。私でも聞いたことがある「歓待」というあり方にそれは関わっているだろう。

 リベラリズムは不思議なものであって、中身のない部分と中身のある部分と両方あって、そしてそれは、私がいま言おうとすることと一致しないのだ。
 リベラリズムはまずさしでがましくないように思える。それはあなたが、と言う。しかし、そのあなたがあなたの領域に領有するもの(その可能性)においてあなたは存在すると言うことにおいて、中身をもち、そしてそのことにおいて「救済者」を作り出してしまうようなものになってしまうのではないのだろうか。
 そこで目指されるのはかたちの定まったものではないのだろう。むしろそれは常に未完成なのだ。それにしても、あるいはだからこそ、それはなにやら強迫的ではないだろうか。(むろんこのように言うことに対して、それは自由である限りはそんなものではないのだと。あくまでそれは権利なのであって、と言うには違いない。ただ)

 それに対して私が言おうとするのは、留保せず存在を支持すること。これは、まずその相手の側の属性をとやかく言わないことにおいて無内容なのだが、しかし、その存在・生存を(その自由の尊重を唯一の理由として、ではなく)支持すると述べること自体において内容を持つし、ときに、さしでがましい行いでもある。
 女性であること、国民であること、等々は、解析されること(によって解体されること)だ――その作業において想像力が行使される。しかし代わりに何かが作られなくてはならないのではないし、さらに、そのことにおいて、人であることができる、というように拡張されてはならない。その意味で、ただの人であることにおいて認めるという次元がある。ただそれは中身を持たないかと言えばそうではない。
 世界にあってまったく受動的である(ただこれも感受している、のは確かなのだが)ようなあり方、世界を作ったり自分を作ったりはしないようなあり方もあって、その関わり方において、その経験において、その人のもとに置かれるものが定まる。決めざるをえない――それ自体は好ましいことではない――ときには、その切実さにおいて定めざるを得ないことがある。

 コーネルが imaginary domain を言うのは、つまり決めつけられてきたからであって、それは嫌だと思ったからだ。それはもっともだ。そして、聞かれれば、自由な自己表象・自己構築に人が必ず向かわなくてはならないと主張しているのだととは言わないだろうと思う。むしろそういう強迫は否定すると言うだろうと思う。しかしとくにやっかいな問題に至ったときの選別の基準としてこれを立ててしまったときに、それでよいのだろうかという問題が現われる。そうして考えていくと、そうした自由を含む、無規定にとても近い、しかし内容をもたないのではないそういうあり方を、あえていえば「善」として、立てることになるのではないか。私はそんなことを述べたかったのだと思う。

★00 そしてこう規定すれば「共同体主義」もまた単純な対立関係をとるものではないことは明らかだろう。実際、コーネルもテイラーを何度も肯定的に引用している。
★01 どんなときにその理論は違う、と私たちは言うだろう。一つに(解決すべき)問題を解決できないとき。なんとか使えるものであってほしいと思うことがある。一つに、考えるのと(正しいと思うのと)違う答が出てくるとき。
 ただ一つめについては、解決できない問題だとすれば無理を要求しているとも言える。また二つについては、私が思う正解とあなたが思う正解と異なることもある。すべての人が支持しない(正しい答と思わない)正しい答があると言うこともできる。だから決定的な、確定的に判断できる条件ではないのだが。

cf.
◇立岩 1991/07/**「愛について ―近代家族論・1― 」
 『ソシオロゴス』15号,pp.035-052 (1991年7月) 70枚
◇立岩 1992/10/**「近代家族の境界 ―合意は私達の知っている家族を導かない― 」
 『社会学評論』42-2,pp.30-44,日本社会学会 55枚
◇立岩 1997/09/05『私的所有論』
 勁草書房,465+66p.,6000円+税

●著書

・Seyla Benhabib, Drucilla Cornell, ed., Feminism as Critique: Essays on the Politics of Gender in Late-Capitalist Societies, University of Minnesota Press, 1987.
・Drucilla Cornell, David Carlson, Michael Rosenfield, Hegel & Legal Theory, Routledge, 1991.
◇Drucilla Cornell 1991 Beyond Accommodation: Ethical Feminism, Deconstruction, and the Law, Routledge
◇Drucilla Cornell, Philosophy of the Limit, Routledge, 1992.
・Drucilla Cornell, David Carlson, Michael Rosenfield, eds., Deconstruction & the Possibility of Justice, Routledge, 1992.
◇Drucilla Cornell 1993 Transformations: Recollective Imagination & Sexual Difference, Routledge
◇Drucilla Cornell 1995 The Imaginary Domain: Abortion, Pornography & Sexual Harrassment, Routledge, 1995.
 'Dismembered Selves and Wandering Wombs', "The Imaginary Domain"Ch.2, Routledge, 1995=1998 「寸断された自己とさまよえる子宮」、『現代思想』26-8, 82-105,青土社,1998年
・Drucilla Cornell, et. al. 1995 Feminist Contentions: A Philosophical Exchange
◆Drucilla Cornell 1998 At the Heart of Freedom: Feminism, Sex, and Equality, Princeton UP=2001 仲正昌樹他訳,『自由のハートで』、情況出版、本体3200円、ISBN4-915252-52-3
◆Cornell, Drucilla 2000 Just Cause: Freedom, Identity, and Rights Rowman & Littlefield=20020720 仲正昌樹監訳,『正義の根源』,御茶の水書房,328p. 3200 ※


UP:20021110 REV:1116,18,19,20,21,26(更新終了)
ドゥルシラ・コーネル(Cornell, Drucilla)  ◇立岩 真也
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